第38話 奏さんのお誘い
「色々あったのよ」
テーブルに頬をつけたまま、奏さんは言った。
「よくある話よ。自分よりもずば抜けた才能を目の前にして、ああ、彼女には絶対に勝てないなと悟って、今までの自分の努力がミジンコみたいに思えて……」
奏さんの声が消沈していく。
どうやら、割とセンシティブな話題だったようだ。
「それで、モチベがどんどん下がっていって……両親に、やる気がないならやめなさいって言われて……もういいやってなってやめた、それだけよ」
ころころ。
奏さんの指先で、空になったおちょこが寂しげに回る。
空回りしている人生みたいに見えた。
「……そう」
短く、七瀬はそれだけ答えた。
その表情には隠しきれていない動揺が見える。
──私のせいで、本当にピアノが好きな人たちを不幸にしてしまった。
なんという偶然か。
七瀬がピアノをやめた理由の対極に、奏さんがピアノをやめた理由があった。
奏さんの話を聞いて七瀬自身、複雑な心境になったのだろう。
先ほどまで明るかったテーブルに、どんよりとした空気が流れる。
「お待たせしましたー」
やってきた追加の日本酒を、横になったままおちょこに注いでちびちびし始める奏さん。
飲むペースはテンションと密接な関係にあるらしい。
「暗い話はやめやめっ。楽しい話をしましょう」
半身をガバッと起こし、奏さんが会話の舵を地の底から引き上げてくれた。
俺と七瀬を交互に見て、尋ねてくる。
「二人とも、明日の予定は?」
「ぶらり旅だから、特に予定はないよ」
「あらあらあらあら」
奏さんの目が爛々と煌めく。
まるで、獲物をロックオンした肉食獣のように。
「よかったら、お姉さんの気晴らしに付き合ってくれない?」
「気晴らし?」
「そうそう。明日私、出張ついでに有給を取っててね」
明日は土曜日なのに有給というあたり黒の気配を感じたが、突っ込まない方向で。
「180日ぶりのお休みだから、正直、休み方を忘れてしまってるの」
さらっとやばい勤続日数が聞こえた気がするがこれもスルーで。
「私一人だと、社畜病発症して家で仕事し始めてしまうのが目に見えてるから、明日1日、私と一緒に遊んで欲しくて」
「なるほど」
俺の中で、答えは決まっていた。
「七瀬、良い?」
話したのは二時間も満たないが。
正直なところ、奏さんの事をもっと知りたいと思っていた。
それに、社会に疲弊した大先輩のお願いだ。
無下にする道理はない。
「まあ、いいわよ」
七瀬も二つ返事で了承した。
珍しく乗り気のようだった。
「やった。ありがとう、二人とも」
キリッとした顔立ちがくしゃりと破顔する。
社会人のお姉さんではなく、友達と遊ぶ約束を取り付けて喜ぶ女子高生みたいに。
「ちなみに、何するか決めてるの?」
「久々に海行きたいわ、海。今、ちょうどシーズンよね?」
「シーズンなわけあるか」
今は10月。
2ヶ月くらい前に終わっている。
「うそ……でしょ」
ガーンッとわかりやすく絶望する奏さん。
「そんな……まさか……夏が終わってるだなんて……確かに最近、肌寒いなーって思ってたけど……タクシーで自宅と会社を往復していて気づかなかったわ……」
「誰かこの人助けてあげて」
流石にスルーできなかった。
ブラックを極めると、季節感すら無くなってしまうのか。
「泳ぐの好きなのか?」
「いや、別に?」
「え、じゃあなんで?」
「なんでも良いけど脱ぎたいのよ」
「露出狂の方だったか」
ちょっとおかしな部分はあれど、第一線は越えないと信じてたのに。
「ああっ、違うから、露骨に逃げようとしないでっ」
伝票を手にして立ち上がる俺を、奏さんがいやいやと頭を振って掴む。
子供か。
「脱ぎたい、は語弊があったわ」
「語弊しかないだろ」
「詰まるところ、限りなく自然に近い状態できゃっきゃしたいの。このスーツがもう、暑苦しくて堅苦しくて」
ああ、なるほど。
その気持ちはなんとなくわかった。
俺も、学校の制服を着ていると息苦しくてたまらない時がある。
服は社会の象徴だ。
社会を脱ぎ去って、自然体ではしゃぎたいのだろう。
そこで気づく。
さっきから七瀬の表情が固まっていることに。
「どうしたんだ?」
「…………なんでもないわ」
なんでもないわけがない間があったわけだが、尋ねる前に奏さんが口を開く。
「とりあえず、代替案は今夜中に考えておくわ。お金は全部私が持つから、安心してね」
「いや、それは流石に……」
「いいのいいのー。くたびれた限界OLの戯れに、光り輝く高校生の時間を貰うんだから、このくらいさせて」
「でも……」
「弊社、給料は良いんだけど休みが無くてお金が溜まっていって……そのまま、ウン千万と資産を抱えたまま過労死でもしたら凄くもったいないから、使える時に使いたいの」
「もう転職したほうが良いいのでは?」
目に虚無を浮かべる奏さんに、思わず突っ込んだ。
何はともあれ、お金は奏さん持ちという事になった。
もう何本目かわからない日本酒が空になったところで、「明日に備えてお開きにしましょうか」と解散の流れになる。
「それじゃ、また明日ね」
明日、朝の10時に浜松駅を待ち合わせ場所として、奏さんと別れた。
ふらふらと身体を揺らしながら消えていく後ろ姿を見送る。
「いくか」
「ええ」
一度、荷物を取りに行くために浜松駅向かう。
「凄い人だったな」
俺が言うと、七瀬は「……そうね」と消沈した声を漏らした。
「ピアノの事、気にしてるのか?」
「っ……」
息を呑む気配。
「こういう時に察しがいいの、腹立つわね」
言う割には、声に棘は感じられない。
深く息をついた七瀬が、口を開く。
「もう10年も前のことよ。今更私が思ったところで、何も変わらないわ」
口ではそう言ってるが、考えてしまっているのだろう。
優しいから、この子は。
これ以上、何も言う事はないと口を噤む七瀬の頭を──俺は、ぽんぽんと撫でた。
七瀬の足が止まる。
当然、俺の足も。
「……何よ」
「いや、なんとなく」
無意識な動作だった。
自分でも驚いている。
「なんとなくで頭を撫でるなんて、犯罪者予備軍もいいところね」
相変わらず棘を含んだ言葉。
しかし七瀬は、俺の手を振り払おうとはしなかった。
まるで、誰かにそうして欲しかったと言わんばかりに、素直にされるがままだった。
指越しに伝わる七瀬の体温。
絹のようにさらさらした髪を梳くと、わずかに顔を伏せた七瀬の口元が微かに緩んだ。
頃合いを見て手を離す。
「何はともあれ、明日も楽しもう」
「……ええ、そうね」
さっきより、声に温度が戻っていた。
良かった。
少しは元気が出たようだ。
再び、俺たちは歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます