第44話 奏の旋律

「ここって……」


 俺が連れてきた場所──ストリートピアノの前で、奏さんが目を丸めている。


 当たり前だ、なんの脈略もなかったんだから。


「奏さんのピアノ、聴かせて欲しい」


 本心を、はっきりと告げた。

 俺の言葉に、奏さんはみるみる表情を曇らせた。


「……純粋に、私の演奏を聴きたいって意図で言ったわけじゃないわよね?」


 鋭い。

 多分、誤魔化しは効かないだろうから、真意を告げる。


「奏さんに、ピアノを弾いてほしいんだ」

「弾いて、欲しい?」

「ああ」

「理由は?」

「本心では弾きたいと思っているのに、弾かない。やりたくもない仕事に没頭することで、その事実から目を逸らしている。その姿勢が、見ててモヤモヤするんだよ」


 空気がピリッとした物に変わる。

 奏さんにとってこの話題はセンシティブな領域。


 わかっていて踏み込んだのだから、当然だ。

 ああ、本当に俺は空気が読めない。


 思いつきで行動するし、一時の感情で余計なことを言ってしまうし、してしまう。


 だけど不思議と、今この瞬間の行動については、後悔は無かった。


「なるほどね」


 じっと、奏さんは俺を見つめたあと、フッと余裕そうな笑みを浮かべて言う。


「翔くん、君、思った事をズバズバ言うタイプでしょう。営業向いてないよ」

「自覚はある」

「だから……そうね……クリエイター向きかもしれないわね」

「話、逸らすなよ」


 俺は真剣なトーンで言うと、奏さんは表情から笑みが消えた。

 大きなため息。


「言ったでしょう、ピアノはもう、やめたの。高校3年の時できっぱりとね。私の中ではもう、折り合いがついていることだし今更弾き直そうなんて思ってないわ」


 まるで、自分に言い聞かせるような口調だった。


「それに、やりたくもない仕事って決めつけたけど私は今の仕事にそれなりに満足しているし充実している。そりゃあ激務だし休みも少ないし神経すり減るのは日常茶飯事だけどやりがいはあるわ。それを否定するのは失礼にもほどが」

「でも、弾きたいのは本心だろ!」


 思わず強く言い放っていた。

 違うとは言わせない。


 そう確固たる思いが籠った言葉に、息を呑む音が聞こえた。


「昨日今日と、どんだけ現状の不満を垂れ流してたのか自覚ないのか? そりゃあ、やりがいは感じてるだろうし、そこそこ充実しているだろうけど……それよりも、ピアノを弾きたいんじゃないのか?」


 奏さんから返答はない。

 その沈黙が、肯定を意味していた。


「弾きたいなら、弾くべきだよ。自分の”好き”に、嘘はつかない方がいい」


 それは、俺に対する自戒でもあった。


「……………………無理よ」


 たっぷりと間が空いたあと、ぽつりと、奏さんが溢す。


「もう何年も弾いてないし、リズムも忘れちゃったし」


 どこかで聞いた言い訳がすらすらと溢れ出す。


「もう指も思うように動かないだろうし、ひどい曲しか弾けないだろうし、第一、私、まだタスクをたんまり残してるから、時間もな……」

「言い訳ばかりして、また逃げるつもり?」


 今まで沈黙を保っていた七瀬が、強い言葉で被せてきた。


「別に……逃げてなんか……」

「逃げてるじゃない、望んだ成果を出せなかった、過去の自分から」


 人は、自分の目を背けたい部分を指摘されると怒りを覚える。

 いわゆる、図星をつかれるというやつだ。


「なんで涼帆ちゃんに、そんなことがわかるのよ」


 七瀬の言葉に怒りを露わにする奏さんはまさしく、図星をつかれたのだろう。


 だが、七瀬が怯むことはなかった。


「わかるわよ。だって…………私が潰してきた演奏者と、同じ顔をしているから」


 どこか乾いた表情で、七瀬が続ける。


「私に負けた演奏者たちの多くは、あなたと同じような理由でピアノを辞めていったわ。ピアノを弾くことより、ピアノで成果を出して、他者に評価してもらう事を目的にしている場合、私という絶対王者が君臨している間は、どう足掻いても絶望しかなかったでしょうね」

「……絶対、王者? 何を言って……」


 そこで、奏さんが何かに気づいたように大きく目を見開く。


「確か……涼帆ちゃんがピアノをやってた時期は……」


 顎に手を添えて、奏さんが深く考え込む。


 それからパズルのピースが繋がったようにハッとして。


「そうよ、思い出した……第34回全国ピアノコンクール小学生の部、優勝者は……」

「昔のことはどうでもいいわ。とにかく、もし貴方が、評価のためじゃなく、ただ楽しくてピアノを弾いていたのだとしたら」 


 すうっと息を吸って、七瀬は、今までで一番強い口調で言った。


「弾きなさい。他でもない、自分自身のために」


 有無を言わせない言葉に、今までどこか虚空を見つめていた奏さんの双眸に、熱い炎にも似た激情が灯り出し──その時、ブーッブーッと、奏さんのスマホが震え始めた。


「は、はい、篠田です。……はい、四菱商事様は確かに、部下の小川が担当ですが……ええっ、ナーチャに失敗して大損害……!?」


 応対から、何やら緊急事態の様子だった。

 なんと間が悪い。

 

 思わず、拳を握りめる。


「それは、大変申し訳ございません、私の監督不行き届きで………はい、はい、え……今から本社、ですか?」


 正気か、オイ?


「あの……今私、有給で浜松におりまして、先方の関係値的にも明日、正式に謝罪をする方向でも良いかと……ええっ、関係ない? 今すぐ来いって……えぇ……?」


 奏さんの表情は、こう訴えているように見えた。“もう嫌だ”と。


 ぽんっ……と、俺は奏さんの肩に手を置いた。


 奏さんがこちらを向く。

 今にも泣きそうな面持ち。


 奏さんのスマホから、上司と思しき男の罵声がギャーギャーと漏れている。


 俺は笑顔を浮かべて、言った。


「もう、素直になってもいいのでは?」


 奏さんが目を見開く。


 その瞬間、曇天色だった表情が、大空のように晴れ渡っていって──。




「私、有休中なので無理でーーーす!!!!!!」




 道ゆく人がビクッとするような声量で奏さんが叫んだ。


 ピッと通話終了ボタンを押す。


 間髪入れずまたスマホが震え出すが、今度はブチ切ってポケットにしまった。


「あまりの下手さに、後悔しても知らないわよ?」


 憑き物が取れたような、清々しい笑顔を浮かべて奏さんが言う。


「下手な曲は、コンクールで嫌と言うほど聞いたわ」

「最高のフォローにして最高の皮肉ね」


 フッと、不敵な笑みを浮かべて、奏さんはスーツを乱暴に脱ぎ捨て俺に放り投げた。


「持ってて。堅苦しいったらありゃしない」


 今から敵の本拠地にカチコミに行く女番長みたいな事を言い残し、ストリートピアノへと歩み寄る奏さん。


 高そうなグランドピアノを懐かしそうにそっと撫でたあと、優雅な所作で腰を下ろす。


 観客は俺と七瀬。

 

 道ゆく人々は予定があるのか、素人の演奏など興味がないのか足を止めずに歩き去っていく。


 だが、それで充分だと言わんばかりに、奏さんは挑戦的な笑みを浮かべた。


 それから赤縁メガネを外し、後ろで括っていた髪を雑にほどく。

 まるで、全ての柵(しがらみ)を強引に解いているように見えた。


「え……?」


 同時に、隣で七瀬が素っ頓狂な声を上げた。

 どうしたんだろう、と思う間もなく、繊細な指先が鍵盤に触れ──。


 そこからの十数分間は、俺の人生の中で忘れられない十数分となった。


 陳腐な言い方になるが、心が震わされた。


 魂のこもった演奏だった。

 

 上手いとか、下手とか、そういった評価を超越した、ただただ純粋なエネルギーがそこにあった。


 曲名はわからない。

 だけど、思わず聞き入ってしまう、ずっと聞いていたくなる。


 技術的な事は何一つわからないけど、その演奏に、奏さんが己の全てを賭けている事がわかった。


 弾き間違えても、音をずらしても、止まらない。

 ただただ弾くのが楽しい、楽しい! 

 

 ああ、なんで今まで弾いてこなかったんだろう。

 これが、これこそが私の全てだったのに! 


 そんな叫びが聞こえてきそうな旋律だった。


 演奏は、あっという間に終わった。


 気がつくと、周りに人だかりができていた。


 子連れの親子、二人組の女子高生、スーツに身を包んサラリーマン。

 皆、真剣な表情を浮かべたまま動かない。


 まるで、奏さんの演奏に圧倒されて呆けてしまっているようだった。

 

 ぱち……ぱち……。

 子連れの幼い女の子が小さな両手を叩くのを皮切りに、会場は大きな拍手に包まれた。


 俺も、力の限り手を叩いた。

 七瀬は、控えめな拍手を贈っていた。


 奏さんが周囲にお辞儀をしたあと、戻ってくる。


「どう? ひどかったでしょう?」


 額にびっしり汗を浮かべた奏さんが、自嘲めいた顔で七瀬に尋ねる。


「コンクールだと一回戦落ちね」

「そうよね、知ってた」

「だけど……」


 頑張った我が子を撫でるような慈愛に満ちた笑顔で、七瀬が言葉を紡いだ。


「素晴らしい演奏だったわ」

「────っ」


 声にならない言葉。

 その後、奏さんの双眸から、つうっと雫が伝う。


「大人の涙は……ダサいわね……」


 震える声。

 ぽろぽろと零れ落ちる涙が、奏さんの笑顔を濡らす。


「大人とは、大人のフリをするのが上手い子供だって、誰かが言ってたわ」

「その定義で言うと……今の私も子供だから、同じ子供の涼帆ちゃんに頼み事をしても……おかしくは、ないわよね」

「……私のできる事は限られてるけど」

「簡単なお願いよ」


 涙声で言うと、奏さんは七瀬の胸に身を預け背中に腕を回した。


「ちょっとだけ、胸を貸して」


 七瀬は何も言わなかった。


 代わりに、奏さんの背中に腕を回し、あやすように叩いた。


 それが合図だった。

 

 七瀬の胸の中で、奏さんは声を押し殺して泣いた。


 まるで、何年も押し殺して溜め込んでいた思いを吐き出すように泣いていた。


 その様子を、俺は静かに眺めていた。


 胸の中のモヤモヤは、いつの間にか消えていた。

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