第34話 七瀬とピアノ
七瀬の過去を、高い解像度で聞くのはこれが初めてであった。
「旅行か、帰省か、仕事のついでだったかは朧げだけど……小学1年生の時、私は、母親に連れられて浜松に来た」
母親、という言い方に距離を感じたのはきっと、気のせいではないだろう。
「新幹線を降りて歩いてたら……中学生くらいの女の子が、あのストリートピアノを弾いていたの」
そこで初めて、七瀬の瞳に微かな温度が灯った。
「とても、美しい旋律だった」
珍しく温もりのある声で、七瀬は10年前の演奏をそう評価する。
「一体彼女がなんの曲を弾いていたのか、今でもわからない。でもあのメロディは、ずっと覚えている。今思い返すと、とても粗の多い演奏で、足を止めて聴く人も少なかったけど……」
懐古するように、言葉が続く。
「少なくとも、私は過分な影響を受けたの。母親に、ピアノを弾きたいとねだるくらいには。……母親は私の要望を了承して、せっかくやるんならと、ピアノの家庭教師をつけてくれたわ」
再び淡々と、七瀬が言葉を並べる。
「私はピアノに熱中して、暇さえあれば弾くようになった。授業中も家にいる時もずっと、ピアノのことを考えてた。幸か不幸か、筋は結構良かったみたいで、私は日に日に上達していった。それを、母親は喜んでくれていたわ」
そこで、コーヒーを一口。カップに浮かぶ黒い表面を見つめながら、溢すように言う。
「ある日、先生が私に言ったの。ピアノのコンクールに出てみないかって。母親にも勧められるがまま、私は区のコンクールに出場した。……結果は、優勝。ピアノを初めて半年ちょっとのことだった」
その快挙を聞いても、特段驚きはなかった。
結果に裏付けされた才能と、努力量があるだろうから。
そしてその先、七瀬がどこまで上り詰めるのかを俺は知っているから。
「私の母親は、結果をとても喜んでくれた。当時、勉強も運動もパッとしなかった私は、母親が褒めてくれたことがとても嬉しくて、もっと練習するようになった」
それは意外だった。
てっきり勉学においても、幼少期から並外れた才能を存分に発揮していると思っていたから。
「結果はどんどん出ていった。地区大会優勝から、都大会優勝、関東大会優勝と、規模も大きくなっていって、母親もその度に褒めてくれて……」
一旦言葉を切って、七瀬は言った。
「気がつくと、母親は私に、結果ばかりを求めるようになった」
また、コーヒーを一口。
まるで、自分を落ち着かせるように息をつく。
「ただピアノを弾くのが楽しい、という気持ちはどこかに消えてしまってたわ。母親に怒られたくない、失望されたくない、そんな一心でピアノを弾くようになってた。課題曲を、何度も何度も何度も弾いた。失敗しないように、少しでも良い結果を出せるようにって」
一体、何があったら、小学生がそこまで追い詰められた思考になるのだろう。
七瀬が抽象的にぼかしたであろう、『結果ばかりを求めるようになった』という部分に、秘密があるような気がした。
結果が伴わなかったらどうなったのか、何をされたのか。
それについては、七瀬は口にしなかった。明かすつもりはないようだった。
「小学2年生の全国大会では、運の助けもあって優勝することができた」
誰がどう見ても映えある成果にもかかわらず、七瀬の声に誇らしさは皆無だった。
ごくりと生唾を飲んで、俺は尋ねた。
「優勝できたのに……なんでピアノ、辞めたんだ?」
回答には、コーヒー二口分の時間を要した。
「全国大会で、私に負けて準優勝だった子に言われたの」
口を開いて、閉じて、もう一度ゆっくり開いて、絞り出すように、七瀬は言った。
「なんで貴方みたいな、全然楽しそうにピアノを弾いてないヤツに、負けなきゃいけないんだって」
……ああ、なるほど。なんとなく察した。
数日間、七瀬と一緒にいて確信を持って言えることがある。
七瀬涼帆は、とても優しい女の子だ。
当初の彼女のイメージであった他者を寄せ付けない利己的な性質はおそらく、熾烈な競争の中で尖ってしまった表面的な部分で、元来の性質はとても利他的で人思いなのだ。
フラれて傷心したギャルのドライブに付き合ってあげたり、起きない俺に何かあったんじゃないかと心配したり、怪我をした子供をすぐに手当てしたり。
今回の旅行の節々で、優しさの裏付けとなる言動を何度も確認している。
ゆえに、七瀬がピアノから身を引いた理由も容易に想像がついた。
七瀬は当時、こう思ったんだろう。
自分のせいで、本来、私より評価を受けるべき人を不幸にしてしまった、とかなんとか。
「私のせいで、本当にピアノが好きな人たちを不幸にしてしまった。あの時の私は、そう思ったの」
やっぱり。
「勉強に集中したいからという適当な言い訳をつけて、私はピアノを辞めた。……この先、私が何をやるにしても、病的なまでに結果を求められるとは知らずにね」
軽く自嘲気味に口角を持ち上げた後、コーヒーを一口。
しかし中身は空っぽだったようで、啜る音は聞こえなかった。
代わりに、咳払いが聞こえた。
「というわけで、ピアノには良い思い出がないの。母親……そして、私自身も、悪い方向に変わってしまう、きっかけになったから」
これで話は終わりだと、七瀬が深く息をついた。
初めて聞いた、七瀬の過去。
その内容を咀嚼するように、俺はカルピスを流し込む。
随分と放置プレイだったカルピスは、氷が溶けて水っぽくなっていた。
「ありがとう、話してくれて」
七瀬に向き直って、改めて言う。
「やっぱり、七瀬は凄いよ」
「何がどうなってその感想になるの」
「思ったことを口にしただけだ」
「もっとこう……思ったことは他にあるでしょう」
「色々あるけど、一番に思ったのはまさしく、七瀬はすごい、だよ」
「ヨッシーチャンネルの見過ぎよ」
「それは否定できない。……だけど、本心だ」
迷いなく俺が言うと、七瀬は居心地悪そうに髪を弄り始めた。
「別に褒めて欲しいとか、同情して欲しいとか、そんな思惑で話したわけじゃ無いから。目的地になぜ浜松を指定したのか、少なからず高橋くんは気になっただろうから、説明責任があると思って理由を述べただけで」
嘘だと思った。
いや、全部がとは言わないけど。
なんとなく、七瀬自身、自分の過去を誰かに知って欲しかったんじゃ無いかと思った。
本当になんとなく、だけど。
「まあ理由はなんにせよ、俺は七瀬の話を聞いて、たくさん頑張ったんだなって、凄いなって思った。全国優勝って、文字通り日本で一人しか獲得できない名誉を勝ち取れたのは、何度も言うけど本当にすごいと思う」
「別に、コンクールは毎年開催されているから、日本で一人ってわけじゃないわ」
「細かいわ! その世代でもなんでもいいけど、誰でも取れる称号じゃ無いことは確かだろう?」
「それは、そうだけど……」
まだ煮え切らない七瀬の目をまっすぐ見て、真剣な表情で、俺は言った。
「凄いよ、七瀬は」
息を呑む音が、聞こえた。
「……そう」
次いで、素っ気ないようで、微かに柔らかみを帯びた声。
「ありがとう」
最後に七瀬は、子供がお母さんに褒められて喜ぶような、自然な笑顔を描いた。
「……それが100点だよ」
「なんの話?」
「なんでも」
100点の喜び方、できるじゃん。
と口にするのは、流石に空気違いな気がしたので黙っておく。
「ニヤニヤして、気持ち悪いわね」
「俺はいつもこんな感じだろ」
「だから友達がいないのね」
「それはお互い様じゃね?」
「私はいいのよ。勉強が友達だから」
「めちゃくちゃ悲しいこと言ってる自覚ある?」
「勉強すら友達になってくれない高橋くんに言われる筋合いはないわ」
「俺はほら、ネットに友達がいっぱいいるから」
「とても悲しいこと言ってる自覚ある?」
「特大ブーメランで草」
他愛のないやりとりで、先ほどまで妙に重かった空気が和らぐ。
七瀬とは数日しか過ごしていないが、最初から気を遣わない入りだったのもあって、もう何年も友人をやってるような掛け合いが出来る。
気が楽なことこの上ない……と考えたところで、気づく。
「……お互い、ひとりは確実に友達がいるな」
「何か言ったかしら?」
「なんでも」
掘り下げるのも気恥ずかしさがあって、話を打ち切った。
見ると、俺のカルピスも空っぽになっていた。
退店の合図だった。
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