第一部 雲のある空の下で3
翌日の空も雲一つ無い快晴だった。
時刻は十二時半過ぎ。今日は土曜日なのでもう放課後だ。
昨日のことを引きずりサボる気力もなかった僕と夏樹は普通に午前の授業に出席し、帰りのホームルームが終わるとなんとなく屋上へと向かった。
そこで購買部で買ったパンを食べながらボンヤリとしていた。
美月ちゃんのために病院に行こうと思う気持ちと、昨日のことを思い出して躊躇ってしまう心がせめぎ合った結果だった。
(……静かだなぁ)
土曜日には『GOO♪ラジオらす』の放送はない。
だから土曜日の放課後は本当に静かだった。
屋上に来た時は絵を描くことがお決まりになっていたのでスケッチブックを出していたけど、開いたページは真っ白なままだった。
屋上に座り込んでなにか描こうと思っても何も浮かんでこなかった。
下書きのペンを走らせることもできない。
どんな絵もあの子の心には届かないんじゃないかと思うと……怖かった。
夏樹は夏樹でそんな僕と背中合わせに黙って座っていた。
「このままじゃダメなのに……絶対、ダメなのに……」
背中越しに夏樹の切なげな声で呟いた。
「夏樹……」
「でも……どうしたらいいの?」
「……やっぱり……あの絵を外してもらったほうがいいのかな?」
美月ちゃんは現実に絶望している。
だからこそ、現実に変化を求め『ラベンダー』が持つ永遠性を憎んでいるのだ。
だけど完成した絵から永遠性を抜き出す事なんてできない。
僕は『ラベンダー』に美月ちゃんを苦しめて欲しくなかった。
もし僕が描いた絵が誰かを傷つけるなら、僕はその絵を破棄するだろう。
僕が目指しているのは、あの日の『ラベンダー』の様な優しくて温かい絵だ。
だけどいま、その『ラベンダー』が彼女を苦しめている。
「ダメよ!」
夏樹はいきなり大声を出して立ち上がった。
「絶対ダメ! あの絵を外すなんて嫌よ! あたし達の思い出じゃない!」
「だけど……僕は『ラベンダー』に誰かを傷つけてほしくない……」
僕の意見に夏樹は真っ向から反対した。
「そんなの逃げてるだけよ! ラベンダーの絵を外したって現実は変わらない!」
「じゃあどうしろっていうんだよ!」
夏樹の激情につられて僕も声を張り上げていた。
スケッチブックを投げ出して、立ち上がると夏樹と対峙した。
「逃げちゃダメって簡単に言うけど、他にどんな方法があるさ!」
「そんなのあたしにだってわかんないわよ! だけど辛いからって絵を外して……嫌なものから目をそらしてたってなにも変わらない! なにも変えられない!」
「だからって……なんの手だてもないままこのままにしておけないよ。こうしてる間にも美月ちゃんはあの絵を見て傷口を広げているのかもしれないじゃないか!」
「それでも……たとえ傷ついてでも変わらなきゃいけないのよ!」
「変えるよりも前に、まずは彼女の心を守るべきだ!」
「大事にすることだけが守ることなの!?」
「だけどこのままにしてたら、美月ちゃんの心はいつか壊れるかもしれない!」
「逃げたって……壊れる時は壊れるよ。早いか遅いかの違いだけ」
「なっ、そんな言い方ってないだろ!」
「本当のことでしょ!」
お互い一歩も譲らなかった。犬歯を剥き出しにして睨み合う。
間が空き、気まずい沈黙が二人を包む。そんな中で、
キュイィィィィン!!
不意に下の方でなにかの爆音が鳴り響いた。
「ふぇ、な、なに!?」
「えっと……あれじゃないかな?」
屋上の縁から下を覗き込むと、下校していく生徒の群れの中で一人の男子生徒がエレキギターを抱えていた。
いまの爆音はアンプに繋がれた彼のギターの音だったようだ。
彼はチューニングするように三度ギターを掻き鳴らした。
そして彼はそのギターを構えると一呼吸の間をおいたあとで、無関心に通り過ぎていく生徒たちの群れに向かって叫んだ。
「てめぇら、目ぇ覚ましやがれ! 以前までの世界を思い出せ!」
絶叫。マイクもないのに五階建ての校舎の屋上にまで大きな声が届いていた。
そして彼の雄叫びのような歌声がギターの旋律に乗る。
素人耳にも彼の演奏技術が高いことはわかった。
それにソウルとでもいうのだろうか……とにかく『自分の歌を聴いて欲しい』という思いがビンビン伝わってくる。
「……なんだか気持ちの良い歌い方をするわね」
興をそがれたのか、落ち着きを取り戻した夏樹がそう呟いた。
「うん、熱いね。……でも、ちょっと物足りない」
歌とリードギター一本だけではやはり物足りなかった。
せめてベースでもいれば違ったんだろうけど、それでも彼は精一杯歌い続けた。
ただ……そんな彼の演奏に足を止める生徒はいなかった。
みんな彼のことが見えないかのように素通りしていく。
……嫌な光景だ。
美月ちゃんの『変わらない人たち』という言葉が、耳の奥でリフレインする。
「あれじゃあダメだな」
不意に屋上の入り口の方から声がした。
振り返ったけど屋上の扉が開いた様子はなかった。
「こっちだ、こっち」
見上げると入り口の屋根の上で誰かの手がヒラヒラと振られていた。
あそこで誰かが寝っ転がっているらしい。
その人はむっくり起きあがるとヒラリと飛び降りた。
屋上に降り立ったのは天野くんだった。
「はあ……こう五月蠅くっちゃかなわないな」
「もしかしてずっとここにいたの?」
「ああ……本を読んでたんだ。ホントはもう帰ろうと思ってたんだけど、なんか揉めてるみたいだったから出るに出て行けなかった」
「うっ……」
あのやりとりを聞かれていたのか。なんか気恥ずかしい。
天野くんは初対面になる夏樹と軽く挨拶と自己紹介を交わしたあと、屋上の縁からその男子生徒のことを見下ろした。
その眼差しは、憐れむような、痛々しそうなものだった。
「あれじゃあダメだ。あんなやり方じゃ誰の心にも届かない」
「どうして? 必死に訴えてるじゃない」
夏樹が天野くんにそう尋ねた。すると彼は肩をすくめた。
「いきなり近くで大声を出されれば、誰だって耳を塞ぐ。自分の思いを相手に押し付けようとすれば、誰だって心を閉ざしてしまう。言葉は叩き付けるものじゃない」
そして彼はもう一度下の彼を見下ろし淋しそうな声で呟いた。
言葉は叩き付けるものじゃない……か。
「でも、それでも言葉にしなかったらなにも伝わらないよ?」
僕がそう切り返すと天野くんは一瞬キョトンとしたあとで、
「ぷっ、はははは!」
大声で笑い出した。彼のこんな顔を見るのは初めてだった。
「え、僕なんか変なこと言った?」
「ははは……いやぁ……そうじゃないんだ。まさかあいつと同じことを言うとは思わなかったからさ。なるほど、あいつの場合、過ぎたるは及ばざるがごとしって感じだけど、それを丁度良いくらいに薄めた感じだな。良い塩梅だ」
言ってる意味の半分も理解できなかったけど、バカにされてはいないようだ。
涙が出るほど笑った彼は眦を拭いながら答えた。
「だからこそ大事なモノを失わないですんだんだな」
「それって……どういう意味?」
「大事なことをちゃんとわかってるってことだよ」
そして天野くんは僕の額を軽く小突いた。
「それじゃあ俺は行くよ。幼馴染みと“ごゆっくり”」
「な、ちょ、ちょっと!」
一瞬にして真っ赤になった夏樹に構わず天野くんは屋上を後にした。
夏樹は激昂しかけていたけど、僕から見ればいつものことなので黙っていた。
彼が軽口を叩くのは、人と真正面からぶつかることを怖れているからなんだと思う。
だからはぐらかし、踵を返して視線を逸らす。
人との繋がりを模索しながらも、どこか人と繋がることを怖れている。
それが僕が彼に抱いた印象だった。
彼に会う度に、彼にも真正面から向き合える人がいればいいのにと思ってしまう。
前に進むために、たまには他人と衝突することも必要だ。
天野くんを見送ったあと、僕は下で歌い続ける彼に視線を移した。
彼の歌は確かに思いで溢れている。
だけど天野くんが言う通り無理矢理聞かせようとしているようでもある。
聞かそうとばかりしていて、聴かそうとしていない。
「思い出せ……ね。思い出す……」
夏樹が急になにかをつぶやき始めた。
どうかしたのだろうかと思って見ていると、夏樹はパッと顔を上げた。
「そっか……そうよ!」
「な、なに?」
唐突に大声を出したのでビックリしてしまった。
そんなことなどお構いなしに、夏樹は言った。
「ずっと引っ掛かってたの。病院であたしたちがあの絵を通して本物のラベンダーを想像していたのって言った時、美月ちゃんはこう言ってたわよね? 『私にはそんな想像できません。あそこにあるラベンダーはニセモノです』って。なんか変じゃない?」
「えっ、どこが?」
「だから……あの時は『あのラベンダーの絵がニセモノだから、本物のラベンダーを想像できない』んだと思って納得しちゃったんだけど、本物なら本物を想像する必要なんてないじゃない。『ニセモノだから本物を想像できない』なんておかしいわ」
「ああ、なるほど……」
たしかにちょっと違和感があるかもしれない。
ニュアンス的な違いかとも思ったけど、夏樹は確信を持っているようだった。
「きっと、あたしたちは美月ちゃんの言葉を間違って受け止めてたのよ。もしかして美月ちゃんが言っていたのは『ニセモノだから本物が想像できない』んじゃなくて、『想像ができないから、ニセモノにしか見えない』ってことなんじゃないかな」
「いまの美月ちゃんは“想像自体”ができないってこと?」
「そう。想像することは夢見ること。いま美月ちゃんにないのは……」
「夢見る力か」
夏樹の指摘が、欠けていたパズルのピースのようにはまった気がした。
絵は記号なのだと以前に誰かが言っていた気がする。
映像は拡大すれば個々のモノに辿り着く。
山を拡大すれば木々の一本一本になる。
さらに拡大すれば木のでこぼことした皮が見え、さらに拡大すれば細胞が見える。
その山を構成していくモノの一つ一つにまで細分化できる。
だけど絵を拡大していっても色や絵の具の粒子にしかにしかならない。
だとすれば人は写真を見るようには絵を見ていないはずだ。
つまり絵とは記号であり、人間の想像力があって初めて絵を鑑賞できるというのだ。
その人の言葉がホントかどうかはわからない。
だけど僕たちにとってのラベンダーはそういう物だったと思う。
美月ちゃんと意見が食い違った理由もわかる。
美月ちゃんにとって『ラベンダー』はあくまでも『絵』なのだ。
だけど僕と夏樹にとっての『ラベンダー』は違う。
あの絵は僕らにとって、入り口過ぎない。
僕らが見ていたのは絵じゃなくて、本物のラベンダーなんだ。
本物のラベンダーを想像できるか否かが、美月ちゃんと僕らの意見を分けたのだ。
「でも、なんで美月ちゃんは想像できないんだろう?」
「そこなんだけど、あの人の言葉を聴いててピンと来たわ。多分、美月ちゃんができない……ううん、しようとしないのは『思い出す』ことなのよ」
夏樹は腕を組むと、それを屋上の手すりに載せた。
「思い出すことと想像することは繋がってるんだと思う。……美月ちゃんの場合、辛い現実から目を背けて、辛い記憶を思い出すことを拒否してるんじゃないかな。姉さんの話じゃ飛び降りるまでの経緯なんかはお医者さんにも話していないみたいだし、記憶を封印してるのかも。だから想像もできないんじゃない?」
「なるほど……」
記憶に蓋をしているから想像することもできないというわけか。
でもそれが本当ならかなりまずいんじゃないだろうか。
辛い記憶を押し込めようとすれば心に大きな負荷が掛かる。
多重人格症は、子供のころの辛い記憶をべつの人格に押し付けて、切り離した結果起こる病気だと聞いたこともある。
そこまではいかないにしても、心身に悪影響を及ぼすというのは考えられた。
「ねぇ誠一……美月ちゃんのことを諦めないで」
夏樹がいきなりそんなことを言い出した。
「誠一にだけは美月ちゃんのことを諦めて欲しくない」
「どうして?」
「あたしじゃダメだから。立ち止まってしまっている私の思いじゃ、美月ちゃんの心には届かないと思う。立ち止まらなかった誠一の思いじゃなきゃ」
屋上の手すりを握りしめる夏樹の悲痛な横顔が痛々しかった。
立ち止まらなかった……か。
本当に僕は立ち止まっていないのだろうか?
僕は前しか見ようとしていないだけなんじゃないだろうか。
後ろを振り返るのが怖くて。抱えているものに気付いてしまうのが怖くて。
ただひたすらに絵を描き続けてきただけだ。
立ち止まっているのと、前しか見ないで歩き続けるのは大差がない気がする。
そんな僕の声が美月ちゃんに届くのだろうか?
目の前の真っ白なキャンバスを見つめる。
空白のページ。そこに答えはない。
全てを真っ白にリセットしたいという思いが、美月ちゃんに自殺未遂をさせた。
外側では僕らの声に耳を塞ぎ、内側では思い出すことを拒否している。
彼女はこのキャンバスのように空白だ。
白という色さえ描かれていない空白のキャンバス。
もしくはただただ青いだけのいまの空のようだ。枠線さえも見えずにこのまま白紙の中に溶け込んで消えてしまうんじゃないかと不安になる。
どうにかして彼女の色を取り戻して上げたい。
消えないように染め上げたい。
でも……そのためには……。
「美月ちゃんに自分の記憶と向かい合わせるしかない」
僕がそう言った途端、夏樹の顔に躊躇いの色が浮かんだ。当然だ。
僕だって本当にそれでいいのかわからない。
思い出と向かい合わせるのは美月ちゃんにとって酷なことだ。
自殺未遂に至ったほどの記憶なのだ。辛くないはずがない。
「だけど……このままにはしておけない。『このままじゃ何も変えられない』『美月ちゃんのことを諦めて欲しくない』って、僕に言ったのは夏樹じゃないか」
「それは……そうだけど」
これからどんな楽しいことだってできるのに、止まったままではそれも叶わない。
夏樹もそれはわかっているから「それでいいのかな?」とは聞かない。
そんな夏樹に答えるように僕は笑って見せた。
「一つ思いついたことがあるんだ。やれるだけ……やってみようと思う」
夏樹は少し逡巡するような素振りを見せたけど、
「そう……。うん。頑張って」
そう言って応援してくれた。
夏樹は美月ちゃんの抱えている問題を見抜いてくれた。
今度は僕の番だ。僕だからできることを精一杯やろう。
思いを届ける手段ならすでに僕の手の中にある。
病院の廊下を早足で歩く。
僕の手には画材道具が一式、夏樹の腕の中には布にくるまれたキャンバス。
準備をしていたら結局昨日と同じような時間帯になってしまった。
早足に歩く僕の心は逸っていた。早くこれを美月ちゃんに見せたかった。
これで美月ちゃんを癒せるかどうかはわからない。
だけど、わずかなりとも心を揺らすことができたら……。
すると廊下の反対側から春花さんがものすごい勢いで走ってくるのが見えた。
なんだか酷く焦っているようだった。
「どうしたんですか?」
「あ、誠一君、夏樹! 美月ちゃん見なかった!?」
息を切らせながら春花さんは尋ねてきた。
そのただならぬ様子に夏樹の顔色も変わっていた。
「美月ちゃんになにかあったの?」
「いなくなっちゃったのよ! 病室に行ったら空になってて、あちこち探したんだけど見つからなくて……中庭もトイレも『ラベンダー』のある踊り場も全部探したんだけど、どこにもいないの。荷物はあったしパジャマのままだろうからまさか病院の外に出たって事はないだろうけど……まだ病み上がりなのに……」
「大変じゃない! 早く探さないと!」
夏樹も一緒になってあわて始めた。
そんな二人の様子を横で見ていて僕は逆に冷静になっていた。
焦る二人を余所に僕は順を追って考えてみた。
僕らはこの病院での入院歴が長かった。
ある程度体調が回復してからは、夏樹と二人でこの病院の中を探検したものだ。
だから病院の構造は、下手したらここで働く春花さん達よりも熟知していた。
春花さんよりも……僕らが知ってて春花さんが知らない……そうか!
「秘密の抜け穴だ!」
「抜け穴?」
「あっ! あの抜け穴ね!」
僕の突然の大声に二人の反応は分かれた。
なんのことだかわかっていない春花さんは怪訝な表情を浮かべ、わかっている夏樹は合点がいったような顔をして、
そして次の瞬間には夏樹も焦りだした。
「って、だとしたらまずいじゃない! いまの美月ちゃんがあそこに行く理由なんて最悪なことしか思いつかないよ!」
「うん、僕もそう思う。急ごう」
僕らはわけのわかってない様子の春花さんを引っ張って走り出した。
入院時代の僕と夏樹の秘密の場所。
この病院の屋上へ。
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