ぬいぐるみの世界

つぶらな瞳

本文

 僕は今、ゴミ捨て場にいる。なんの変化も感じさせないゴミ袋の中で、なんの感情の起伏もなく、ただ目の前の道路を見つめている。車が通り過ぎるたびに時間は流れていく。

 臭い、汚い、そういう心を貪るような感覚がないのは幸いだ。不快にならずに済む。

 一体なぜこんなことになってしまったのか。

 僕は今日の昼ごろまではある家にいたのだ。街の隅っこに佇む小さな一軒家に。そこには由花ちゃんという六歳の女の子とそのお母さんがいた。僕はこの家族とともに暮らしていたのであった。

 由花ちゃんはいつも僕と一緒に寝てくれた。時折聞こえる寝息が何より心地よかった。また、週に一度は僕を連れて近くの公園へ散歩に出かけてくれた。草木の爽やかな匂いと照りつける太陽の光が感じられて好きだった。たまに、由花ちゃんは友達と遊ぶ時があった。そのときはベンチに置かれ、その様子を眺める許可を与えてくれた。由花ちゃんは走り回った。友達も走り回った。こうして由花ちゃんが幸せそうにしていることが、嬉しかった。

 お母さんは優しい人だった。由花ちゃんが僕と一緒に遊ぶとき、耳や足をよく引っ張るのだけれど、お母さんは注意してくれた。「この子にも、心があるのよ。だから由花が乱暴にしたら、この子は悲しくなっちゃうの」。また、由花ちゃんと二人で小旅行に行く時も、「この子も連れて行こうか」と言ってくれた。僕のプラスチックの目が、ぶるぶる震えてしまうほどだった。

 お父さんはいたのだけれど、仕事から帰ってくる頃には僕は由花ちゃんと一緒に寝ていたので、見たことはなかった。由花ちゃんはお父さんが大好きだったようで、食事中にいつも「パパに会いたいな」と言っていた。しかし、最近はパパという単語が話題に出てくる機会が完全になくなった。理由はなんとなく察することができた。

 由花ちゃんは僕のお姉さん、お母さんは僕の本当のお母さん、そう勝手に認識してしまうほどに僕は家族の一部として溶け込めていた。

 僕はこの生活に満足していた。数あるぬいぐるみの中でも、群を抜いて充実しているだろう。そういう自覚があった。

 ではなぜ、こんなところにいるのか。

 それは、二人が昼ごはんを食べ終わった後のことだった。僕は由花ちゃんの部屋のベッドで横になっていた。そこに、由花ちゃんとお母さんがおしゃべりをしながらやってきた。いつものほのぼのする空気に心が満たされた。すると、お母さんが僕を無機質な目で見つめながら、こう言った。

「ほら、この子はもうわたが飛び出してるし、毛も汚くなっちゃったでしょう?新しい子に変えましょう」

 僕はまだ何を言っているのかがわからなかった。由花ちゃんが、嫌だ嫌だ、と叫んでいるのを聞いて悲しいことなんだろうなと思った。

「わたしこの子がすきなの、この子は私の友達だもの」

 由花ちゃんは僕を持ち上げた。そして、僕の頬と由花ちゃんの頬をぴったりつけた。僕の視界は変わり、お母さんが視認できるようになった。

「そう言うと思って、ほら。新しい子はね、喋ってくれるのよ」

 そこで、お母さんがぬいぐるみを持っていることに気づいた。それは、僕より小さく、僕より硬そうで、僕より新しかった。

 突然お母さんが、お、は、よ、うと言った。そのぬいぐるみは、お、は、よ、うと繰り返した。ぎこちない声で、ゆっくりで、たいしてすごくはない、ただ一つの特徴であった。しかし、こういう機能を子供は好む。特有の好奇心が湧いてくるのだ。案の定、由花ちゃんは満面を笑みを浮かべた。先程の敵を威嚇するような表情は、消え去った。

 由花ちゃんはお母さんから受け取ったそれを、楽しんで遊んだ。お母さんは、「じゃあその子が今日から家族の一員ね。このクマのぬいぐるみは捨てちゃうけど、いい?」と拒否を許さない形で問いかけた。由花ちゃんは頷いた。 

 僕との思い出はなんだったのだろうか。僕を友達だと肯定してくれた由花ちゃんはどこへ行ったのやら。しかしこんな疑問を持ったとしても、由花ちゃんは子供なのだから悪いところは一つもないのであった。

 お母さんはその日のうちに僕を袋に詰め始めた。まだ僕はぬいぐるみとして生きていたい、二人と過ごしたい、こんな願いはお母さんに伝わらない。ぬいぐるみなのだから。

 そうしてあっさりとゴミ捨て場に投げ入れられ、今へと至るのだった。

 僕に悪いところはないはずであった。見た目だけでいえば、衰えているとはいえどもあいつに勝っている自信があった。機能なんてあろうが、最後は美が力となるのが玩具の良さである。しかし、お母さんは僕の悪いところを見つけたから捨てたに違いなかった。それを自覚していない自分と否定している自分が恥ずかしかった。こんな自分は捨てられるべきだろうと思った。




 一週間が経った。ということを捨てられてあったカレンダーから知った。

 夜になろうと空が準備している頃、男がやってきた。黒いコートを羽織り、カツカツという革靴のはっきりとした音が響く。そしてその男は、僕の目の前に立った。何も言わずに、袋の持ち手を握った。

 僕は車に乗っていた。正確には独特な揺れの感じ、袋の中に広がるうっとりとした匂いから判断した。僕は誰かの家へ連れて行かれている。二人の家しか経験したことのない僕は、なんとなく心配になった。

 しかし、僕は由花ちゃんとは違う。この流れに抵抗することはできず、身を任せるのがぬいぐるみにできる最大限だった。だからその数十分を楽観して過ごした。

 今度はまた持ち手を握られている。揺れが強い。僕はめまいがした。

 入れさせられた部屋は、シンプルだった。玄関周りは何も置いていない。繋がっているリビングにも、机、布団、パソコン、テレビ以外何もない。まるで部屋が装飾を拒んでいるかのようだった。

 男は袋から僕を出し、部屋の隅に置いた。 

 僕を見つめこう言った。

「俺を救ってくれ、頼むよ」

 これはまた、難しい人に拾われた。

 男はほとんど家にいることがなかった。それもそうだ。男は会社員であった。

 男の朝は早い。パンのいい匂いがしてきたと思ったら、いつのまにかスーツに着替えていて颯爽と外へ出ていく。そして、空が闇に包まれて、家具や本の色がわからなくなってきた頃に男は帰ってくる。この繰り返しだった。

 そんな忙しい中でも、男は三十分ほど僕を触ったり撫でたりする時間をとった。そうすることで得られる感情が男を癒してくれるのなら、ぬいぐるみとしては嬉しい限りだった。

 男はたまに知らない女性と玄関の前でお話をした。僕は部屋の隅からそれを見た。その女性は由花ちゃんともそのお母さんとも違う、あどけないが力強い声をしていた。男は厳格そうな態度の中に弱さを隠した。そんな状態で彼女の応答を拒否し続けた。彼女は時折怒りをあらわにした。男はそれに影響されて逆上する、なんてことはなかった。あくまで距離を保つことを重要視していた。そして、彼女はドアを乱暴に閉めて、いなくなるのだった。

 男は音楽が好きなようだった。帰ってくると同時に、スピーカーから音楽を鳴らし、床に寝転がりながら音に包まれていた。たまに僕をお腹に乗せ、耳を引っ張り、音楽を聞かせようとしてきた。その行為に意味があるとは思えなかった。男は意味のないものが特に好きなようだった。

 なんだかんだ、僕は男との生活が快適だった。由花ちゃんとお母さんとの生活が恋しくなる時もあるけれど、僕はもう必要ないのだから戻っても虚しくなるだけだと勝手に納得した。

 ある日、男は休日に僕を連れて動物園に行った。車がごとごと揺れる感覚は前よりも慣れた。

 動物園では、僕が動物を見れるようにトートバッグに入れ、顔をちょこんと出してくれた。

 僕は人間以外の動物を見るのが初めてだった。らいおん、ぱんだ、しまうま、きりん、どれも特徴的で興味が尽きなかった。

「どうだい、面白いかい。楽しいかい」

 そう男が言ったので、心の中でうなずいておいた。

 急に雨が降ってきた。男は傘を持っていないようだった。男は僕をバッグで包み、抱きかかえた。濡れないようにしてくれているのだろう。僕は男の腹から体温を感じた。なんとなく落ち着いた。

 車の中に入ると、

「大丈夫か。ごめんな、冷たかったろう。今すぐタオルで拭いてやる」

 男は僕の傷んだ毛が抜けないように優しく拭いた。一体なぜここまで大事に扱ってくれるのか。相当な理由があるのではと疑わずにはいられなかった。

 ぬいぐるみの一生なんて、つまらない。僕たちは人間のようにしゃべったり、歌ったり、踊ったりできないのだ。さらには個性もない。人間のイメージするぬいぐるみと寸分の狂いもないように、何万もの兄弟が生産される。形や質の違いは許されないのだ。

 僕のように新しい波に飲まれ、廃棄の道を辿ってしまったぬいぐるみは数多くいる。ぬいぐるみに命はない。人間としても罪悪感はないのだろう。だから僕たちは、愛された一瞬にすがって虚しく死んでいくのである。なんと寂しい一生であろうか。




 一ヶ月が経った。

 男が女性と会う機会は増えた。会うたびに口論になっていたのはいつものことだったが、最近はそれも過激になってきた。男をビンタしたり、近所迷惑になるほどに叫んだりした。それでも男は怯まなかった。

 彼女はいつか爆発するだろうと男は分かっていたはずだ。だが、男は意地を曲げなかった。

 その爆発は、すぐに起こった。

 彼女は男という壁を突き破り、部屋の中に入ってきた。

「お邪魔します」

「待ってくれ、ここは僕の空間だ。君、今馬鹿な行動をしていることをわかっているのか」

「だから、私と付き合ってよ、先生」

「僕には妻子がいるんだ」

「でも一緒に住んでいないじゃん」

「それは君が、あの写真を」

「結婚してくれても、いいんだよ。もう私十八歳だから新しい法律も関係ないし」

「頼む、帰ってくれ」

「頼む、ってさ、最初に誘ってきたのは先生の方でしょ」

 なるほど、男は教師でこの女性は生徒なのか。実にこじれた関係だ。

「勉強しててわからなかったこと聞きに行っただけなのに、それから毎日図書室で話すようになって。でもそれは、『もっと頭が良くなりたいだろう?なら僕と勉強しよう』って言ってきたからで、つまり先生から誘ってきたんだよ」

「違う、あれは本当にそのままの意味で」

「じゃあ勉強してる最中に手を握ってきたのもそのままの意味なんだよね?」

「そんなことしていない」

「いやしてたよ、私はそれで好きになったんだから」

 男は黙った。黙ることでこの場を解決させようとしていた。

「……まだ、妻に悪さをしているのか」

「最近はしてないかも。そんなことするくらいなら先生にあの熱い気持ちを思い出してもらうほうがいいと思ったし」

 男は彼女のペースに翻弄されていた。ガツガツ来られるのに弱いのだろう。

 向日葵のような月が窓からこの部屋をのぞいている。二人の進展にそこはかとなく期待をしているようだ。

「わかった、一回だけ食事をしよう。それでもうやめにしてくれ」

「食事なんて、もので許せるほど簡単な女じゃないよ私は。私はね、先生にもっと本気になって欲しいだけ」

 そんな中突然、視界を障害物が汚した。

「このクマさん、大事にしてるんでしょう。これ、私もらってくから」

 男は何かを言おうとした、しかし、言葉が出ないようだった。男は顎を震わし、喉の奥を鳴らした。

「私、可哀想な先生を見るのも好きなの。日曜日空いてるから、そこのカフェで」

 彼女は鷲掴みから首の根っこを掴む持ち方に変え、玄関を優しく閉めてこの部屋を出た。

 不安ではあった。この女性はナイフで僕をぐちゃぐちゃにするかもしれないし、フリマアプリで売り飛ばしてくるかもしれない。

 しかし、その不安もすぐに消えてしまうものなのだ。僕は定められた命がない。僕は人間になれない。だから、どうされようが僕はそれを受け入れるべきであるのだ。

 僕は水流に乗っかっているだけの小石だ。周りも同じように小石で、だから劣っているとか勝っているとかどうでもいいのだ。生まれてきた世界を十分に満足して、いなくなっていければいい。




 彼女は何もしなかった。自分の部屋に入るや否や、リビングに僕を投げ捨て、そのままにした。男に大切にされていたから意味のない嫉妬を向けてくるのではと怯えていたのだけれど、男の呼び出すのにうってつけの道具として見ているのか、危害は加えてこなかった。

 それでも、普通ではない。彼女は日曜日が近づくごとに狂いだした。突然上を見て過呼吸になったり、何時間もダンスを踊ったり、表面上の本能をより強くしているようだった。

「あなたは、別に何もしなくていいから」

 前日にそう呟くと、僕を洗濯ネットに入れ、洗濯機にぶち込んだ。僕は暗く狭い空間で、永遠にも感じる時間を過ごした。メカニカルな音は僕を攻め倒す。より閉塞感が増した。




 ここはどこだろう。客を癒やそうと必死な音楽が聞こえる。女らしさを失って掠れた声でそこかしこで騒いでいる。コーヒーの良い香りがする。

 そして、理解する。ここはカフェであるのだと。

 近くで喋っているのが聞こえる。

「あなたから、誘ったわけじゃないのよね。斉藤さんがこの交際を進めたのね」

「はい、そうです」

「この写真も撮られるべくして撮られたと?」

「先生は言っています」

 この諭すような気難しい口調の中に少しの優しさを含ませる話し方、由花ちゃんのお母さんだ。

 振り向きたいと思った。そうしたら、僕の体は反対の席にいる由花ちゃんとお母さんに向いた。彼女の手がたまたま当たったからだった。

 由花ちゃんは新しいぬいぐるみを幸せそうな顔で抱えている。お母さんは僕が滞在していた頃にも着ていた黒のコートを抱えている。

「このぬいぐるみは、なんであなたが持ってるの?」

「先生が教えてくれるのではないでしょうか。私にはわかりません」

 お母さんは諦めたようで、長いため息を吐いた。

 男は周辺が静寂に包まれた頃、やってきた。いつものスーツのままだが、ボタンを外してシャツを出すことでカジュアルに見せている。男は目を見開いた。

「なぜ?」

「この子が、電話で告白してきたの。あなたと付き合ってるって」

「とりあえず先生、ここに座ってください」

 彼女は席を一つ詰め、男の席を確保した。

 由花ちゃんがいるとは思えないほどに緊迫した空気が流れた。

「もうあなたとは関わらないつもりだったんだけど」

「僕もそう思っていたよ。一体君は何をしているんだ」

 と言って彼女の方を睨んだ。

「モヤモヤした状態で愛し合っていても嫌でしょう?先生」

 彼女は満面の笑みを浮かべ、述べる。

「ではあなたに、私たちの歴史を伝えますね」

「実は、私たちはほとんど話したこともない関係でしかなかったんです。まあ、普通そういうものなんでしょうけど。しかし、私が勉強を教えてもらいたいと言ったことで知り合って、先生にこう言われました。『二人の関係を連立させよう』って」

「違うだろう。僕は、二つの関数を連立させよう、と言ったんだ。勘違いだ」

「あら、そうでしたっけ」

 彼女は馬鹿らしくとぼけた。

「私は今までに男の人と付き合ったことがなくて初めは戸惑うばかりでしたが、だんだんと先生にのめり込むことになりました。そして、その写真の出来事が」

 お母さんは机の真ん中に勢いよく置いた。

 男はそれだけに集中できるようにして凝視した。どうしてだ、こんなの違う、とつぶやいた。

「違う、なんて言ってんじゃないわよ。あなたが本能の赴くままに動いた結果でしょう、それくらい認めなさいよ」

 男は単語しか喋れない体になってしまったようだった。いや、そんな、という言葉が場を占めた。

 彼女は、もっと困って、と男に向かって言葉をこぼした。

 お母さんは写真を引き裂いた。

「そ、そうだ。由花にあげたいものがあって」

 今度はガッチリとした手が僕を掴みにかかる。

「この、ぬいぐるみなんだけど」

「僕の生活と共に過ごしたこいつを受け取ってくれないか。僕のことを思い出さなくてもいいから、こいつの中に僕がいるから」

「あなた、気が狂っているのね。それ、私が捨てたやつでしょう。汚いものは捨てるべきよ。由花は新しい子を持っているしね」

 由花ちゃんが持っている僕の代わりのぬいぐるみは、しね、しね、とお母さんの語尾を繰り返した。

「一生のお願いだ。もう一回チャンスをくれとは言わない。行為まではいっていないとはいえど、少なくとも生徒をたぶらかしてしまったことに責任はあると思う。だからこれだけでいい。由花の父親代わりとして」

「じゃあなんで、この子が持っていたの?」

「それは、お願いされたから」

「大事なものを軽い気持ちで明け渡せる、ということね」

 お母さんは感情に支配されていた。

「大体ね、あなたの他人に流されてしまうところが大嫌いなの。私がちょっと責めただけで、あなたの意見はグミみたいに変わっちゃう。そんなんでよく先生なんてお堅い職業に就けたわね」

「あなたは人間として終わってるの。こんな腐ったガキと過ごすのがお似合いよ」

 お母さんは髪をなびかせる。

 彼女はお母さんからの侮辱など気に留めてないといった表情を男に見せた。

「落ち着いてください。そうです、あなたの言った通り私たちは二人で幸せに暮らしてゆきますから」

「なんてことない日常を楽しんでください」

 彼女は男の手を握り、店を出ようとした。しかし、男は頑なに動こうとしなかった。ほら行きましょう先生、どうしたんですか、もしかしてお腹を壊してしまったんですか、しょうがないですね先生。

 男は机を両手でぶっ叩いた。グラスや皿が聞き心地の悪い音を出す。周りの客も含め、その場が凍りついた。

「ぼ、僕だってねえ、毎日一生懸命生きてるんだよ。朝目覚ましより早く起きて支度をして、クソくだらない生徒につまらん授業をして、こんなバカ女の相手をして、帰ってからも寝る間を惜しんで仕事をして。僕だって幸せが欲しいさ。責任があるとかなんとか言ったけど、できるならもう一回やり直したい。三人で楽しく過ごしたい」

 男は彼女の肩を掴む。

「なあ、君は愛を壊したことに責任を感じているのか。お前みたいな馬鹿を愛すると思っていたのか。心の底までガキだな。僕は妻を愛しているんだよ」

 彼女は放心状態にあった。お母さんは驚きを隠せないまま、男に問いかけた。

「その言葉さえ、詭弁なのよ」

「いいや、僕が躍起になっているのは本当のことだ」

「その女の子がいるのに?嘘じゃない」

 お母さんは涙声で言った。

「僕が教師という仕事に酔っているから起こってしまった、事故なんだ」

「先生、なんでそんなこと言うの」

「うるさい黙れ」

「あなたは、あなたは私をどうしたいのよ!」

 場は混沌の淵をスキップするかのように、個人と個人と個人が絡み合っていた。まるで世界がこの三人だけで成り立っているかのようだった。

「帰りましょう、由花。こんなところにいてもつまらないわよね。一人にさせたくなかったから連れてきちゃったけど」

「それでは。私の生きてきた中であなたが一番嫌いなんだってことがよくわかったのは収穫と言えるのかしらね」

 立ち上がるお母さんを引き止めるため、男はがっつりと腕を掴む。

「僕は変かもしれない。僕は馬鹿だ。だから、こんなことしてしまうんだ」

「それを受け入れてくれるのは、あなたしかいないんだ」

「僕は本気だよ」

 二人は見つめ合う。彼女は不敵な笑みを浮かべながら、その二人を探るようにながめていた。その表情は勝利に溺れたようではなく、むしろ今を楽しんでいるようで、僕はこれに複雑な苛立ちを感じた。

 この二人をなんとかしてやりたいという衝動がやってくる。そして、それが本物の感覚かどうかはわからないが、彼女を殺したくなった。これが人間になることなのだと理解した。しかし、僕には動かせる口がない。偽物の口ではどうすることもできない。

 僕を出したい。僕を表現して、新しい瞬間を始めたい。いつもは宿命だと思っていた「ぬいぐるみ」であるということが一番厄介なのであった。

 そこで、声を真似るぬいぐるみが近くにあることに気づく。声という概念がもっと汎用的なものなら、伝わるのではないか。僕は初めて念じるという行為をした。僕の思いが言葉になれば、この状況は変えられるはずだ。そう確信していた。

 お母さんが今にも手を離し、由花ちゃんと一緒に帰ってしまいそうな時、喋るぬいぐるみは機械的な音声を流した。

 や、め、て。

 三人が同時に由花ちゃんを見る。何かの間違いだと小さく笑ったお母さん。唇が震え出した男。無心で無表情な女性。

 由花ちゃんとそのぬいぐるみは同じようにボケっとしていた。

「由花、何か言った?」

「なんにも」

 由花ちゃんはにんまりとした。

 僕は再び念じた。男にもお母さんにも幸せになって欲しいから。僕なんてどうでもいい。僕の使命は人生を潤すことなのだから。

 そ、の、ゆ、び、わ、は、な、に。

 お母さんは左手の中指を、男は左手の人差し指を確認した。どちらの指もリングがきらりと輝いていた。

 時間の流れは恐ろしいほど遅くなった。

 彼女は困惑の網をほどくことができたようで、それがどうしたの、離婚すればいつでもまた取り替えられるガラクタでしょう、と男に問いかけた。男はそれを無視し続けた。男は指輪を丁寧に触り、金属の冷たさを体温でかき消した。

 お母さんはそれを取り外そうとした。第一関節に差し掛かった時、急にやめた。やめざるを得なかったのだろう。数多くの思い出は映画のように再生され、男と由花ちゃんと過ごした日々が若さを追い求めさせる。まだみずみずしい自分でいたい。優しい愛を経験したい。そして、その愛を衰えた自分に受け入れられる形で作り替える。そうすれば、とお母さんは期待し始めた。

 これこそ、愛の形なのではないか。一度のめり込んでどっぷりと浸かって、けれど冷めて他に目がいってしまって、結局自分にぴったり合うのはこの人だと再確認する。今までのごたごたは単なる過程だったのだ。あるべき事をなぞってきただけなのだ。

 二人はまた見つめ合う。それはなんとも綺麗な瞬間だった。お母さんは男を認め、男は自分の弱さと強さを認識した。それが二人にとってどれだけ必要だったことか。二人は同じタイミングで口角をあげ、目を細めた。




 僕はまた由花ちゃんの家に引き取られた。喋るぬいぐるみはお母さんが怖がって捨てたようで、由花ちゃんはまた僕と一緒に寝るようになった。お母さんは心霊現象を信じないタイプの人だ。だから、あの出来事を奇跡だと認めたくないためにお母さんは捨てたのだ、と僕は思っている。

 男はお母さんと由花ちゃんに会えるようになった。人間関係の完璧な修復とはならなかったようだが、それでも僕は嬉しかった。三人の懐かしく新しい幸せが生地越しに伝わってきた。

 今日はあの日から三度目の、男がやってくる日だ。

 ドアが開いた。

 由花ちゃんが駆けていったから、由花ちゃんが抱えている僕もその場所へ行くことになった。

「おかえり、パパ」

「ただいま由花。お母さんはいるかい」

「うん、よんでくるね」

 由花ちゃんが振り返ると、お母さんは、なに、と言ってやってきた。

「あなた、また来たの」

「なんだか、物足りなくてさ」

「まったく」

 お母さんは奥底の優しさをとびきりに出したがっていた。

 お母さんはなんと偶然、という表情を浮かべた。

「私、あなたにお金は払ってもらわなくていいって言ったじゃない。でも、私が働いてるとはいえど、一人の給料じゃまかなえきれないところもあるの」

「だから、あなたが戻ってきたらいいんじゃない、と思ってて」

「もちろんこれは由花のためよ」

 男は僕が知る中で一番気持ちの晴れやかな笑顔を向けた。

「ありがとう」

「だから違うって」

「わかってるよ。わかってるからありがとうなんだ」

 お母さんは変な人、とつぶやいた。

 突然お母さんが男に抱きついた。男は驚愕するも、すぐに両手をお母さんの腰の下にまわした。由花ちゃんも男の足に巻き付いた。男は由花ちゃんの頭を二度ポンポンした。

 この時男はお父さんになることができたのだろう。僕はそれを嬉しく思う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ぬいぐるみの世界 つぶらな瞳 @aitaikitigai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ