九龍城砦


あの城の最後は、誰もが知っている。


失われていたものの全ては、誰も知らない。


誰の事も、俺の事も。






___1989年7月___香港


「よう。あんたが高崎か?」


 日差しが眩しく、汗がダラダラと自然に吹き出てくる夏の日。日本を離れ、香港の地に立っていた。


 手荷物の手提げ鞄と、機材の入ったリュックやらを持って空港から出ると、知り合いのつてで紹介された現地の不動産屋が待っていた。


会ったのは初めてだが、向こうは知り合いから聞いていたのか、俺のことを見るなりすぐに近寄ってきた。


  よれよれの茶色いシャツと下に白いタンクトップ、膝までの短パンでサンダル。

後はサングラスで色黒の四十代後半くらいの男。本当に不動産屋かと思うほど適当ではあるが、こっちの国じゃあまり服装は問題視していない。


改めて自分が、高崎康光たかさき やすみつだと名乗ると、男は咥えていたタバコを道に捨てながら俺に握手を求めた。


「俺は、張宇航チョウユーハンだ。よろしくな」


よろしく。


差し出されたその手を握り返す。


「阪口の友達なら歓迎するよ。にしても珍しいな、あんなとこに住みたいって外人がいるって」


まぁ別に住みたいって思って住むわけじゃない。


 阪口というのは、俺の元の仕事にいた同僚の名前だ。

今回の仕事が決まって、何か宛はないかと探したら丁度関係者の人間に知り合いがいると名乗り出たのが阪口。


一応信頼できる人間ではあるが、こう身なりが怪しい奴が出てくると、一気に不安を感じるが。


悪いようにはならないだろう。



「それじゃ早速行こうか。話の諸々は車の中でしようぜ」


荷物は目の前にあった車のトランクの中に詰めこみ、ユーハン運転の車で空港を出発した。

ハンドル操作片手に高速に乗りながら書類を手渡される。



「まーあんなとこだから。面倒な手続きとかは一切なし。最低限の家具付き即日で家賃も日本円で二万でいいよ」


は?安すぎないか?二万だって?


「安い?あそこに住んでる連中は皆それでも高いって言い張ってるのに安いって、日本人は金もってんだな!」


 …あぁ。そうか。思えばこれから行くあそこは、スラム街…だったな。


「風呂は共有ね。でも一番いい部屋を用意したんだ、かなりサービスはしてるよ。南向きでTVもついてる」


TV?スラムなのに、電波が通ってるのか?


「当たり前だろ?ちゃんと政府が設置もしてるしね。でも、配線通りが悪かったり電波が届かなかったりで、勝手に色んなケーブル引っ張って繋げてる」


…なるほど。まだスラムは健在というわけか。この間強制移住の計画が発表されたって聞いたからもう始まっているのかと。


「あー、あんなの誰も聞いちゃいないよ。今さら退く気もないし、行くとこもないのに退けって言われて誰が退くって話さ」


まぁ、まだこの男が異国の日本人に物件を紹介するほどだ。まだまだ取り壊しの予定は先なんだろう。


今俺が向かっているのは、これから色々と問題が勃発していくであろう巨大なスラム街。


一度足を踏み入れれば、二度と出てこれないと言われる東洋の魔窟。___九竜城砦きゅうりゅうじょうさい



 時代は1950年代。


香港に流入した大量の移民は、0.03平方キロメートルの土地に12階建てビルを造り上げ、現在問題となっている巨大なスラム街を形成した。その違法建築は今もまだ続いている。


 かなり中は複雑な形になっていて、警察もやたらに踏み込めなくなっているらしく、犯罪やら麻薬の取引が横行している。



俺がこれから住むことになる場所だ。



 それも別に好きで住むことになったわけじゃない、仕事だ。


 三十にもなって今さらカメラマン目指すのかと周囲に言われたが、運送会社の運転手をやるのも飽きたし、趣味で写真を撮ることが多かった事と海外にもよくブラブラ旅行していたから何となく金になるかなと思って。


 たまたまそういう職の人と知り合いになって見習いとして置いて貰えることになり、雑用をこなしながら試しでいいから撮ってきてみろと送り込まれたのがここだ。


 修行の場としてまさか、一度入ったら出られないなんて言われてるスラムに送り込まれるとは。


 まぁ、ちょっと興味はあったし、別にやることもないからいいかと思って二つ返事でOKしちまったんだけど。


空港から出て30分ぐらいで、周りの空気や外観とは明らかに違う建物が高速を抜ける間際で見えた。




「見ろヤス。あそこだ」



勝手にヤスという略称で俺を呼んだユーハンに教えてもらわなくとも分かる。


 見た瞬間に、こりゃ確かに魔窟と呼ばれるわけだと思った。

フィリピンやタイにあるスラムを見たことがあるが、それよりも全く空気が違う。


まるで鉄筋コンクリートの地底世界、中国香港のど真ん中に突然現れたってような別の次元。


 町とかビニールハウスとかそういう次元ではない、もはや゛要塞 ゛だ。


 さほど大きくもない土地の中に、正方形に連なって団地のマンションが凝縮されて滅茶苦茶に合わさっている。今にも崩れそうで崩れない、コンクリートの巨大な砦。


 屋上には普通ではありえないほどのアンテナと電線が絡み合うように立っていて、ほとんど窓はついてない、店の看板がガチャガチャと積まれている。何処が入り口なのかも分からない状態だった。



すげーな、どうなってんだあれ。入り口が何処かもわからない、さらに言えば出口も。


「そりゃそうさ。あそこの奴等は外の厄介なもんを必要としてないから」


政府とか、警察とか?


「全部だよ全部。外の人間やルールとかそんなの全部。お前のことだって、上に話通すことの方が大変だったんだから」


上?上にって誰にだ?あそこに責任者とかいるのか?


「責任者ってより、なんというか、仕切ってる連中さ。まあ向こうに荷物置いたらすぐ俺と挨拶に行こう。それが礼儀だ」


…なんだか、穏やかな連中じゃなさそうだな。


「阪口から話聞かなかったか?あそこはな、こっちの世界とはまるで違う。今までの常識は捨てて、向こうの常識に染まっちまった方が身のためだ」


 いや、聞いていなかったわけじゃない。


 別にそういう界隈に住んでる知り合いが出来ることが多かったから今さら驚くこともないが、俺よりもそういう世界と繋がりがある阪口が、俺が仕事で滞在する事にかなり渋った顔をしていたのを覚えている。



 実のところ、あんまり関わるところじゃないと、この不動産屋を紹介するまでそう言って止めてきた程だ。


 俺も覚悟はしてきたつもりだが、こう目の前に迫ると緊張が走る。



 まだ中国の街並みがある一般道路を走り、クーロンへの郊外の道へ抜けていく。


 あそこに着く手前、あの大きなコンクリートの要塞がまだ少し遠くに見える駐車場で車は止まった。

 


どうしたユーハン?


「ここだよヤス。降りるぞ」


え?まだ着いてないじゃねぇか。


「あっちからじゃ入れないんだ。向こうはさっき言った奴等が、立ち退きを命じにくるお役人に目を光らせててね。時々銃撃戦にもなるから行かない方がいい」


…思ったよりも、おっかないことになってるな。で、ここの何処から入るんだ?



「迎えが来る。すぐだから荷物を下ろすぞ」



俺はユーハンの言う通り二人で車を降りて持ってきた荷物を下ろし、車の側で一服しながら迎えとやらを待つ。



五分も立たないうちに、駐車場の裏側から一人の男が歩いてきた。


 その男は明らかに中国人じゃない、ヨーロッパとかその辺の。髪は黒髪だが、光に当たると紺色が混じっていて白人の男。

 小汚いユーハンとは違い、小綺麗な格好でイギリスの貴族なんて言われてみれば信じてしまいそうなほど、清潔で端正な顔。


クーロンには絶対似合わない人物だろ、もしかして、あれが迎えか?嘘だろ。



「どうもダミアンさん!ご苦労様です」


「やあユーハン。すまないね、遅くなってしまった」


ユーハンと親しげに握手まで交わしている。やっぱりこの男が迎えか?


「この訝しげに私を見ている方が例の日本人?」


「えぇ、えぇそうです。ほら、ヤス!挨拶!」


肩をドンッと叩かれ、俺よりも年下か同じかに見える背丈の長い小綺麗な男に挨拶をする。


高崎 康光です、今回は世話になります。


「康光…あぁだからヤスか。私はダミアン・スペンサー。よろしく」


差し出された長い手を握り、軽く握手を交わす。


「君のことは聞いているよ。日本からわざわざ写真を撮りに来たんだって?」


まぁまだ修行中の身だ。



「なるほど。なんというか…まぁ、よく許したものだね。色々込み合った話の前にまずは歓迎しよう。君のことはヤス。私の事は、ダミアンと呼んでくれて構わない」


 どうやら略称で呼ばれるみたいだ。めんどくさくないから別に構いやしないが。


あんたもここに住んでいるのか?クーロン城に。


「私もどちらかと言えば、滞在している身さ。イギリスから来たんだ、臨時講師でね」


イギリスという所までは合っていたようだ。鼻も長くて高いし、貴意が感じられる。

イギリスとかあっち方面は旅費が高くて行ったことはないからただのイメージに過ぎない。


教師なのか?


「専門は歴史と音楽と美術。英語も勿論教えているよ」


「九竜の学校で教師をしてくれてんだ」


学校?クーロンの中に学校があるのか?


「あるよ。こんなんだから、外出てわざわざ学校に行くのも時間かかるだろ?でも教師は少ないから、外から来てもらってるんだ」


 イギリスからもか?わざわざあんな遠い所からこんなスラムに臨時講師として出てくるなんて、大層な物好きだ。…まぁ、俺も同じようなもんだしそんなこと口に出せるわけないが。



「とりあえずここじゃなんだ。警察に見つかる前に入ってしまおう」


「ですね。ヤス、行こう」


俺はユーハンに手伝ってもらいながら機材と荷物を持ち、来た道を戻り始めたダミアンの広い背中を追いかける。


一体何処から入るのかと思えば、駐車場の裏手にあったマンホールを開けている。あまり重くないのか、片手で持ち上げてずらしている。



「先に入ってくれ。閉めなくちゃならないから」


 ダミアンに言われて嫌々ながらマンホールの下を覗くと、そこは下水道の汚い水やはしごが見えるわけでもなく、暗くて通るのがやっとな穴の中に降りるためのコンクリートの階段が続いていた。


まさか、マンホールの中って…下水道を通るのか?


「文句言うなよ。血の気の多い奴らがうろうろしてる表から入るより何倍も安全だ。アポなしの余所者と間違ってやられたくなきゃここを通るんだ」


わかったよ行くって、行く。


半分の機材をユーハンに持ってもらい、荷物を先に階段に置いて自分も狭い穴の中へ入り込む。


オレンジ色のネオンの電灯と意外にあまり臭くない下水道の地下を入ると、最後にダミアンが蓋を閉めて、先頭を歩き始めたところについていく。



「ヤス。行きながら君に幾つか注意しておかなくちゃいけない。写真を撮る上や、生活についてでね」



ダミアンは進みながら俺に色々と話をし始めた。


「まず君の住居まで一緒に行くが、着いたらすぐにここを仕切っている、町内会の会長のところに挨拶に行くんだ」


さっき言っていた上ってやつか?町内会の会長?


「そうだ。ここじゃ商売するにも住むにも会長の許しがいる。特にお前はここの取材だろ?」


そりゃそうだ。分かってる。


「事前に話は通っているんだろう?なら心配はないさ。失礼のないようにして話に頷いていれば解放される。間違っても、NOと言っちゃいけないよ」


分かってる。向こうからしてみれば、俺はよそ者だからな。……それくらい、分かっているつもりだ。


「後、最初のうち、ちゃんと顔を覚えられるまでは一人でクーロンを歩かないこと。最初のうちは同伴者をつけるといい」


「俺も声かけてくれれば暇なとき案内するぜ。慣れるまでは一人になるなよ」


 確かに治安は良くないと聞いてなくても分かっているからそれは仕方ない。最初のうちは誰かと一緒にいることにするさ。



「ユーハンも忙しいだろう?丁度暇な子がヤスの住む隣に住んでいるんだ、あの子にも頼むことにしようか」


隣の子?


にこやかにそう言ったダミアンの言葉に、ユーハンが顔をしかめたのが気になった。


「え?あいつですか?いや、まぁ確かにあいつが一緒なら大丈夫だとは思いますけどねぇ…」


「どうせ、夏休みで昼間は部屋に籠ってるだけなんだ。問題ないよ」


夏休み?学生か?


「そうだよ。うちの高等部の生徒。丁度夏休みで暇しているみたいなんだ。君達が会長に挨拶に行っている間に話を通しておくから、クーロンの探索は彼と一緒にするといい」


彼も拒む理由はないだろうとダミアンは言った。


ユーハンの何か言いたげな顔が気になったが、相手が学生なら下手な悪さをすることはないだろう。何かあれば少しの小遣いでだいたい大人しく収まるし。



そうやって色々と注意と雑談を交えながら、オレンジ色の電灯が徐々に暗くなっていく下水道を進んでいくと、目立たない位置にある鉄製の扉の前で立ち止まった。



カンッカンッ____


鉄製の扉が、ダミアンの二回のノックで乾いた音を慣らす。しばらくすると、鉄製の扉の向こうから声が聞こえてきた。


「入れ」


 低い男の声。何処かノイズが入っているようなガラガラとした声が一言言ってきたが、ダミアンとユーハンはノブに手をかけない。

 ただじっと扉を見て待っていると、また少しして再び声が聞こえてきた。


「お疲れさん。さっさと入れ」


 そう二言聞こえてようやくダミアンがそこでノブに手をかけて扉を開けた。

 開けた先は、クリニックにありそうな小窓のガラスが割れた受付と、その先に続く上へ行く階段と鉄製の扉。


 俺達が中へ入って扉が閉まると、電気のついていない割れた小窓の向こうからさっきの声が聞こえてきた。


「ダミアンとユーハンか。…後、そこの余所者は?申請は通っているんだろうな?」


姿は見えない。何故か声だけがする。ガラスの向こうを覗こうとすると、シャツのポケットから折り畳んだ紙を出したユーハンに止められた。


「ほら。こいつが今日からここに住む写真家だよ。次から一人でも入れてやってくれ」


ユーハンは取り出したガラスに紙を広げて貼り付けた。向こうで紙の内容を確認してるのか、しばらくの沈黙が続く。



「…こんな申請書、一体どうやって通ったんだ?どう見ても本物そっくりだ」


「本物に決まってんだろ。ダミアンさんも一緒だったのに疑うんなら上に問い合わせてくれても構わないぜ」


「…そんな面倒なことはしない。通れ」




 勝手に階段上の鉄製の扉の鍵が開く。

ユーハンは紙を窓から離し、俺に行こうと行って背中を押した。

 ダミアンが窓に向かって「ありがとう」と笑って先に進んだため、自分も続きながらユーハンに聞いた。


あれは一体誰だ?


「入り口の管理者チィンリィーだ。ガラス窓の向こうは覗くな、あいつは姿を見られるのを嫌ってる。眼球えぐり出されたくなきゃ絶対にだ」



…初っ端からやばそうなのに遭遇しちまったようだ。坂口の言った通り、ここは普通じゃないらしい。思ったよりも。


不気味なほど気配が静かになった窓口から離れ、上の扉をダミアンが開けて入った後に続くと、灰色のコンクリートに上が電線だらけの通路の先。



電飾の赤い光がチカチカと瞬く看板。



「ようこそ、九竜城へ」



 ダミアンの瞳が赤い電飾の光に染まり、俺を見てその看板の下の鉄製の扉を開く。


東洋の魔窟と呼ばれる、足を踏み入れたらけして出られない、閉鎖された世界の中へと。


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