第二部B面 ギターとお化けとお抹茶1
それはまだ私が小さかったころの話です。
母親が茶道の先生だった私は、来る日も来る日も茶道のお稽古漬けという毎日を送っていました。家に帰ったら稽古稽古の毎日。
物心ついてからずっとそういう生活を送っていたので、どんなに辛く苦しくてもそれが普通のことなんだと思っていました。
ある日、私は親友の真美ちゃんにお誕生日会に誘われました。
私は行きたかったのだけど、母は許しませんでした。
戸惑う私を尻目に母は『稽古がありますから』と真美ちゃんの家におことわりの電話を入れてしまった。
そして私は母に手を引かれて、茶室へと連れて行かれました。
このとき私は初めて茶道が嫌になりました。
茶道のお稽古も、それを強いる母も何もかもが嫌になった私は家を飛び出しました。
飛び出したものの、いまさらお誕生日会に行くこともできません。
行く宛てもなく夕暮れの中をとぼとぼと歩き回りました。
そうやって辿り着いた児童公園で、私は一人ブランコに座っていました。
少し揺らしてみても気持ちは落ち込む一方です。
俯いた瞬間涙が地面に落ちていきました。
それからはもう堰を切ったように泣きました。
『おい、お前!』
すると、いきなり誰かに怒鳴られました。
ビックリして顔を上げると、そこには同い年ぐらいの男の子が立っていました。
なんだか怒っているようです。
おっかなびっくり『わたし?』と尋ねると、その子は甲高い声で言いました。
『お前以外に誰がいるってんだよ!』
また怒鳴られて私は完全に怯えていました。
『ふぇっ!……え、えっと……な、なんですか……?』
『めそめそしやがって湿っぽいんだよ! 泣くならよせで泣け!』
『そ……そんな……こと……言ったって……えぐ……』
理不尽だと思いました。なんで私が怒られなきゃいけないの?
そう思っても言葉にできません。
私は首をすくめ嵐が去るのを待とうと思いました。
しかし男の子はなおも私に絡んできました。
『だぁもう、なんだってんだ! 言いたいことがあるならハッキリ言え!』
これは理由を言わないと解放してもらえないと思いました。
私は観念して事情を話しました。
家のこと、お誕生日会のこと、お母さんのこと……涙声で聞き取りにくかったでしょうけど、その子は不機嫌そうながらも黙って聞いてくれました。
最後まで聞き終えてその子は私に再度同じことを言いました。
『言いたいことがあるならハッキリ言え!』
『ふぇっ……も、もう言ったよ……?』
『俺にじゃねぇ、てめぇの親にだ!』
その子は私の両肩をガッシリと掴み、私をブランコから立たせました。
『伝えたいことがあるなら言葉にしろ! 言葉にしねぇで伝わらないとかわかってもらえないとかほざいてんじゃねぇ。親ってのはお前が思うほど万能じゃねぇんだ』
驚く私と真っ直ぐ向かい合ってその子はそう言いました。
『万能……じゃない……?』
そんなこと今まで考えたこともありませんでした。
私にとってお母さんは絶対です。
お茶の先生をやってる偉い人です。
いまにして思えば完全に子供特有の盲信だったのでしょうけど、そのときの私にとってはそれは真理でした。絶対的な存在だったのです。
しかし、その男の子はそんな真理を真っ向から否定したのです。
『そうだ。万能じゃねぇから間違うときだってある。大人の言うことばかりが正しいわけじゃねぇ。あいつらはてめぇの子供の気持ちだって全然わかってねえ!』
そうだそうだ、と自分の中に押さえ込んでいた感情が声を上げていました。
『だからこそ俺たちは言葉にしなきゃなんねぇんだ! たとえとっくみあいのケンカになろうがボコボコに殴られようが、自分が正しいと思ったら面と向かってそう言え!』
『………』
そのときの私は一体どんな顔をしていたでしょう。
なんだか憑き物が落ちた気分でした。
その子の言葉には強さがありました。
茶室にある掛け軸に描かれているどんな禅の言葉よりも私の心に響きました。
盲信が打ち破られたとき、世界が違って見えました。私を閉じこめていたガラスケースを、その子は薄氷でも割るかたやすく打ち破ってくれたのです。
そのあと私は家に帰り、お母さんと真っ向から衝突しました。
さすがにその子の言ったようにとっくみあいのケンカにはなりませんでしたが、いままでになかったほど激しく言い合いました。
そして……なんとなくわかりました。
お母さんだって自分のしてることに自信があるわけじゃないということが。
結局、その問題はお母さんが『やりすぎた』と謝ったことで決着が付き、私が茶道を辞めることもありませんでした。
それどころか中学・高校と茶道部に入ったくらいです。
……ですが、そんな茶道部もいまはもうありません。
茶道部員の半数以上がSNDを発症し、未発症の部員たちも仲間たちとコミュニケーションを取れなくなったショックから退部してしまったため、部を存続させることができなくなってしまったのです。
部を維持するためには少なくともあと二名の部員を確保しなくてはなりません。
そんな甘い条件さえ満たすことができなかったのですから仕方がありません。
もちろん家に帰れば茶道のお稽古はできます。
ですが放課後には学校にある茶室にいるのが当たり前だった私は、帰宅部な生活に戸惑っていました。喪失感と倦怠感。
友達と茶室でのんびりと過ごしていた時間が凄く貴重だったように思えて、それがもう二度と訪れないかもしれないということが悔しかったんだと思います。
そんなとき私に声を掛けてくれたのが柄沢ヒカルちゃんでした。
「一緒にラジオ番組をやろうよ!」
そう言って私を無理矢理放送室に連れ込みました。
なにがなんだかわからなかった私は言われるままにイスに腰を下ろし、ゲストとして放送に出演させられました。
そしていま、私は放送室でヒカルちゃんと一緒にDJをやっています。
私はマイクに向かって語りかけます。
「それでは最後に『お知らせコーナー』です。ヒカルちゃん?」
「はいはーい。えっと、美術部部長の新谷夏樹さんからで……あ、復活したんだってね。えっと……美術部では現在展示会を行っています。ご用とお急ぎでない方はぜひ美術部へ、だそうです。うん、行く行く。絶対行くよ。ね、明日香」
「はい。この放送があるから昼休みは行けませんけど、放課後もやってるみたいですから皆さんも是非観に行ってあげてくださいね」
「それじゃあ今回はこの辺で。お相手は柄沢ヒカルと」
「森本明日香でした。それではまたこの時間にお会いしましょう。合い言葉は、」
「「GOO♪ラジオらす!」」
マイクボリュームが下げられ、BGMも余韻を残して消えていきます。
放送機材の電源を切ったとき、私たちはようやく一息吐くことができました。
時計を見ると一時一〇分を指していました。
昼休み終了まで十分もあります。
いつもは時間ギリギリですが、今日はめずらしく余裕を持って終われたようです。
「お疲れ、明日香」
ヒカルちゃんが私に向かって手のひらを翳しました。
「お疲れ様、ヒカルちゃん」
私もそう言ってパチンと手を打ち付けます。
放送終了後にはハイタッチで締めくくるのがお決まりになっていました。
こうしてヒカルちゃんとラジオ番組をやるのももう十五回になります。
正直こんなに続くとは思っていませんでした。
校内放送『GOO♪ラジオらす!』
浦町高校生徒会の岩崎珠恵会長の発案で始まったお昼の校内放送番組です。
岩崎会長さんがどういう意図をもってこの放送を発案したかは不明ですが、内容はDJを任されたヒカルちゃんに一任されています。
基本的に放送室前に設置された投稿箱に寄せられたはがきをもとに進行し、ヒカルちゃんが思いつきで立ち上げたコーナーなんかをやっています。
「今日も無事に終わってよかったね」
「そうだね~。土曜日の一件じゃあ早くも最終回かと思ったよ」
「放送よりもヒカルちゃんの高校生活が最終回になりかけたんだけどなぁ……」
危うく処分の対象になりそうだったというのに、呑気に笑っていられるのはヒカルちゃんらしいといえばそうですが、振り回される私としては少し頭が痛いです。
もしあのとき、あの男子生徒が止めてくれなかったらどうなっていたことか。
「そう言えば、あの男の子って誰なのかな?」
「え?」
「ほら。いきなり放送室に乗り込んできた男子生徒。あのあとすぐに帰っちゃったし、私たちも慌てててろくにお礼も言えなかったから。知り合いなんでしょ?」
「あぁ……うん。まぁ……」
一瞬ヒカルちゃんの表情が揺れた気がした。
「天野竹流。二年A組。僕と同じ元演劇部で音響チーフ」
「チーフ?」
「演劇部は個人能力重視の完全分業制だったからね。役者や音響みたいなジャンルごとにそれぞれ代表者みたいなのがいたの。その代表者がチーフ。まぁ人数がそんなにいなかったからチーフは役者、音響、照明の三人だけだったけどね。舞台装置や衣装はみんなで作ってたし。ちなみに僕は役者チーフ兼演劇部部長だったんだ」
その話は以前聞いたことがありました。
ヒカルちゃんは元演劇部部長で、部の方が事実上活動できない状態になっていたところ岩崎会長が校内放送のDJとして勧誘したようです。
そして演劇部は現在茶道部と同じで廃部になっていること。
その際に多少のゴタゴタがあったことなどは聞いていました。
もしかしてあの男子生徒はそのことに関わっていたのでしょうか。
「あの人と……なにかあったの?」
「うん、まぁ……」
「さっきから『うん、まぁ』ばかりだね」
「うん、まぁ……」
曖昧な返事しかしないヒカルちゃん。
私は彼女をジッと凝視しました。
五秒くらい凝視し続けていると、ヒカルちゃんの方が根負けしたみたいだ。
「ホントはね、演劇部は私も含めてまだ三人いたんだ。ボクと竹流、あと照明チーフの須藤くんね。だから演劇部を続けることはできたんだ。だけど僕が辞めちゃったから役者が居なくなって……ここらへんは美術部と同じだね。そして演劇部は潰れた。竹流は演劇部を自分の居場所のように思っていたから、潰した僕を恨んでるんじゃないかな」
「ヒカルちゃんは……潰しちゃって良かったの?」
茶道部が廃部になったとき、私はショックでした。
部活に居場所を求めていたのは私だって同じです。
もし茶道部が誰かのせいによって潰れたのだとしたら……私はその人を恨みに思わない自信がありません。やっぱり不平不満は抱いてしまうと思います。
「演劇部が続けられる状況だったのに、どうして校内放送の依頼を受けたの? ヒカルちゃんにとっては演劇部は居場所じゃなかったの?」
「居場所だったよ。とってもとっても大事な居場所」
ヒカルちゃんは少し淋しげに笑いました。
「でも……その居場所はもうないんだよ。ボクが演劇部を辞めるよりも前に……あの病気が流行ったときにはもう、ボクらの居場所はなくなっていたんだよ。辞めることを決めたときになにも言わなかったのは悪かったと思うけど……後悔なんてしていない」
ヒカルちゃんは真っ直ぐに私の目を見て言いました。
ですが、その表情を見ているととてもそうは思えませんでした。
本心からの言葉に滲む不安や惑い……そういったものが感じられます。
自分の判断が正しいのか間違っているのかはわからないけど、それでも前を向こうとしているような……そんな印象です。
本当は誰かに『間違ってない』と言って欲しいんじゃないでしょうか。
きっとその誰かというのは、他の誰でもなく……。
「随分と……天野くんにこだわってるみたい」
「彼の手を引いたのはボクなんだ。ボクはまだ……あの日の責任が取れてないから」
そう言ってヒカルちゃんは視線を逸らしました。
その様子がなんとなく彼女らしくないと思えました。
こう言ってはなんですが、ヒカルちゃんは単純一途な直球タイプです。
頭で考えるより思い立ったら身体が勝手に動いてしまう様な人です。
考え無しに行動するせいで失敗することもままあります。
しかし、それがヒカルちゃんらしさでもあります。
そんな彼女の口から『責任』という言葉が出てきたことに違和感を憶えました。
なんだか責任という言葉を言い訳にしているみたいです。
「言いたいことがあるならハッキリ言え……だよ」
あのときの男の子の言葉が自然と口から出てきました。
怪訝そうな顔をしたヒカルちゃんの頬にそっと手を触れます。
私は口元に指を当てウインクを一つしました。
「自分の気持ちを真っ直ぐ相手にぶつけなきゃいけないときもあるんだよ。ヒカルちゃん素直じゃないから、その人にも自分にも本心を誤魔化しちゃってるんじゃない?ヒカルちゃんが何を思って、何をして、何をその人に望んでいるのか……それをしっかりと相手に伝えなきゃダメだよ。そうしないと後悔ばかりが残っちゃう」
「ボクは……ボクはただ……」
その時、午後の授業開始五分前のチャイムが鳴り響きました。
その音に我に返ったように「やばい、急がないと」とヒカルちゃんは撤収の準備を始めました。そんな彼女の背中を見ながら私は小さく溜息を吐きました。
伝えたい思いを内に秘めた人がここに居て、
逆に外に向かって伝えることしか頭にない人もいます。
(人生とはままならないものです……ねぇ、光司郎くん?)
私は……今日もまた雑踏に向かってギターを掻き鳴らすであろう、彼のことを思い浮かべました。
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