第3話 片想い

 1.


 人生における目標を見つけた里海は、今までの「ほどほどに生きられれば良い」という倦怠が嘘のように、精力的に動き出した。


 父親の話によると、本家の婿取りは近い血縁で結婚出産した場合の弊害を考え、親族の中でもなるべく遠い血縁の者を選びたいと考えているらしい。

 年頃や家格を考えたときに、里海が最適だと父親はそれとなく匂わされていたのだ。

 親族内を見回しても、自分以上の候補となりそうな人間はいなかった。

 だが油断は出来ない。

 何しろ「神さま」の座を手に入れるのだ。

 どこで何が引っかかりとなり、思わぬ物に足下をすくわれるかわからない。


 里海は異性関係を始め、身辺を身綺麗にし、周囲の評判が良くなるように努めた。

 一族内の後押しが何より重要なので、親族の集まりには必ず出席し、有力な人間には進んで交流を求めた。

 一族の中には、「禍室」に足繁く通っている人間もいた。内心では腸が煮えくり返る思いがしたが、そんな思いはおくびにも出さず、にこやかに相手と手を結んだ。

 自分を本家の婿にしてくれればその恩は忘れない、と何人もの人間に仄めかした。


 大学では勉学に励み優秀な成績を修め、ゆくゆくは司法試験を受けて弁護士の資格を取るつもりだった。

 本家の当主になれば、むしろ「仕事」という俗なことには携わらないことが求められるが、資格があったほうが婿として箔がつく。

 法的な知識や資格は、縁を守るためにも役に立つはずだ。

 性格は円満穏やかで癖がなく、人の機微を察するのがうまく品行方正で誰にでも好かれる。知識が豊富で時事にも通じ、他の人間の意見を柔軟に取り入れられるが、いざとなれば自分の意見を主張することが出来る聡明さがある。


 里海は自分が演ずるべき役割を完璧に演じた。

 世間を相手にするゲームにこれほど真剣に挑んだのは、生まれて初めてだった。



 2.


 その一方で「禍室」に足繁く通っていた。

 九伊の名前を持たない里海は、「入室」を後回しにされることが多々あったが、その分縁に会えた時の喜びはひとしおだった。


 縁は里海に対しては、常に傍若無人に振る舞い、最低限の礼儀さえ守らないこともあった。それでも里海は縁の側にいるだけで幸せだった。


「禍室の勤めさえ果たせば文句はないだろう」と言わんばかりの人も無げな態度の縁の気を引くために、里海は様々な話をした。

 どの話題も気のない風に聞き、生返事すら返さない縁が、唯一興味を示す話題があった。


「縁、僕は本家の『神さま』のお婿さんになるかもしれないよ」


 そう言ったとき、縁は驚いたように振り返った。

 縁の青みを帯びた黒い瞳が自分に向けられた瞬間、今まで感じたことがないような喜びと切なさで胸がいっぱいになる。息が詰まって死なないことが不思議なほどだった。

 里海は恍惚とした表情で縁の整った容貌を眺めながら、言葉を続けた。


「本家の当主が体調が良くないらしくてね。もしもの時のために、内々に婚約だけでも、っていう話になったんだ。それで僕に白羽の矢が立ったってわけ」


 婿取りの話は、うまく里海の下へ回ってきた。

 そうなるように、この二年間、血のにじむような思いをしてきたのだ。それがようやく手を伸ばせば届く距離まで来た。

 それもこれも、縁をこの「禍室」から連れ出すためだ。

 里海は満足そうな表情で縁の顔を見下ろしたが、縁の耳には里海の話の後半部分はまるで入っていないようだった。


「名前……」

「えっ?」

「名前は……何て言うんだ?」


 何を聞かれているかよく分からないという里海の顔を、縁は苛立ったように見た。


「『神さま』の名前は、何て言うんだ?」


 里海は戸惑ったまま答える。


その。九伊苑」

「『その』……」


 縁が呟いた言葉に含まれる響きが、里海の胸に鋭い痛みを与えた。

 それが何故か分からず、里海は縁の顔をジッと見つめる。


「そいつ……苑、とかいう奴は」


 縁は呟くように言った。


「『禍室』のことを何か言っていたか……? 俺のことを……何か……」


 不安とそこから僅かに覗く期待に、頬が僅かに染まっている。

 こんな縁の姿を見るのは初めてだった。

 里海は少し黙ってから言った。


「何も言っていなかったよ」


 縁は顔を上げて、食い入るように里海の顔を見た。

 里海は顔を背けて言った。


「苑さんは『禍室』のことは何も知らないみたいだ。今の当主は……苑さんの父親は、そういう話から苑さんをなるべく遠ざけているみたいなんだ」


 縁は表情のない顔でジッと里海の顔を見て、言葉を落とした。


「何も……? 苑は俺のことを、何も知らない、のか……? 俺がここにいることも……?」

「それは……一応、僕が話したけど……」


 縁の瞳に、自分の顔から何かを必死に読み取ろうとしている光が浮かんでいるのを見て、里海は驚いて口を閉ざした。

 里海の反応を見て、縁は自分が余りに無防備に自分の内面をさらけ出しすぎたことに気付き顔を背けた。


「苑さんは、君に申し訳ないって言っていたよ。僕が本家に君を引き取りたいって言ったら、ぜひ、そうして欲しい、って。僕に君を幸せにして欲しいって」


 俯いている縁の肩に、里海は我知らず手を伸ばそうとする。

 その瞬間、縁が顔を上げた。


「申し訳ない? そう思うなら、何で俺のところに来ないんだ?! 何が幸せだ! こんなところに人を閉じ込めておいて」


 縁の美しい容貌は、怒りで青ざめていた。

 その姿がいつも以上に美しく見え、里海はしばし見とれた。

 里海が見ていることに気付き、縁は唇に嘲るような笑いを浮かべようとしたが、その動きはひどくぎこちなく、口の端が僅かに歪んだだけだった。


「お前との婚約が決まれば、苑は『穢れ払い』に来る。その時が楽しみだな。何も知らない良家のお嬢様なんだろう? 想像もしたことがないような目に合わせてやる……!」


 露悪的に呟くその様子が、ひどく痛々しく見えた。

 その後も縁は、まるでうなされているかのように「苑が来たら何を言ってやるか、どんなことをしてやるか」を話し続けた。

 その言葉を途切らせたら世界が崩れ落ちるとでも言うかのように、ひたすら言葉を紡ぎ続けた。

 余りにいつもと様子が違うので、見ている里海のほうが不安になるほどだった。


「君が九伊家を恨むのはよくわかる。当たり前だと思うよ、でも、苑さんが悪いわけじゃないからさ」


 里海は溜まらず、宥めるように口を挟んだ。


「苑さんは、内気な普通の女の子だよ。ご令嬢っていう感じじゃ全然ない」


「どちらかと言うと余りパッとしない子だよ」と苑のことを思い浮かべて言いかけて、里海は縁がピタリと口を閉ざしていることに気付いた。

 里海の言葉を全身で聞き取ろうと耳を澄ましていることが、気配でわかる。

 里海が口を閉ざすと、縁は取り繕うように言った。


「つまらなそうな奴だな」

「あんまり喋らないんだよね。暗くはないんだけど、静かっていうかさ、あの年頃の女の子にしては珍しいよ。お付きの女の子のほうがよく喋るよ。学校の寮でも部屋が一緒らしいけど」


 里海はふと思いついたように言った。


「……写真、持ってこようか?」


 神事を行う「禍室」の内部には、私物……デジタル機器は持ち込めない。写真ならば許可が出るだろう。

 何か憎まれ口を叩くのか、と里海は思ったが、暗に相違して縁はその場でジッとしていた。

 その顔には答えがわからない問題を解かなければならない子供のような、今にも泣き出すのではないかと思うような表情が浮かんでいた。

 胸が締めつけられるような心地がして、里海は思わず言った。


「憎い『神さま』がどんな娘か見たいだろう? 今度持って来るよ」


 里海のほうを見た縁の顔は、明るく輝いていた。

 里海はよく縁に贈り物を持ってきたが、大抵のものは面倒臭げに突き返されるか、無言で受け取るだけだった。開けた形跡もないまま、部屋の片隅に放置されていることもあった。

 こんなに嬉しそうな表情を見るのは初めてだった。


「まあ……興味はあるな。俺は苑のせいで、こんな目に遭っているんだからな。どんな奴か見てみたい」

「……うん」

「……背はどれくらいなんだ?」


 少し考えてから里海は言った。


「女の子の中でも小さいほうじゃないかな? 僕の胸くらいしかないよ」


 縁は里海の前に立って、胸のあたりに手をかざした。


「これくらいか。神さまの癖に小さいな。俺だってそんなに大きくはないが」


 縁はまるでそこに本当に苑が立っているかのように、里海の胸のあたりをジッと見つめた。


「……そうか、これくらいか」


 僅かに頬を染めながら自分の胸に手を当てる縁の姿を、里海はただ眺めていた。

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