第1話
「これで検査は終わりよ。お疲れ様」
「ありがとうございます」
真っ白なカーテンに真っ白なベッド。真っ白な床に天井。大掛かりな機械が数台。
見慣れた景色ではあるけれど、ここは人間が居ていい場所なのか、といつも思う。無機質すぎて現実離れしているこの部屋は、僕がずっと暮らしている病室だ。
過保護な両親のおかげで、僕は一人部屋を使わせてもらっている。
「じゃあ、何かあったらナースコールしてね」
そう言って看護師さんは病室を出ていった。僕は1人になるやいなや、ベッドの横に置いてあるダンボールの中を漁る。
中には、親が家から持ってきてくれたたくさんの本がある。僕の両親は仕事で忙しく、なかなかここには来れないけれど、たまに来る時にはよくダンボール一杯の本を持ってきてくれる。色々なジャンルの本があって、今日読む本を選んでいるだけで楽しい。
1人には慣れたけれど、暇つぶしはやはり必要だ。親には本当に感謝している。
僕は本が好きだ。なぜなら、読んでいるうちに自分が病室にいるという事実を忘れてしまうから。学校に遊園地、さらにはジャングルに、まるでテレポーテーションして行っているような気分になる。本当には行けない場所だからこそ、僕は他の人よりも読書を楽しめているのだと思う。
「──ねえ」
誰だろう、看護師さんか。今とてもいいところなんだ。邪魔しないでほしい。
「ねえってば」
「……なんですか?」
顔を上げるとそこには、看護師さんではなく、両親でもなく……セーラー服を着た1人の女の子がいた。
白くて透き通った肌に、さらさらした長い髪の毛。黒く澄んだ大きな瞳。なんというか、とても……
「ええと……僕に何か用?」
「決まってるじゃない。プリント届けに来たのよ。……あ、私、今日から学級委員長になった、2年3組21番の
何が決まっているのか分からないけれど、プリントを差し出されたのでとりあえず受け取った。そこで、ある違和感が生じた。
僕は思わず窓の外を見る。雨がしとしと中途半端に降っていて、隣の公園では青々とした木がゆさゆさと揺れている。これは間違いなく、梅雨の景色だ。よく見ると渡されたプリントには、「並木中学校 6月の予定表」と書いてある。
「どうしてこんな時期に?」
「え?……ああ、前の学級委員長、転校しちゃったのよ。だから副委員長だった私が昇格したってわけ」
「なるほど。でも前の学級委員長はここには来なかったよ」
「そうみたいね。でも私は、みんなの様子を確認するのも仕事だと思ってるから」
「そうなんだ」
違和感が解消したところでそろそろ本の続きを読もうと思ったけれど、彼女はなかなか帰ろうとしない。僕は1人じゃないと読む気になれないので、仕方なく持っていた本を閉じる。
「……まだ何か?」
「ええと、その……今持ってるその本って」
僕は『個性』という本を読んでいた。
「ああ、これは親が買ってくれた本だよ。まだ読み終わってないけど」
「……どんな内容なの?」
「少女と少年が、間違った世界を変えようとしている話だよ」
「へえ、そうなんだ。じゃあ読み終わったら感想教えてね。また来週来るから」
「分かった。……ん?待って、また来るの?」
「うん。だめ?」
とても澄んだ、真っ直ぐな瞳で見つめられた。ずっと見つめているとそのまま吸い込まれてしまいそうで、僕はすぐに目をそらす。
「別にいいよ」
「……ありがとう。じゃあ、またね」
彼女はそう言うと、病室を出ていった。
そして今更になって、女の子とまともに話すのは初めてだということに気がついた。それどころか、小学生のときから入退院を繰り返す僕は、同級生と話すのも久しぶりのことだった。
……もう少しちゃんと話せばよかった。せっかく雨の中、わざわざ来てくれたのに。
──1週間後。
彼女は宣言通り、またここに来た。そして僕に数枚のプリントを渡した後、ベッドの横にある椅子に座った。
「……それで、あの本、読み終わった?」
「うん」
「どう、だった?」
「すごくおもしろかった。2人は世界を完全に変えることはできなかったけれど、それでも幸せになったよ。僕はハッピーエンドが好きだから、よかった」
僕がそう言うと、彼女は何故か顔を赤らめながら、とても嬉しそうな顔をした。
「実はあれ、私の、たった一人の親友が書いた本なんだ。だからそう言ってもらえてすごく嬉しい」
「え、もしかして中学生?」
「そう。私たちと同い年。公表はされてないけどね。親友いわく『作者の年齢で読む本を決めてほしくない』らしいよ」
「へえ。公表したらたくさん売れそうだけれど」
「まあまだ中学生だし、収入はあまり気にしてないんじゃないかな」
「そういうことか」
そして彼女は、次の週も来た。そこで、「明後日も、来ていい?」と言われた。
それから彼女は3日に1度くらいここに来るようになった。10分で帰ることもあれば、2時間くらい話し込むこともあった。他に友達はいないのかな、とも思ったけれど、あえて触れないことにした。
僕たちはたくさんの話をした。今の学校の様子だったり、イケメンの定義についてだったり、近所のうるさいおばさんの話だったり。
彼女も本が好きみたいで、好きな本についての話をしたり、お互いに本を貸しあって感想を言い合ったりもした。
病気のせいで少し痛々しい姿になっていても、彼女はそれに全く触れず、表情も変えず、いつも通りでいてくれた。僕にとってそれは、とても心地よかった。
「──もうすぐ夏休みだよ」
もうそんな時期か。窓の外を見ると、虫取り網を持った子どもたちが歩いていて、遠くに見える街は陽炎でゆらゆら揺れている。きっと外はすごく暑いんだろうな、と思う。
案の定彼女は汗だくで、手には小型の扇風機を持っている。
「そうなんだ。どこか行くの?」
「うーん……デート、かな」
「……え?」
「まあ親友とだけどね、前言ってた。ちょっと遠出してみようって、明後日から東北の方に行くんだ」
「そうなんだ。……びっくりした」
「なんで?私に彼氏がいるの、おかしい?」
確かに、なんでだろう。彼女にそういう人がいるのは全く想像がつかない。絶対に口に出しては言えないけれど。
「もういいよ。どうせ私に彼氏なんていない」
僕が黙っているうちに、彼女はそっぽをむいてしまった。すごく大人びていると思っていたけれど、意外と子どもっぽいところもあるみたいだ。彼女の知らない1面が見られて、少し嬉しかった。
「……でもね、好きな人はいるかも」
「え、そうなの?」
「うん。でも、絶対に、何があっても言えない。きっと誰も許してくれないから」
そう言うと彼女は、少しだけ、悲しそうな顔をした。こんな表情を見るのも初めてで、これ以上踏み込んで聞くことも、からかうこともできなかった。
「──そういうことだから、しばらく会えないな。……あ、そんなに寂しがらなくてもいいよ。お土産、ちゃんと買ってくるね」
彼女はすぐにいつも通りに戻り、僕に笑顔を向ける。僕は寂しがってなんかいないけれど、なぜか反論できなかった。
その後は東北の観光プランについて話した。観光バスでのツアーに申し込んだらしく、結構盛りだくさんな内容だった。
余程楽しみなのだろう、彼女はうきうきした顔をしながら帰って行った。
この日以来、彼女が病室に来ることは1度もなかった。
それから半年後、僕は退院することになった。
そしてそれに合わせて北海道の中学校に転校した。僕の両親はもともと、僕が退院したら双方の実家のある北海道に戻ることにしていたそうだ。
忙しい両親にとっては、僕に何かあったときにすぐ駆けつけてくれる人がいた方が安心なのだろう。
1度も行かなかった中学校に未練などあるはずもなく、僕は新しい環境を楽しむことにした。
唯一気がかりなのは、あの委員長のことだけれど、お見舞いに来てくれていた人が来なくなっていったのは初めてではない。きっと旅行が楽しくて、僕のことなんて忘れてしまったのだろう。いつものことだと割り切ることにした。
僕は新しい制服に身を包み、初めての中学校へと足を踏み入れた。
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