ラブレター
碧月はる
第1話
公園のベンチに一人座って、紅葉を眺めていた。はらはらと舞い散る黄色や赤の葉っぱたちが、儚くも美しい。
25年連れ添った妻が、先日出ていった。なんやかんや言いながらも、死ぬまで共に居てくれるものだと思っていた。
「言葉が伝わらない人といる理由が、もう無くなったから」
末の娘が先月、大学を卒業した。それがきっと妻、もとい元妻のいう“理由”だった。
「俺はATM代わりだったのか」
そう怒鳴った俺に、彼女は静かにこう返した。
「私は家政婦と娼婦を黙って25年務めあげました。お互いさまですよね」
妻の持ち物が無くなった家は、やけに広く感じる。本が好きだった彼女は、それら全てを持って家を出た。ただ一冊だけを除いて。
「気が向いたら、読んでください」
そう言い残して彼女が置いていったのは、『星の王子さま』という絵本みたいな書籍だった。バカにされているような気になり、その本を床に投げつけた。それを見て彼女は、ほんの少し悲しそうな顔をした。
「最後の最後まで、やっぱりあなたとは言葉が通じなかったね」
それが長年連れ添った俺たち夫婦の、最後の会話だった。
真面目に働いて家族を養ってきた。どうしてそれだけではだめなんだ。抱きたいときに妻を抱く。結婚しているのだから、そこに互いの了承などいちいち必要ないだろう。それの何がいけないのだ。言葉が通じないとはどういう意味だ。言葉も何も、泣いてばかりだったじゃないか。そこから何を汲み取れば良かったって言うんだ。
分からないことだらけだ。彼女が欲しかったものが、彼女がいなくなった今も俺には全然分からない。
妻が置いていった本を開く。外でなら、この美しい紅葉の下でなら、読めそうな気がした。絵本よりも字が多い。児童書、といったところか。挿絵もあり、文字そのものがやたら細かいわけでもない。すぐに読み終わるだろう。そう思いながら読み進めたはずなのに、ところどころでページをめくる手が止まった。王子さまの台詞が、俺の胸をちくちくと刺す。気がつくと、涙が頬を伝っていた。慌てて滴を手のひらで拭う。思いがけない衝動に躊躇いながらも読み進め、どうにか最後のページにたどり着いた。そこで再び、俺の手は止まった。
そこには1枚の封筒が挟まっていた。見慣れた文字が、小さく丁寧に並んでいる。「お父さんへ」ではなく、俺の名前で宛名が書かれていた。
『柊へ。
この本を読んで、何度ページをめくる手が止まりましたか。どの一文が好きでしたか。どの一文が心に残りましたか。
あなたと、そういう話がしたかったです。
どちらが上とか下とかではなく。どちらが偉いとかでもなく。
人対人の、話がしたかったです。
結婚前、一緒に観た映画の話を語りあった頃のように。』
咄嗟にズボンのポケットからスマホを取り出し、リダイヤルの一番上のボタンを押した。見慣れた名前が表示される画面を見つめながら、必死に祈った。
「もしもし」
聞き慣れた声が、小さな機械の奥から流れてきた。
「5回だ」
「え?」
「5回、手が止まった」
息を呑む音がして、しばしの沈黙が流れた。
「珈琲でも、どうかな」
おそるおそる絞り出したその一言に、彼女が苦笑するように答えた。
「珈琲だけ、なら」
「ありがとう」
通話終了ボタンを押して、足元の落ち葉を一枚拾った。彼女は、銀杏の葉が好きだった。
手紙の代わりにこれを挟んで、この本を返そう。そして、新しい本を借りよう。
彼女が欲しかったものの輪郭が、ほんの少し見えた気がした。そんな気が、したのに。
目の前が、突然真っ暗になった。胸が苦しい。脇の下を嫌な汗が伝っていく。自分の身体がスローモーションのように崩れ落ちていくのを、薄れゆく意識のなかで他人事のように感じていた。落ち葉たちが、布団のようにはらはらと降り積もっていく。
握っていた銀杏の葉が手のひらを離れ、ひらひらと飛んでいった。渡したかったのに。彼女の嬉しそうな顔が、見たかったのに。
いつだって人は、失ってから初めて気付くんだ。
ラブレター 碧月はる @haru-aotsuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます