第58話 単純な話だった

 静岡県、浜名湖。


 昨日泊まったホテルの最寄駅、弁天島駅に戻って来た頃には、時刻は午後5時を回ってた。


 天上山の麓でタクシーが捕まらず、バスで帰ってきたため随分と時間を食ってしまった。


 空は少しずつ赤の面積を増やしつつあった。

 どこかでカラスの鳴き声がする。


 駅を出るなり、俺は走り出した。

 目的地まで徒歩でもすぐ着く距離だが、その場所で七瀬を探すことを考えると1分1秒すら惜しい。


 手を、足を、全力で動かす。

 帰宅部の体力はものの数分の疾走で底をついた。


 息が、鼓動が、不規則なリズムを刻みだす。


 苦しい、足が痛い。

 全身が熱い、肺が痛い。


 なんで俺、こんなしんどい思いをしているんだろう。


「七瀬」


 会いたい、と思っているから。


「七瀬……」


 心の底から、会いたいと思っているからだ。


「七瀬ッ……」 


 いなくなってから気づいた。

 俺はこんなにも、七瀬を失いたくないと思ってる。


 そばにいて欲しいと思っている。

 自分の身がどうなっても、七瀬に生きて欲しいと思ってるんだ。


 七瀬と過ごしたのは5日間。

 そのたった5日の間のうちに、七瀬は俺にとってかけがえのない存在になっていた。


 人形のように整った顔立ちも。

 

 他人を射殺す鋭い双眸も。

 

 いつもどこか不機嫌な口元も。

 

 すらりと高い背丈も。

 

 キラキラと光沢を放つ長い黒髪も。


 プライドが高くていつも上から目線なところも。


 クールで無感情でどこか澄ましているところも。


 口を開けば理屈っぽくて相手を論破し始めるクッソめんどくさいところも。


 でも、根は心優しくて献身的なところも。


 いつも冷静で正しい判断をするところも。


 負けず嫌いで素直じゃないところも。


 ずば抜けた能力で並々ならぬ成果を出し続けてきたところも。


 人一倍頑張り屋で、どんな逆境に対しても立ち向かってきたところも。


 他人に興味がないように見えて実は周りをよく見ているところも。


 強がっているように見えて案外寂しがり屋なところも。


 ちょっとしたことで感情を出して可愛い反応をするところも。


 おいしいものを食べてつい表情が綻んでしまうところも。


 基本無表情なのにたまに見せる笑顔が可愛いところも。


 好きだ。


 全部好きだ。


「……ああ、そうか」


 好きなんだ、俺、七瀬のこと。

 だから、死んでほしくないんだ。


 単純な話だった。

 とてもシンプルかつ、絶対的な理由だった。


 何が決定打とかは覚えていない。


 富士山と夕陽を背に微笑む七瀬に心臓が高鳴った。

 いつも毅然としている癖に飛行機で子供みたいに震える七瀬に庇護欲を掻き立てられた。

 怪我をした男の子を手当てする七瀬の姿に胸の辺りが温かくなった。


 思い返せば、俺が七瀬を異性として認識するタイミングは何度もあった。

 なんなら、七瀬の事は旅を始める前から気になっていた。


 学校ではいつも一人。

 暇さえあれば教科書やノートと向き合う七瀬の姿を何度も目にしていくうちに、多少なりとも彼女を意識していた。


 周りに適応できず、なるべくしてクラスでぼっちになった俺とは違って、彼女は自ら一人の状況を作り常に自己研磨に励んでいた。

 いつも自分を貫いていた。

 

 その姿勢になんというか、惹かれていた。


 それが恋愛感情だったのか、ただの憧れだったのかはわからない。


 自分とは立場が違いすぎるし、相手にもされないだろうと思っていた。

 

 ただ確実に言えるのは、今回の旅を通して七瀬に対する気持ちが深くなった事。


 立ち位置も、性格も、考え方も、趣味趣向も自分とは対極にいる存在で、俺が持っていないものをたくさん持っているからこそ、好きになったという事。


 それだけは絶対だった。


 人生初の感情を自覚して、胸のあたりに温かいものが到来する。

 どこかふわふわした気持ちになって足元が疎かになった結果、ものの見事に躓いた。


「ぐぅっ……」


 前から地面にずっこけて、両掌と膝に焼けるような痛みが走る。


 怪我の状態を確認する間もなく、立ち上がってまた走った。


 ただただ七瀬に会いたい。


 その一心だった。


 目的地はもう、すぐそこまで迫っていた。

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