第9話.突然そう言われましても
「天使のおねえさんにキラ君、こっちです!」
カイン君に導かれ、私たちはマニラス伯爵家の立派すぎる屋敷の中をバタバタと走っていた。
私たちが馬車から降りたときは、伯爵家の使用人らしい方々はみんな呆気に取られていたのだが、カイン君が「この人がボクの指のささくれを治してくれた天使のおねえさんです!」と説明すると、なるほどと納得して道を空けてくれたのだった。
(まぁ、ささくれは放っておくと痛いものね……!)
とにかく大きすぎる屋敷の階段を駆け上がり、奥の部屋に辿り着くと――カイン君はノックも無しに扉を開け放った。
「にいさん!」
その瞬間、私の背筋が凍る。
(――瘴気が濃い!)
伯爵家の領地が近づいていたときから、薄々と感じてはいたけど。
このあたり一帯の、瘴気の気配はかなり強いようだ。数日前からこんな調子だとするなら、この近くに住む人々はかなり辛いのではないだろうか。
そんなことを思いながらもどうにか部屋の中に踏み出すと。
ここは病人の看護に使われる部屋なのか、置かれた家具は大きなベッド一つきりで……そこにひとりの青年が横たわっていた。
カイン君とは色味が異なる、少しくすんだような金髪の青年は額に汗を掻き、力なく目蓋を閉じている。
赤黒い染みが滲む包帯を巻かれた裸の左腕には、闇色の禍々しい痣のようなものが浮き出ていた。
(ただの怪我じゃない。魔物に襲われながら、瘴気にも触れてしまったのね)
確かにこの傷では、回復術士では癒すことはできないだろう。
瘴気という膜が出来ているせいで、治癒魔法が肉体まで到達せず阻まれるのだ。
彼を看病していたらしい年嵩のメイドが慌てて立ち上がる。
「坊ちゃま、この方達はいったい――」
「ささくれを治してくれた天使さまとその友だち!」
「なるほど。この方たちが!」
どうやら伯爵家での私の知名度は爆上がりのようだ。
私は壁際に控えてくれたメイドに頭を下げ、ベッドの傍へと膝をつく。
さっそく、青年の左腕に向けて両手をかざす。
「『アナリシス』」
すると包帯の上から、大量の闇色をした球が宙に浮き上がってきて――その全ては、私の両手の中へと吸い込まれていく。
メイドが「ひいっ」と怯え、カイン君も目を見開いているが……彼は私を信用してくれているのか、何も言わない。
「やっぱりキモいよな……」
なんかキラが陰口を叩いている気もするが、ひとまずはそれも無視だ。あとキモくはない。決して。
(お兄さんの痛みを、理解する……)
お兄さんというか、明らかに私より五歳くらい年下の気がするが……細かいことは気にしないでおこう。
カイン君は、自分を庇って兄が魔物に噛まれたのだと言っていた。
そのときの記憶は、青年自身の痛みからまざまざと伝わってくる。
並んで道を歩いていた、笑顔の弟の背後に……煌めく金色の光が見え、うなり声が聞こえたこと。
その瞬間、何かを考えるより前に腕を伸ばして、弟を突き飛ばしていたこと。
直後に彼の脳内は痛みの色に塗り替えられる。
だが、腰の剣に手を伸ばして、自らの左腕に噛みつく魔物を突き刺して倒した。
それも、この魔物が自分以外の人を襲わないようにと、痛みに苦悶しながら必死に役目を果たそうとしたからこそ。
(……とても、優しい人)
自分よりもずっと、カイン君のことが大切だったのだ。
だから、今も断続的な痛みに喘ぐ彼の心に後悔はない。むしろ弟を守れた強い誇りと、不甲斐ない自分を責めるような感情が強く伝わってくる。
「…………、」
『ヒール』と唱えようとして、思い直す。
彼の痛みは強すぎる。私の魔力は弱まっているし、『ヒール』で事足りるかは微妙だ。
ならば、とその呪文を唱えた。
どうか元気になってほしい。カイン君を笑顔にさせてあげてほしい。
(――あなたの痛みを、私が塗り替えてみせる)
それから大事なのはもう一つ。
(
「『キュア』!」
瞬間だった。
屋敷全体を包みかねないほどの黄金色のひかりが、溢れ出して――視界を大きく覆った。
けれど私は目を閉じない。ただ彼のことだけを一心に見つめる。
ひかりは彼を取り巻く闇のモヤを一瞬にして消し飛ばし、我先にと彼の傷口に向かって飛び込んでいく。
夥しい量の血の染みは、次第に跡形も無く消えていって……それから、一分ほどは時間が経っただろうか。
ようやく黄金色の煌めきが収まり始めた頃、複数人の話し声と足音が背後の扉の近くで止まった。
「カイン、今のひかりは……!?」
振り返ってみると、上品な美貌の女性と、その人に肩を支えられたこれまた美形の男性が立っていた。
おそらく、カイン君たちの両親だろう。私は不安そうな彼らにそっと微笑んだ。
「安心してください、ご子息の怪我は――」
言いかけた私は、中途半端に口の動きを停止させた。
恐る恐ると首を回し、視線を落とすと……なぜか私の両手を――彼の手が強く握り締めている。
そう。
横たわったままの彼の、恐ろしく美しい青みがかった灰色の瞳が……熱に浮かされた様子で私を見つめていた。
「え、えっと?」
(この手はなに?)
もしかして、回復したばかりで混乱している?
誰か、おそらくは恋人とかと間違えてしまっている?
狼狽えつつもどうにか手を解こうとするが、びくともしなくて。
私が戸惑っていると、容姿端麗な青年はじっと真剣な眼差しで私を見つめていて。
低く掠れた声で言い放った。
「……美しい人。僕と結婚してください」
そう言い残すと、ぱったりと意識を失ったのだった。
そして、手を握られたまま取り残された私はといえば。
「……………………はい!?」
今さらになってどうにか反応したが――そのときにはもう、穏やかな寝息が聞こえてきていた。
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