第三部A面 空の繋がった日3

 七瀬菜穂は演劇部にとって得がたい人材だった。

 手先は器用な方ではなかったけど、いつも一生懸命で努力家だった。

 俺が教えた音響機器の操作方法を一つ一つ着実に憶えていった。

 そして菜穂が体験した最初で最後の公演になるクリスマス公演が終わったときには、その技量は俺と遜色変わらないモノにまでなっていた。

 人見知りでなければ俺の代わりに音響チーフになってほしかったくらいだ。

 それに菜穂は面白いモノの見方をする子だった。

 それはクリスマス公演のためのBGM選曲のときだった。

 そのときの演目は大坂夏の陣が舞台の時代劇だった。

 豊臣方の青年武将・木村重成(ヒカルの役)とその妻・青柳の悲恋を描くという内容なのだが、なにを思ったのか、ヒカルはBGMは全て古めの洋楽ポップスで統一するとか言い出した。

「異色のコラボってやつ? その方がインパクトがあるでしょ」

「だからって純和風時代劇に洋楽ないだろ……」

「北野監督だって時代劇の中でタップダンスやってたじゃない」

「部活の演劇に世界の奇才レベルを求める気か!」

「あはは、大丈夫。竹流ならやれるって」

「勝手に決めんな!」

 俺も結構抵抗したのだが結局ヒカルのヤツに押し切られてしまった。

 それで仕方なく、俺は菜穂と一緒に洋楽の音源を持ち出して選曲をすることになったのだけど、そこで菜穂が選んだ曲は独特の視点を持っていた。

 たとえば重成が出陣の際に妻である腰元と別れる場面では、俺はカーペンターズの『スーパースター』を掛けることを考えていた。恋人との惜別の場面なんだから切ない感じの曲を掛けるのが妥当だろうと思ったからだ。

 しかし菜穂が選んだのはミュージカル『ヨセフ・アンド・ザ・アメイジング……』という長ったらしい名前の劇の冒頭部分に使われている『Any dream will do』という曲だった。

 その曲はどこかのんきな感じの曲で、切ない感じの曲ではない。

 その劇自体ハッピーエンドで、そのラストの場面にも掛かる曲なのだから当然だ。

「恋人と別れる場面にしては陽気すぎないか?」

「そうでしょうか。台本を読む限り重成は死ぬ覚悟をしてるようには見えないです。『私は必ず君の所に還る』ってセリフもありますし、生きて帰るつもりなんじゃないでしょうか。だからのんきに未来のことを考えるような曲がいいと思ったんですけど……」

 菜穂はキョトンとした顔でそう言っていた。

 たしかに台本を読む限り重成の覚悟がわかるようには書かれていなかった。

 俺は歴史小説を結構読んでいるので『重成が出陣の際に自分の髪に香を焚いて、死後に首が晒されても見苦しくないようにした』という逸話を知っている。

 だからこのときの重成の覚悟は『死ぬ気』だと当然のように思っていた。

 しかし逸話を知らない菜穂から見れば『生きる気』という見方もできたのだ。

 ましてあのヒカルが演じる木村重成だ。

 討ち死ぬ気なんてさらさらないだろう。

「よし、じゃあそれでいってみようか」

 俺がそう言うと菜穂は「はい」と言って本当に嬉しそうに微笑んだ。

「じゃあ重成が敵陣中でズタボロになりながらも孤軍奮闘するシーンは?」

「私はQUEENの『We are the champion』がいいと思います」

「あれって勝者の歌だよな……どうして?」

「重成は勝つために戦ってます。戦い続ける限り敗者ではありません」

 なるほど。それも面白い見方だ。

 俺は孤軍奮闘するシーンなのだからと『Green Leaves Of Summer(邦題:遙かなるアラモ)』のような歌がいいのではと思っていたけど、そっちのほうが面白いかも。

「じゃあラストの重成も死んで、焼け落ちる大坂城を青柳が見つめるシーンは?」

「私は……必要以上に悲しくしたくないんです。ここで悲しい曲を掛けてしまったらただの悲劇に終わってしまいます。台本を読む限り絶望に心がつぶされる場面なんですけど、なにか少しくらい希望のようなモノを残したいと思うんです」

「希望があったら……菜穂はどんな曲を掛ける?」

「多少新しくはありますが、マライヤ=キャリーの『BUTTERFLY』がいいです」

 これはまた随分と希望がある曲を選んだもんだ。

 太陽を目指して、跳ぶ蝶。

 別れの曲ではあるんだけどいつかまた巡り会えることを信じて疑わない。

 そんな希望を失わない強さがあった。

「ダメでしょうか……この劇には希望がないですもんね」

 菜穂はそう言って肩を落としたけど、俺はそんな彼女の頭にポンと手を置いた。

「大丈夫。希望ならちゃんとあるよ。台本には書いてないけど……このときの青柳は妊娠中だったという説もある」

「っ!? 子供がいたんですか!?」

「ああ。大戦の後、青柳は知人の家に匿われて男の子を産んでいる。だからこのときの青柳には愛した人の血を絶やさないっていう使命があったんだ」

 菜穂の表情がパっと明るくなった。

 悲劇の物語にも希望が残されていたことがよほど嬉しかったみたいだ。

 登場キャラクターに感情移入しすぎな様な気もするけど、それでいいと思った。

 裏方として物語を客観的に観ることなら俺でもできる。

 だけど菜穂のように人を思いやり、その気持ちを素直に表現するのは苦手だった。

 だからこそ俺たちはお互いを補い合えるコンビになれると思っていた。

 だけど……それはすべて幻想でしかなかった。

 現実はと言えば、俺は今日も一人で屋上で音響機器の整備をしている。

 ミキサー盤も、RCAも、フォーンプラグも、マルチケーブルも、マイクスタンドもすべて手入れが行き届いている。使う者もいないのに。

 俺は……なんのために音響機材の整備を続けているのだろうか。

 演劇部での日々はもう帰ってこないのかもしれないのに……。

 屋上の手すりから身を乗り出してぼんやりと景色を眺めていた。

 時刻は夕方五時前。

 そろそろ『瀬戸の花嫁』が似合うほど、空と海が赤く染まる時間だ。

『なんで自分の手で演劇部を再興しようとしない! そんなに演劇部が大事ってんなら、部員かき集めて新しく立ち上げればいいじゃねぇか!』

『お前にとって本当に大事なモノはなんなんだ! 演劇部なのか! それとも……』

 耳の中であのときの光司郎の言葉が甦る。

「わかってるさ……お前に言われなくたって」

 誰に言うでもなくそう呟き、俯きながら屋上の手すりを握りしめた。

「俺が……本当に望んでいたことはこんなことじゃなかったのに……」

「じゃあなにを望んでたんだ?」

 顔を上げたとき、俺の横には須藤冬矢が憮然とした表情で立っていた。

「須藤……久しぶりだな。なにしに来たんだ?」

「ちょっとね、お前のことをぶん殴りに来たんだ」

「はぁ? ……なに言って……」

 言い終わらないうちに須藤の拳が俺の頬に叩き込まれていた。

 よろめき、屋上の手すりに背中を打ち付けた。

 痛い。口の中に嫌な味が広がり、吐き出した唾には血が混じっていた。

 口の内側が少し切れたみたいだ。

「お前、……いきなりなにしやがんだ!」

「好きな子泣かされて怒り心頭なんだ。もう二、三発は覚悟してもらう」

 好きな子? 泣かされた?

 ……なんのことだか、わけがわからない。

 ただ……腹の中でどんどん須藤に対する怒りが込み上げてきた。

 いきなり殴られて黙ってられるか。

 俺は立ち上がると須藤と真っ直ぐ向かい合った。

「お、やる気? 体育部とケンカできると思ってるの? 文化部」

「お前も数ヶ月前までは文化部だったじゃないか」

「甘く見ないでほしいね。これでも元照明チーフだ。テンゴ(1,5㎏)のハロゲンフレネルを吊しまくってんだ。腕っ節には自信が……ぐっ!」

 長々と喋る須藤の顔に俺は拳を叩き込んだ。手加減無し。

「裏方は人数不足だったから、音響も同じ作業をしてたの忘れたのか?」

「痛ーっ……そういや俺も音響の仕事手伝わされたっけな」

 須藤は弾き飛ばされたようにその場に倒れたが、すぐに立ち上がった。

「それでなきゃケンカのしがいがない!」

「うるせぇよ」

 それからはもう見苦しい殴り合いになった。

 お互い基礎体力には自信があるものの、ケンカの素人だった。

 演劇部はどんなに身体を動かそうと文化部であることをこのとき初めて実感した。

 不良マンガのようなカッコイイ戦いになんてならない。

 ただ本当に、維持だけでただ殴り合っているだけという有様だった。

 しかも接近して取っ組み合いになれば、どうすればいいのかわからず、とりあえずお互いに首を絞め合うことになる。

 ケンカの仕方がわからない者同士の戦いは醜い。

 おかげで双方ともなかなか音を上げず、殴り合いは長期に渡った。

 しかし限界が来た。俺の方が先に息が上がってしまったのだ。

 いまは体育部の須藤との間にある日頃の運動量の差は如何ともしがたかった。

 意志とは裏腹に膝に力が入らなくなる。

 俺はその場にあぐらを掻くように座り込んだ。

 俺の戦意が挫けたのを見ると、須藤もそれ以上は攻撃してこようとはしなかった。

 須藤もその場にドカッと腰を下ろす。

「あぁ~しんどかった~」

 そんなことを言いながら両足を投げ出していた。

「しんどいならケンカなんか売るなよな……」

「仕方ないだろ。告白してふられたとはいえ好きな子のためなんだから」

「それはさっきも聞いた。一体誰のことなんだ?」

「柄沢さんが泣いていたんだ」

 須藤は拳を固く握りしめながら苦々しげに言った。

 俺は一瞬、須藤がなにを言ってるのかわからなかった。

 あのヒカルが泣いていた?

 いつも人のことを散々振り回して、カラカラと笑っているヒカルが?

 ……いやまぁヒカルだって泣くことぐらいあるというのはわかる。

 鬼の目にも涙と言うし、ってそれはちょっと意味が違うか。

 それより須藤はヒカルのことが好きだったのか。

 ……まぁそんな気はしてたけど。

 そっか。ふられたんだ……ってあれ?

 なんだか思考がまとまらない。

 ともかく俺は狼狽していた。当たり前だ。

 俺にとって柄沢ヒカルは誰よりも涙が似合わない女の子だった。

「ヒカルが泣くなんて……信じられない……」

「ああ。俺も信じられないよ。そして涙の理由はお前だ。竹流」

「俺が……ヒカルを泣かせている……なんで?」

「本気で言ってるのか、お前は! 第二ラウンドやったろうか!?」

 須藤は近寄ってきて俺の胸ぐらを掴んだ。

「竹流がヒカルのこと避けてるからに決まってるだろうが!」

「だから、なんでそれでヒカルが泣くんだ! 演劇部を潰して繋がりを断ち切ったのはヒカルなんだぞ! 先に俺たちのことを遠ざけたのはあっちじゃないか!」

「おま……本気でわかってないのか?」

 須藤はキツネにつままれたような顔をしていた。

 こっちとしては全く心当たりがなかった。

 俺は演劇部を残したかった。

 そこが大事な居場所であり、感染者となった菜穂たちがいつか帰ってくるかもしれない場所だと思ったからだ。

 だから俺は……その日まで演劇部を守り抜きたかった。

 それなのに、そんな俺の思いを踏みにじるようにヒカルは演劇部を潰した。

 さきに俺の思いを無視したのはあいつじゃないか。

「違う! 柄沢さんはお前との繋がりを断ち切りたかったわけじゃない。彼女は演劇部を……居場所を取り戻したかったんだ。感染者に人の繋がりを取り戻したくて、声を届けるために校内放送を始めたんだ。お前の大事な居場所を蔑ろにしてたわけじゃない。長い付き合いなんだからそれぐらいわかれよ!」

 須藤の口から語られたことは、俺にとっては全て衝撃の内容だった。

 あまりにも早い転身に、ヒカルは演劇部なんてどうでもよかったんだと思った。

「第一、お前との繋がりを断ち切りたいわけないじゃないか! だって柄沢さんは、」

 やめろ、これ以上俺を混乱させるな。

 思考が追いついてないんだ。

「お前のことが好きなんだから!」

 …………好き?

 ……ヒカルが……俺を……?

「嘘だろ……。ヒカルが……そんな……」

「嘘じゃない! っああもう、嘘だったらどんなによかっただろうな。俺が彼女に告白したとき、彼女は『ほっとけないヤツがいる』って断ったんだから……」

 その苦々しげな表情から須藤が嘘を吐いていないことはわかった。だけど……

「嘘だよ……じゃあなんであのとき、あいつは……」



 それは今年の二月十三日のことだった。

 前年末のクリスマス公演も成功に終わり、今度は来たるべき四月の新入部員勧誘公演のため、俺たちは新しく動き始めていた。

 俺は生徒会に公演場所かを確保するために申請手続きをしていた。

 部活のほうはヒカルと須藤に任せればいい。

 いまは菜穂もいるので、音響も俺がいなくても問題なく機能している。

 生徒会からの了承をもらった俺は、一旦部室に戻ることにした。

 荷物が置いたままだったからだ。

 すでに午後七時近くになっているから部活は終わっているだろう。

 体育部のヤツらが予算のことで相当粘っていたらしく、演劇部は後回しにされたため、こんな時間になってしまったのだ。

(手続き後には部活に参加できると思ったんだけどなぁ……)

 なんだかんだで演劇部での部活は楽しかった。

『大丈夫、ボクが絶対退屈なんてさせないよ』

 あいつの言うとおりだった。

 破天荒なヒカルに振り回されることも多い。

 事務処理にかけずり回ること羽目になることも多かった。

 それでも……楽しかった。

 俺が知ることのなかった世界をヒカルはくれたのだから。

 部室が見えた。電気が点いている。

(まだ誰かいるのか?)

 扉の前にまで来たとき、中から声が聞こえてきた。

『へぇ~……あいつをねー。頑張って落としちゃいなよ』

『もう、そんなに大きな声で言わないで下さい! 落とすなんてそんな……』

『あいつも人の心とかに疎そうだし、気付いてもらえないよ?』

『それはそうなんですけど……』

 どうやら中にいるのはヒカルと菜穂のようだった。

 小声で話しているようで、なんの話をしているのかまではわからなかった。

 とにかく俺はノックしてから扉を開けた。

「あ、竹流。お帰り。場所は取れた?」

「お帰りなさい天野くん。お疲れ様です」

「お疲れ。場所なら無事に取れたよ。お前らはなんで残ってるんだ?」

 そう尋ねると二人は顔を見合わせたあとで、ヒカルは含み笑いを浮かべた。

 一方の菜穂は顔を真っ赤にして俯いてしまった。

 なんなんだこの反応は?

「またなんか悪巧みでもしてるのかよ」

「ふふふ、乙女の秘密だよ」

「はぁ? 菜穂はともかくヒカルは乙女ってガラか?」

「ほう、ボクにケンカを売るとはいい度胸じゃない。ならばこうしてくれる」

 言うが早いかヒカルは菜穂の背中をポンと押した。

「うえ?」

 いきなりのことに菜穂はバランスを崩し、前につんのめって身体が傾いた。

 その延長線上には俺がいて、結果として抱き留める形になってしまった。

 小柄な菜穂は俺の腕の中にすっぽりと収まってしまう。

 さすがに危ないので文句を言おうとしたとき、

 カシャッ♪

 ……と気の抜けた音が聞こえてきた。

 見ればヒカルは手にスマホを構えていた。

 どうやら俺が菜穂を抱き留めた瞬間を写メで撮ったらしい。

 これが狙いってわけか。

「キャ~、見て見て。ベストショットでしょ。二人の顔が良く撮れてる」

 そう言って嬉々として撮った画像をこっちに見せていた。

「菜穂にはあとで送って上げるね♪」

「送らんでいい! っていうか、とっとと消せ!」

「やだよーだ。で、竹流はいつまで菜穂を抱きしめてるつもり?」

 そう言えば、菜穂は俺のみぞおちの辺りに顔をうずめたままになっていた。

 菜穂は弾かれたように身体を離すと、荷物をまとめて部室から飛び出して行った。

 その脱兎の如き逃げっぷりに、割と心が痛んだ。

「お前……ちょっと悪ふざけが過ぎるぞ」

 ヒカルにジト目で言うと、ヒカルは肩をすくめた。

「う~ん、ちょっとやりすぎちゃったかなぁ。菜穂のためだったんだけど……」

「突き飛ばすのがなんで菜穂のためになるんだよ」

「あきれた……鈍感にもほどがあるね」

 そう言ってヒカルは俺と菜穂のツーショットが写ってる液晶画面を突き付けた。

「まさか菜穂の好意のベクトルがどこに向いてるかわかってないなんて言わないよね。あの子がいつも誰を見ていて、誰のそばにいたいのかちゃんとわかってる?」

 好意のベクトルってなんだよ……。

 ……まぁ言いたいことはわかるけどさ。

「まぁなんとなくはな……」

 部活中はずっと一緒にいるわけだし、それにクリスマス公演では一緒に劇を作り上げた仲なので、自然と相手の呼吸のようなモノもわかってくる。

 だから菜穂が俺に向けている好意も自惚れじゃない程度には感じていた。

「明日のバレンタインデー……あの子は君にチョコを渡すはずだよ。そして自分の気持ちを伝えるはず。男ならしっかり応えて上げなさいよ」

 一瞬、ヒカルが何を言ってるのかわからなかった。

 応える? 好意に対して応えるってことは……。

 それはつまり菜穂と付き合えということなのか?

「ヒカルは……応えて欲しいのか?」

「当たり前だよ。二人が仲良くなれば音響チームの結束は硬くなるし。逆にぎくしゃくしちゃったら今後の演劇部の活動にも支障がでちゃうかもしれないしね」

 足下が急に崩れ去ったような気がした。なんだよそれ。

 演劇部のためって……本当にそれだけなのか?

「……そうだよな。俺を勧誘したのだって演劇部のためだもんな。ヒカルにとっちゃ人の気持ちよりも何よりも演劇部が大事なんだもんな」

「ちょ、ちょっと竹流……どうしたの?」

 ヒカルがガラにもなくオロオロしていた。

 俺の言葉に意味を何一つわかっていないようだ。

 人の気を知らないその様子に、胸の中に溜まっていたものが溢れ出した。

「ヒカルに必要なのは俺じゃなくて音響チーフってことなんだろ!」

 気が付いたときには怒鳴っていた。

 だけどもう押さえられない。

「お前にとっちゃ音響は誰でも良かったんだろう。たまたま暇そうにしてたから俺を選んだだけだ。決して俺を認めて、俺を欲してくれたわけじゃない……」

「それは……」

「だけどな……俺にとって支えたい相手はヒカル、お前だけなんだよ!」

 菜穂の好意に応えられるはずがないじゃないか。

 俺の好意は完全にヒカルの方を向いているのだから。

 あぁそうさ、俺はヒカルが好きなんだよ。

 しかしなんだろうなこの状況は。

 結果として思いを告白をしているはずなのに、高揚感もありがたみもない。

 心が冷めていき、怒りだけが燃え上がっている。

 ヒカルはと見れば声もなく肩を震わせ、目には涙が溜まっていた。

 その表情に心が揺らいだ。

 似合わないんだからそんな顔はしないでほしい。

 ヒカルは能天気に笑ってるほうが似合っている。

 その笑顔を絶やさぬようにこれまで支えてきたはずだ。

 なのに俺はこいつにこんな顔をさせている。

(……本当に、なにをやってるんだ、俺は)

 なにか声を掛けようとしたとき……。

「っ!?」

 入り口のガラス戸の向こうに誰かが立っていることに気付いた。

 曇りガラスなので顔までは見えなかった。

 しかしそのシルエットから菜穂だとすぐにわかった。

(菜穂に今の会話を全部聞かれていた?)

「菜穂っ」

「!」

 声を掛けた瞬間、菜穂はさっき以上のスピードで去って行ってしまった。

 もうどうしたらいいのかわからなかった。

 部屋の中で涙を堪えるヒカルに掛ける言葉も見つからず、

 去って行った菜穂を追いかけることもできなかった。

 結局、俺の告白は三人が三人とも傷つく結果になった。

 そして翌日の二月十四日。

 SNDの感染が急拡大し、菜穂は感染者になった……。



「そして結局、俺たちはバラバラになった……」

 俺は須藤にことの顛末を話して聞かせた。

 話を聞いた須藤はなにか言おうとしてはやめてを繰り返していた。

 俺はガシガシと頭を掻いた。

「俺は……菜穂とあの日のことをちゃんと話せていない。ちゃんと話さないことには前に進めないんだ。だから感染者になった菜穂が帰ってくる場所を、演劇部という居場所を守りたかった。なのに……ヒカルはそれを潰した。許せるわけないだろ……」

「だから、それは居場所を取り戻すためだって行っただろ!」

 須藤は俺の両肩を掴んだ。

「柄沢さんだって菜穂ちゃんのこと気にしてないわけないだろ! いや……彼女なら自分のせいだって思うはずだ。お前が菜穂の帰ってくる場所を守ろうとしていたとき、柄沢さんは菜穂ちゃんとのコミュニケーション自体を取り戻そうとしていたんだ。だから演劇部を潰してまで、感染者に声を届けようとラジオDJなんかしてるんだろ!」

「じゃあなにか? 俺は間違ってるのか? 帰ってくる場所を守ろうとする行為は無駄なのか? あいつが正しいのか? なにかのためにと理由を付けて、いまあるモノを壊すのは正しいのか? 俺が頭を下げれば、それですべてが丸く治まるのかよ!」

「この理屈バカ!」

 須藤はその体勢のまま俺の額に自分の額を激しく叩き付けた。

「痛ーっ……頭突きはないだろ、頭突きは……」

「ごちゃごちゃ御託を並べてんな! 正しいとか間違ってるとか、そんなのは後になんなきゃわかんないもんだろ! 考えたって答えがでない問題をうじうじ考える前に、目の前にあるもっと簡単な問題の答えを出せ!」

「なんだよ、それは」

「お前は柄沢さんが好きなんじゃないのか!?」

「なっ……!」

「イエスか、ノーかの二択だけだ」

「…………」

 イエスかノーかなら……それはイエスだよ。

 だけどそれは許されることなのか?

 菜穂をあんな状態にしたままで出していい答えなのか?

 俺が応えられないでいると須藤は俺の肩から手を放して踵を返した。

「好きなら好きで良いじゃねぇか。気持ちを押し殺して、みんながみんなバラバラになるよりはマシなはずだ。好きなら、ヒカルのことをしっかりと支えてやれよ。そして菜穂ちゃんの病が治ったら、そんときは謝るなり刺されるなりしろ」

 それだけ言うと須藤は屋上から出て行った。

 夕焼けの屋上に一人取り残される。

 棒立ちになりながら夕焼けの空を見上げていると、なんだか無性に笑えてきた。

「あはは……刺されたくはないなぁ……」

 笑いながらも頬を涙が伝って落ちる。

 古い歌に上を向いたら涙は零れないってあったけど……嘘だったようだ。

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