第41話 七瀬の弱点

「どうした、七瀬?」


 突然、手首を掴んできた七瀬に問いかける。


「…………………………なんでもないわ」

「いや、なんでもない間じゃないだろ」


 昨日もあったなこのくだり。

 確か、奏さんが海に行きたいと主張し始めた時に。


「……げないの」

「え?」

「泳げないの!」


 駄々をこねる子供みたいに言う七瀬。


「カナヅチ、ってやつか?」

「……水には、嫌な思い出があるの」


 水に関する嫌な思い出とは、なんだろうか。

 気になったが、ぷるぷると雷を怖がる子供みたいに肩を震わせている七瀬を見て、思考が切り替わる。


「大丈夫だって、浅いところしか行かないから」

「無理。私、知ってるのよ。海には6本足の怪物がいて、人間を発見するや否や足を掴んで海中に引き摺り込むの」

「どこの三文ネット記事だよ」


 突然IQが下がることあるよな七瀬。

 奏さんといい、天才あるあるなのだろうか。


 まあでも、せっかく沖縄に来たのだ。

 砂浜に三角座りしてぼんやりと、俺と奏さんの遊泳を眺めているだけというのも忍びない。


 ここは俺がリードする場面だな!


「安心しろ。俺がそばについててやるから」

「あっ、ちょっと……」


 七瀬の手を引いて波際へ。


 足裏に湿った砂の感触。

 波の音に誘われるように足を一歩、二歩、進めて、足首まで潮水に浸す。


 10月ということで冷たいんじゃないかと身構えていたが、意外にもちょうど良い温度だった。


 流石は沖縄の海。


「な? 怖くないだろ?」


 きちんと俺についてきた七瀬に尋ねる。


「……離れたら蒲焼にするから」

「俺は鰻じゃないんだけど」

「おーいっ、こっちこっちー」


 奏さんが少し離れた、腰のあたりまで水深があるところで手を振っている。


「よし、行くか」

「無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理」


 七瀬が超高速で頭を横に振る。


「大丈夫だって。手、繋いでてやるから」


 俺が言うと、七瀬は表情をわかりやすく葛藤一色に染めた。


 しばらくして。

 やがて意を決したのか、ぎゅっと手を強く握ってきた。


「離さないでね……?」


 暗がりに怯える子供のような懇願。


 極上の美少女が見せる上目遣いと、いつもの強気な姿勢は見る影もない弱々しい姿に、心臓が大きく跳ねた。


 このギャップはいかん、威力が凄まじすぎる。

 初秋の沖縄は涼しいはずなのに、一気に顔が熱くなった。


「あ、ああ……大丈夫だ、任せろ」


 七瀬の手を引いて奏さんの元へ。


「お、来たわね? そーおれっ」


 ばしゃっばしゃっ!!


「きゃっ」

「うおっ」


 突然の水鉄砲攻撃に、驚いた七瀬が抱きついてきた。

 潮の匂いに混じって甘ったるい香りが鼻腔をつく。


「ちょっ……!?」


 ざっぱーん!

 七瀬に抱きつかれたまま海中にダイブ。


 俺はすぐに軸を持ち直して立ち上がったが、七瀬がもがもがと暴れていた。


「落ち着け! ここは足がつく! なんなら膝を曲げても息継ぎ出来るぞ!」


 じたばたと足掻く七瀬を宥めつつ水中から抱き起した。


 その際、身体の前面に柔らかいフロンティアな感触を覚えた気がするが、堪能する暇などなかった。


「三途の川が見えたわ」

「生への諦め早すぎない?」


 海水も滴るいい女になった七瀬が、奏さんを親の仇を見るように睨む。


「ふたりとも、大袈裟ね。こんなんじゃ、海上の扇を射止められないわよ」

「那須与一になりたいだなんて一言も言ってないのだけれど」


 これは俺でもわかったぞ。

 海上の扇から瞬で那須の与一が出てきたのはびびったけど。


「まあまあ、せっかく自然に回帰したんだから、思い切り楽しみましょう」


 ざぶんっと、海中にダイブして奏さんが縦横無尽に泳ぎ始める。


「うーーーーんきもちいいーーーー最高―――っ」


 時折、両腕を思い切り広げて叫んでいた。


 その表情はきらきら輝いていて、楽しそうで、昨日の居酒屋で感じた悲壮感を感じさせない。


 楽しそうで何よりだ。


「七瀬」

「何よ」

「そろそろ首が凝ってきたんだけど」

「あっ」


 俺の首に腕を回したままだった七瀬が、バッと身体を離す。


「手は繋がないで大丈夫なのか?」

「さっき海中に沈んだお陰で、少し恐怖が和らいだわ」

「それはざんね……何よりだ」

「……変態」


 これは言い返せない。


「でも……ありがとう。お陰で、少しは泳げそうよ」


 先程の弱々しさから一転、瞳に力を戻した七瀬が言う。


 それから、入念にストレッチをし始めた。

 負けず嫌いの七瀬は泳げないのが我慢ならないのか、カナヅチを克服しようとしているようだ。


「挑むのか、大自然に」

「所詮は水よ。たかだか80センチ程度の海水畜生など、私の敵ではないわ」


 苦手な海に放り込まれて理性がうまく機能していないのか、やけにノリが良い七瀬。


 大きく息を吸い込み、七瀬がバタフライの素振りをし始めた。

 おお、それっぽい。


「見てなさい。私の華麗なるクロールを」

「それクロールだったんかい」


 一気に心配になった。


 が、苦手を克服しようとする勇者に「やめておけ」と言う道理は無い。

 ここはひとつ、大手を振って見送るのが筋というものだ。


「行け、七瀬! 限界を超えろ!」

「言われなくてもっ……」


 双眸に闘志を灯した七瀬が、いざ大海原に挑まんと頭から海中にダイブし──。


 普通に沈んだ。


「七瀬ェェェェェェェェーーー!!!」


 ざぶん! 


 すぐさま飛び込んで、七瀬を救出。


「どうして空は青いのに、水の中は黒いの」


 俺の腕の中で、七瀬が虚な目で空を見上げながら哲学めいたことをぼやいた。


「そりゃお前、目瞑ってるからじゃ?」

「灯台下暗しね」

「地味に上手くて草……ぷっ……」


 思わず吹いてしまう。

 ここまでの一連の流れがあまりにもお約束すぎて、込み上げる笑欲を抑えることができなかった。


「何笑ってんのよ……ふふっ」


 七瀬も、口に手を当てて笑った。

 二人して声に出して笑った。


 あー、楽しい。

 本当に楽しい。


 解放感が半端じゃない。

 

 東京から遠く離れた沖縄の海で、学年一の美少女とはしゃいでいるなんて、5日前の俺は夢にも思わなかっただろう。

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