さらば最後のひとかけら
「この子ね、ハジメっていうの。漢数字で一って書いて、ハジメ」
望は胸元の赤子を指して言った。
「私の『望』って名前、中国では満月を指すらしいの。日本語にすれば『十五夜』ってところかしら。夫婦で十五夜と十六夜。面白いでしょ?」
「……特には」
「私もあまり、理解できないかも」
二人の反応の悪さに、望はちょっと残念そうに続ける。
「私は自分には何かが足りないと常々思ってたの。でも彼を見てて分かった。私を満たしてくれるのは、旦那だけだって。そして、その最後のピースが、この子」
「……十五に一を足して、ってことか」
「ずっと疑問だった。この瞬間の平行世界観測者の絶対数は基本的に変化しない。なのに、ある時を境にそれが増加した。多分、私のチカラがそれなんだと思う。そして、旦那と愛してると思った時から、さらに変化が起こった。少しずつだけど、実は特異点発生時期が未来へとずれ込んでいるの」
「何だって!」
ここで二宮が一番激しく反応した。
「だから、今日はもう、終わらせるために来たの」
「早く、教えろ!」
周囲の状況が安定しなくなっている。二宮の体力が限界に近付いているのだろう。
「刹那をこっちに」
二宮は一瞬考えたが、仕方なく刹那を解放し、望の方へと向かわせる。
「望…… どういうことなの?」
だが、望は明確には答えずに優しく刹那を赤子ごと抱きしめた。
「刹那…… ごめんね。結局巻き込んじゃって」
そして、そのまま刹那の額に口づけした。
「望!?」
意表をつかれた刹那は、驚きのあまり一瞬のけぞり、望の顔を凝視した。
そして、二人の瞳はお互いのそれを強く映し出した。
刹那は、その姿勢から動けなくなってしまった。眼球を通じて脳をまさぐられるような感覚を覚えながらも、目をそらすことができずに成すがままになる。だが何故かその行為は不自然なものではなく、頭を撫でられる子供のように受け入れていた。
ほんの僅かな時間、二人は間近で強く見つめ続ける形になった。
しかし、当の二人にとっては永遠にも近い時間が過ぎているような気がしていた。脳細胞の一つ一つを綺麗に細分化され、磨かれ、並び直され、不要な細胞を必要な細胞へと統一され、一切の無駄をなくしたうえで新たな細胞を構築されていった。
突如、刹那はすべてを理解した。
「繋がったわね」
「なに…… これ」
「今見えているのが、あなたの
今、刹那の目には空から垂れ堕ちる幾重もの『線』が見えていた。
本来存在するひとつの『可能性が収束する現在を示す時間軸』から、『人の数だけ存在するあらゆる可能性を持つ時間軸』が無数に伸びているのを観測できるようになったのだ。
だが、途中が不自然にくびれている。
「ここ、なんで一度束ねられているのかしら」
「それが『特異点』よ。あらゆる可能性が収束してしまって、あるべき未来へ進まなくなってる。そして、そのくびれ…… 特異点はもうすぐ訪れる未来」
望は離れる。
そして、自分が抱く赤子にも同じように額に口づけし、その子を刹那に見せるように差し出す。
「特異点は決して
「『
赤子が輝く。
ただ、青一色の世界で、それでも美しく眩い光を放ち、周囲を強い光で上書きしていく。
「……くそ、もう」
今まで何とか保っていたチカラが途絶えた二宮の体が濃い青色に染まり、時間軸の外側へと追いやられる。
それに連動し、刹那が観測している『時間軸の束』らがゆっくりと回り始めた。
まるでアナログ時計の秒針がゆっくりと円を描くように、刹那を中心にふわり、ふわりと回転する。
だが、次の瞬間に束の先がさらに細分化されて、消えていった。それに規則性はなく、まるで土から抜いたばかりの巨木の根のように、バラバラと途切れては消えていった。
「な、何が始まったの!?」
刹那は望に向き直る。しかし、彼女はずっと子供を差し出した格好のまま動かない。二宮の方を見ると、彼は既に青い世界の住人ではなくなっていた。今、この瞬間は刹那の時間技術によって構築された世界に置き換わっていたのだ。
ちりちりと脳の奥が焼けるような感覚を覚えると、もう一度自らが生み出した光の根を見る。じわじわと無くなりつつあるその光の筋は、最終的に束ねられた丸い場所と、その脇から生える一本の筋だけになり、それらが徐々に融合してく。
「……!?」
あと少しで融合が終わろうかという時に、刹那に異変が起こった。
(あ、頭が…… 痛い!)
突如脳のすぐ下あたりに猛烈な痛みを感じたのだ。
ところが、それは彼女だけではなかった。同じような症状が望にも表れていたようで、彼女の表情も痛みでひどく歪んでいた。
だが、二人とも直感していた。
この作業が終わるまでは時間技術を行使しなければならない。もし途中で終わらせることになれば、きっと今までの苦労が無かったことになる。
(そうなったら…… 望の苦労が水の泡になる)
(私はまだやり直せるかもしれないけど、刹那はそうはいかない……)
僅かな差、僅かな時間。
創造された新たな「過去」が、今までありえなかった「未来」へと繋がる。
誰も想像できなかった結末は、僅かな刹那の時の中で紡ぎあげられていた。
((……もう少し!))
頭の痛みは増すばかりではあったが、それが二人の行動をやめさせる理由にはなりえなかった。今はただお互いを信じ、お互いが望む未来のために、今できる事だけのために、彼女たちはチカラを振るっていた。
唐突に、光が消える。
赤子の光が消えると、途端に周囲の青さが際立つように見える二人は、最後の力を振り絞り己の役割を全うすべく目の前の光の根に集中する。
二人とも限界までチカラを使い果たしていた。
そして。
綺麗な一つの筋となった時間の線は、再び二つの兄弟線を生み出し、螺旋を描きながら回り始めた。
同時に世界はまた時を刻み始める。青かった世界は色を帯び、先ほどまでと同じように。何事もなかったかのように。
新たな世界に、二人の犠牲を踏み越えて。
「さて、実験を…… 和野君、九重君!?」
終わり
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