第2話
6月。北海道は梅雨がないのでとても過ごしやすい。
僕は退院してから、結構深刻な病気だったのが嘘だったみたいに、とても充実した日々を過ごした。
それなりに友達ができて、何度も遊びに行って。学校に毎日通うことができて、毎回授業を受けて。
学生にとってそれは普通のことかもしれないけれど、僕にとってはその「普通」の日常が、ずっと夢見ていたものだった。僕は本当に幸せだ、と事ある毎に思う。
両親からは未だに「無理をするな」「自分だけの身体じゃないんだから」と口酸っぱく言われている。そして薬は毎日飲まされているし、通院もしている。それでも入院していたときとは自由さが桁違いで、毎日がとても楽しい。
入院中にずっと本を読んでいたおかげか、共通テストの国語では9割以上の点数を取れて、僕は第1志望の大学に入ることができた。
僕の通う大学の図書館はとても広くて立派だ。蔵書数は400万冊くらいあって、きっと一生かかっても読み切れないだろう。ここはとても居心地がよくて、毎日のように通いつめている。
今日もいつも座っている場所に行こうとすると、そこにはすでに1人の女性が、分厚めの本を読んでいた。
日当たりがよくて割と気に入っている席だったので少し残念に思いながら、違う場所に座り、借りてきた本を読む。
女性の読んでいる本があと数ページなのは確認済みだったので、早くあの場所が空かないかちらちらと横目で見ていると、女性はおもむろに立ち上がった。そして少し特殊な、肘と手で体重を支えるタイプの杖をつきながら、ゆっくりと出口へと歩いて行った。
僕はそれを見守ったあと、女性の座っていたいつもの場所に行った。
座ろうとした椅子の下に何かが落ちている。これは……本だ。さっきの女性が落として行ったらしい。ブックカバーはかかっているけれど、その隙間からは何回も、大切に読まれていることが分かる。これは急いで届けに行った方がよさそうだ。
僕は落ちていた本を持って、図書館を後にした。
女性は案外すぐに見つかった。図書館の近くのベンチに座って誰かと電話している。
電話が終わるのを待ってから僕は女性のところに行き、話しかける。
「あのう、この本、あなたのですか?」
……少し話し方がぎこちなくなってしまった。
女性は驚いたように顔をあげ、僕と目が合った。
その瞬間。
どくん。
心臓が跳ね上がった。
なぜだろう、どこか懐かしい気持ちになる。
どくんどくん。
鼓動が速くなる。
初めてのことで、何が何だか分からない。
僕はどうしようもなくなって、ただただ女性の目をじっと見つめてしまった。
「……どこかでお会いしたことありませんか?」
そう言ったのは彼女だった。
「実は、僕も今、そう思いました」
「本当ですか?どうしてでしょうね……」
しばらく2人で考え込んだけれど、全く思い出せなかった。
「あ、そうだ。その本、私のです」
……すっかり忘れていた。僕は持っていた本を差し出す。こけし柄のブックカバーが、こちらに笑いかけているような気がした。
「どんな本なんですか?とても大切に読まれているみたいですけど」
「分かりますか?……そうなんです。私の、たった一人の親友が書いた本なので……ほら、サインもしてもらったんですよ」
彼女は自慢げに、僕に本の表紙を見せた。タイトルは、『個性』。
「あれ、この本、僕も読んだことがあるような……」
「え?これ結構マイナーなんですけど」
「でもどこで読んだかは全く……」
思い出せそうで思い出せない。とてもむず痒い。
「じゃあこれ、お貸ししますよ」
「え、いいんですか?サインもあるのに」
「はい。あなたならきっと、大事に扱ってくれると思うので。なんとなくですけど」
僕は差し出された本を、ありがたく受け取った。
彼女は僕と同い年で、なんと出身地が一緒だった。今は大学に通うために北海道で一人暮らしをしているらしい。
杖をついているのは、中学生のときに東北での旅行で乗っていたバスの事故に巻き込まれ、右足に力が入らなくなってしまったからだそうだ。
その事故は悲惨なもので、乗客38人のうち、死傷者は23人に上った。新聞やニュースで大々的に報じられていたのを、当時の僕も目にした記憶がある。
彼女はそれでしばらく入院している間、暇つぶしにたくさん読んだおかげで本が好きになったらしい。僕と少し状況が似ているな、と思った。
「どう?何か、思い出せた?」
次の日、僕は彼女に借りた本を返した。
「ええと……何も思い出せなかった。ごめん。
……読んだっていう記憶はあるのに」
「あ、謝らなくていいよ。……面白かった?」
「うん。この話は紛れもなくフィクションだけれど、この物語の世界と僕たちが住む世界は少し似ているね。今日常で起きている『差別』が『区別』に変わっただけで。だからとても理解し易かった。
最後のハッピーエンドは少し無理矢理な気もするけれど、それは作者が、誰かに何かを伝えたかったからかな。そんな気がする」
矢継ぎ早に言ってしまったからだろうか。彼女は目を見開きながら微動だにしなかった。
「……ごめん、早かった?」
僕がそう言うと、彼女ははっと我に返った。
「ううん、大丈夫。……立花くんすごい!考察、得意なの?」
「いや、そんなには……でも好きではあるよ」
「そうなんだ。私は本は好きだけれど、そういうのは苦手だから羨ましいな。大学も文学部じゃなくて、国際学部の、ドイツ語科なんかに入っちゃったし」
「それもいいな。日本語のだけじゃなくてドイツ語の本も翻訳なしで読めるから、読書の幅が広がるんじゃない?」
「……確かに。その考え方、いいね」
それからというもの、僕たちは毎日のように会うようになった。図書館の中で1冊本を読み、終わったら近くのベンチで話をする。予定が合えば、夜ご飯を一緒に食べる。
僕は次第に彼女に惹かれていった。……いや、もしかしたら、最初から惹かれていたのかもしれない。
高校生のときは何人かと交際したことはあったけれど、どうしても好きにはなれなくて、どれもあまり長続きしなかった。
自分から人を好きになったのは、これが初めてだ。
僕たちが出会ってから1年がたったある日。僕は決心した。
いつもの時間、いつものベンチで。
「僕と、お付き合いして頂けませんか」
シンプルにそう言って、頭を下げた。
「……顔を上げてくれない?」
そう言われ、僕が恐る恐る顔を上げると、彼女は……涙目になりながら、笑っていた。
「こんなことってあるんだね」
「……え?」
「ううん、なんでもない。……返事をする前に、少し話を聞いてくれるかな?」
「分かった」
「私たちが出会うきっかけになったあの本、覚えてる?」
「もちろん。君の親友が書いたんだよね」
「そう。……実はね、その親友は、中学生のときに死んじゃったんだ。あの事故で」
彼女は一体、何の話をしようとしているんだろう。
どくんどくん。
なぜか心臓の鼓動が、速く、強くなっていく。これ以上聞くな、と叫ぶように。
「ねえ見て、この名前」
「小泉さくらさん?」
本の表紙に書いてある、作者の名前だ。
「この名前、繰り返し言ってみてよ」
こいずみさくら、こいずみさくら、こいずみさくらこいずみさくらこいずみさくらこいずみさくら……
まさか……まさか……
「これが、私の親友の名前。……単純すぎるよね」
彼女はそう言って、悲しそうに笑った。
記憶がフラッシュバックする。文脈が、通っていく。
僕は思わず立ち上がって、そのまま、逃げ出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます