視線

東雲結衣

第1話

ページを捲るその指が、何よりも好きだった。


 開いた本で顔を隠しながら、少しだけ目線を上げる。気取られ無いようにそっと首を動かして、隣で本を読む男の姿を視界に入れた。彼は相変わらず読書に没頭している。気付かれていないことにほっと胸を撫で下ろす。

 他人の顔を正面から覗き込むのはあまり得意ではない。私が相手を見ているのと同じだけ、相手からも視線が注がれている——それを意識してしまうともう駄目だった。どんどん居心地が悪くなってゆく。だけど相手がこちらを見ていない時は別だ。視線が交わりさえしなければ、人間というものは随分と心に余裕が生まれるらしい。我ながら現金な性質だとは思うのだが、見られることは嫌うくせに相手を眺めることはそれほど嫌ではないのだった。

 几帳面な彼らしく、男の背筋はまるで定規でも入っているかのようにまっすぐに伸びていた。そんな姿勢で疲れないかと心配になるのだが、彼に言わせれば私のように四六時中背中を丸めて生活している方が信じられないと感じるらしい。家の裏手に住み着いている野良猫だって君よりはマシな姿勢をしている——そう揶揄われたことを思い出す。

 つい先日夏服になったばかりだからだろうか。彼の開襟シャツはまだ糊がきいていて、ぴんと伸びた背筋をいっそう際立たせていた。半袖から伸びている骨張った腕は、まだあまり日に焼けてはいなかった。その容貌を肺病みのようだと称されることもあるが、男は別にとりわけ青白い肌をしているという訳でもない。私のように日に焼けると真っ赤になるという性質でもなし、むしろ肌の色だけ見れば健康的な部類に入るのではないだろうかとすら思う。見る者に不健康そうな印象を抱かせる原因はむしろ、眉間にくっきりと刻まれた皺と険のある目つきにあるのだろう。不機嫌そうに寄せられた眉根は双眸に陰鬱な影を落とし、その奥の鋭い眼光を一層際立たせるのだ。細面の顔と尖った顎も、彼の非力さを演出するのに一役買っていた。

 尤も男は、その非力な印象を逆手に取って力仕事や体力が要りそうな面倒事を巧みに躱しているような節がある。どこまでも要領の良いヤツなのだ。力仕事を蛇蝎のごとく嫌ってはいるが、そのじつ全く体力が無いという訳でもない。私が彼の手を一度も振り解けた試しが無いことが何よりの証拠だった。非力なのではなく、そう見せかける術に長けているのだと思う。

 痩せた腕の内側には、意外にもうっすらとした筋肉が見てとれることも彼に手首を掴まれたことのある者にしか分からぬだろう。彼の細い腕は、時に何よりも力強く動いて私を捉えるのだ。

 ふと顔を上げると、男の目線はまだ手元の本に吸い寄せられている。半分ほど伏せられた薄い瞼の下で、虹彩がほんの少しだけ動くのが見えた。鴉の濡れ羽のように黒々とした瞳に、文字が海のように波打って映る——そんな想像をしてしまう。凛とした漆黒の瞳に思わず息を呑んだ。

 一見すると陰険であるかのようにも感じる彼の鋭いまなこだが、頁の上を泳ぐときだけ、ふっと柔らかな色を帯びるのだ。その瞳には溢れんばかりの文字が巡っているのだろう。彼はその痩身の内側に、無数の知識を泉のように蓄えている。その泉は底が知れないほど深く、彼の唇から紡がれて、やがて私の耳に満ちてゆくのだ。

 すらりと伸びた形の良い指が、ひとつ、またひとつと頁を捲っていった。紙の束の上で踊る彼の指先を、飽きることなくずっと眺めていたくなる。静謐さを湛えたこの本の森の中で、息をしているのは私達二人だけ——そんな錯覚すら覚えてしまう。

どれほどの時間、こうして彼を見つめていただろうか。時計の秒針が規則正しく動く音が耳に届き、はっと我に返る。

 不意に、彼の薄い唇がふっと笑ったような気がした。咄嗟に目を伏せて、手元の本で顔を隠す。男は喉の奥で、くくっと密やかな笑い声を立てた。喉仏が愉しそうに揺れるのが見て取れる。歯並びの良い口元を薄っすらと開いて、歌うように彼は笑った。

「——花咲君、そんなにじっと見詰められると穴が開いてしまうよ」

 ばれていた。

 そう思った瞬間、頬が燃えるように熱くなるのが分かった。背中から汗がどっと吹き出す。

「き、君は本を読んでいたんじゃ……」

「ああ、読んでいたとも。読んではいたが、あんなに熱い視線を送られちゃあ誰だって気が付くさ。垣間見かいまみならもっと上手くやりたまえよ」

 本の背表紙を指でなぞりながら、からからと男は笑う。いつから気付かれていたというのだろう——まさか、最初から? 想像するだけで顔から火が噴き出しそうだった。

「き、気付いていたのならもっと早く言ってくれたって……人が悪いな、君も」

「別にわざと黙っていたわけじゃないよ、最初は気のせいだと思ったからさ。見られるというのも案外悪くないものだね。どうだい、君が満足していないというのなら、僕はまだ付き合ってやっても構わないが——」

 反応を愉しむかのように男は含み笑いを浮かべた。さっきまでの仕返しだといわんばかりに顔を覗き込んでくる。こちらが動けないと分かっていて目を合わせてくるのだから、尚のこと性質が悪い。硬直した私を眺めながら彼は満足気な表情を浮かべている。半月型に細められた瞳が光を帯びた。

「見るという行為はね、時に言葉や行動以上の意味を持つものなんだ。目は口ほどに——なんて言うだろう。自分では黙っているつもりでも、案外相手には伝わっていたりするかもしれないぜ」

 そう言いながら、男は顔に掛かった前髪を少しだけ耳に掛けた。筋張った手首の裏側がちらりと見えて、咄嗟に目を逸らしてしまう。

 分厚い冬物の学生服に覆われている間に、彼の身体はいつの間にか大人の男へと着実に変化を遂げているように思えた。薄っすらと血管が浮いた掌はごつごつとして大きくて、子供のように小さな己の手が急に恥ずかしくなってしまう。短い指を隠すように、ぎゅっと拳を握りこんだ。手の中でじっとりと汗が滲む感触がある。

 日々大人になってゆく彼の隣に立つと、己の矮小さが際立つような心持になるのだった。羨望と劣等感、敬意、そして僅かな寂寥感が綯い交ぜになってぐるぐると胸の裡で渦を巻く。考えても詮方無いことだとは分かっているのだが、時折どうしようもない焦燥に苛まれてしまうのだ。 

 置いて行かないでと、彼の裾を掴んで縋りたくなってしまう。勿論そんなことを口にできる訳もなく、立ち上がる彼の背中を見上げながら下唇を噛みしめた。

「それで、君はどうするんだい。花咲君」

「——え?」

「だから、その本だよ。さっきからずっと同じ頁を開いているように見えるが、いい加減返すか借りるかした方が良いんじゃないのか。待っていてやるからさっさと決めたまえ」

 一瞬、どきりとした。心を読まれたような気がしたからだ。

 いつまでも惚けたように佇む私に業を煮やしたのか、男は呆れた表情で頭を掻いた。その言葉に促されるように本を抱えて立ち上がる。元あった場所に戻すべく、急ぎ足で書棚へと向かった。

「君が何を焦っているか知らないが、べつに置いてなんて行かないよ。そんなことをしたら後が面倒だ」

 まるで私の胸中を見透かしているように彼は言う。さっきの感覚は気のせいではなかったのだ。まさか声に出していたわけじゃないだろうな、と己の口元を押さえたが、やはり口に出した覚えはない。

「もしかして君、何か怪しげな読心術でも身に着けたんじゃあないだろうね?まったく、ときどき君のことが恐ろしくなるよ」

「人のことをエスパーみたいに言うんじゃないよ。言っただろう、目は口ほどに——って。知られて困ることがあるのなら、今後は口だけじゃなく目にも気をつけたまえ」

「見ざる聞かざる言わざるってことか?自分は猿じゃないんだけどな」

「別にそこまで言ってないだろう、君は感情が顔に出やすい性質だから、少しは慎みたまえと言っているんだよ」

 これ以上反論する気にもなれず、う、と短く唸って押し黙る。視線にも表情にも感情が表れてしまうのならば、あとはもう下を向いて俯くしかないではないか。


 目の前を颯爽と歩く、ぴんと伸びた背筋が恨めしかった。

私の丸まった背中は、この男のおかげでしばらく治りそうには無いのだった。

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