第69話 別れ〈わかれ〉

 花桜梨かおりの最後のメッセージは政幸まさゆきにとって花桜梨かおりへの想いを更に深くさせてしまった。

 花桜梨かおりはそうならない様に最後の力を振り絞り残したメッセージのはずだった。

 だがそれは逆効果となってしまった。

 時には故人が望まない結果ともなってしまう。

 人の感情というものは、本当に難しいものだ。


 花桜梨かおりは生物が生まれてきて最大の目的であろう、種を残す事が出来た。

 娘である茉莉まつりの存在だ。

 茉莉まつりの存在が救いとなり、まだ救いがあった事だろう。

 だが、政幸まさゆきはどうだろうか?

 花桜梨かおりが結婚して子供を産んでも花桜梨かおりに対する愛情には変化が無かった。

 そして徐々に死が迫っていく花桜梨かおりに対しても同様であった。

 そんな政幸まさゆきの事だ、死者に縛られそのまま人生を終わらせることになるかもしれない。

 籍を入れている訳でもない、一緒に生活をしたことも無い、そんな相手を縛り続ける事を花桜梨かおりは望んでいない事が最後の言葉からも読み取れる。


 そんな花桜梨かおりの最後の望み故に政幸まさゆき花桜梨かおりに対する情が一層大きくなってしまった。


 そんな花桜梨かおりを忘れる事なんて絶対に無理だった。

 花桜梨かおりを忘れて茉莉まつりと一緒になる!?

 確実に茉莉まつりの姿から花桜梨かおりの面影を思い描いてしまうに決まっている。

 花桜梨かおりの最後のメッセージは自分の事を忘れて、他の人と幸せにと言った意味合いだろう。


 花桜梨かおりの事を忘れられないなら、このまま一人でいるべきだ。

 初めてあった時、花桜梨かおりに言ったじゃないか!


『生涯貴女を愛し続けます』と・・・。


 今の政幸まさゆきにとってこの言葉は、呪縛の様な印象であるが、逆に都合の良い言い訳の言葉に過ぎないのかもしれない。




 下野しもの 茉莉まつり

 入社時、男性社員の中で話題が尽きない程の、評判の新入社員。

 勤務も勤勉で会社の顔である受付業務を担当しており、顧客からの評判も良い。

 おまけにとても若く、器量良しで容姿端麗である。


 そんな女性が明らかに政幸まさゆきに好意を向けてきていた。

 ある意味、政幸まさゆきにとって、人生の最後で最大の伴侶を得る機会だった筈である。

 そんなチャンスを捨ててまでも茉莉まつりを諦める事にした。


 そもそも茉莉まつりには『好き』とは言われた事はあるが、『愛してる』と言われた事はない。

 今思えば、茉莉まつりの愛情は、政幸まさゆきを無自覚に異性として見ていなかったのかもしれない。



 茉莉まつりとはもう何日も会っていない。

 茉莉まつりに会った時、花桜梨かおりの日記帳を返そうと思っていたが、茉莉まつりには出会っていない。

 だが、この状況は逆に今の政幸まさゆきとっては好都合だった。

 茉莉まつり本人を目にするとどの様な心境になるか、想像すら出来ない。

 情けない話だが正直、茉莉まつりから逃げていた。

 今、会えなければきっと後悔する。

 そんな事は百も承知だ。

 だが政幸まさゆきには茉莉まつりを訪ねる事は出来なかった。

 茉莉まつりは今どの様な状況なのだろうか?

 とっくに会社を去り、実家に帰っているのかもしれない。


 政幸まさゆきの手元に残る、花桜梨かおりの日記帳。


 花桜梨かおりの事を忘れるなという事なのだろうか?



 思い悩むことは多いが、仕事に対して以前より真剣に取り込む事により、それらを忘れたかった。

 以前より一層精力的に仕事に努めていた。

 細かい事は解らないが、プロジェクトの進行状況など管理者に必要な情報は、ほぼ掌握する程に管理業務は行き届いていた。

 恩師でもある、美春みはるの期待に期待以上に応える結果となっていた。

 そういった日々が何日も続く。





 業務に全神経を費やして数日経った頃の話である。

 政幸は通常どおり業務に従事していた中、背後から怒りが混じった様な声が聞こえて来た。


「何やってるんですか! 矢野やのさん!?」


 政幸まさゆきが振り向くと、そこには清掃員の作業服姿の茂田しげたがいた。

 声の主は茂田しげたのようであった。


しげさん・・・どうしたんです? しげさんらしくない・・・そんな大きな声を出して・・・。」


 政幸まさゆきの発言を聞き、茂田しげたは持っていた清掃道具を床に置き、政幸まさゆきの前に詰め寄ってきた。


「どうしたですって?!」

「貴方、今日がどういった日か解っているのでしょう!?」


 茂田しげたの発言で何となく、を察していたが、政幸まさゆきは当たり障りのない返事を返す。


「いえ、解りませんが?・・・。」


 茂田しげたは一瞬冷静な表情をしたが、すぐに眉間にしわを寄せる表情となった。


「あれ程、矢野やのさんに会って話すようにと言ったのに・・・。」


 茂田しげたは周りに聞こえる様に、独り言の様にブツブツ言っている。

 やがて、平生見せる表情となり、ため息をついていた。


「状況は大体予想が付きました・・・。」

矢野やのさんは、今日が何の日が御存じないと?・・・。」

「でも、私の態度で何となく察したと思いますが、貴方に誤魔化されては気分が良くないのであえてはっきり言いましょう。」


 茂田しげたにしては回りくどい言い方だ。


「今日は下野しものさんが故郷に帰る日です・・・。」


 茂田しげたの態度から予想は出来ていた。

 それが近いという事も、中途半端に覚悟していた。

 だが、はっきりとそう言われてしまうと、さすがにショックで言葉を失ってしまった。


「数日前、下野しものさんが私の所に挨拶に来てくれたのですよ。」

「こんな外注の清掃員に律義にね・・・。」

「怪我をした育ての親である伯母の為に会社を退社し、帰郷する事を話してくれました。」

「おせっかいだと思いはしましたが、矢野やのさんとはどうするのかと尋ねてしまいました。」

「そしたら、私の想像もしていなかった言葉が彼女から告げられました。」

「『おじさんとはもう会わない』と・・・。」


 茂田しげたは暫くの間、目を閉じていた。

 まるで、その時の茉莉まつりの表情を思い出している様に・・・。


 やがて、ゆっくりと目を見開き言葉を続けた。


「ものすごく、悲しそうな表情でした・・・。」


 その言葉を聞き、政幸まさゆきは更に言葉を詰まらせた。

 茉莉まつりの悲しむ表情が目に浮かんでしまったのだ。


 しばらくの間、沈黙が続いた。


 茂田しげた政幸まさゆきの姿をずっと見ていた。

 おもむろに溜息を吐き、沈黙が破られた。


「これは一生話さないつもりでしたが・・・以前話しましたよね? 私には今は亡くなってしまった、息子が一人居ました・・・。」

「私はね、貴方を見て息子が生きていたらと色々想像していたのです。」

「つまり貴方と息子を重ね合わせていたのです・・・。」

「貴方と何気ない会話をしたり、酒を酌み交わしたりして息子と実現できなかった事を貴方を通して楽しんでいたのです・・・。」

「失礼ながら貴方は、私にとって息子の様なものだと感じていたのです・・・。」


 茂田しげたは人格者である。

 その性格から政幸まさゆきにとって心許せる存在だと思っていたのだが、その根底にはそんな理由があったなんて知る由も無かった。


「息子が見す見す、幸福を掴むチャンスを見過ごせる親が居ると思いますか?」


 茂田しげたの好意は大変ありがたい。

 だが、茉莉まつりを選ぶことは、今の政幸まさゆきには出来なかった。

 それは、茉莉まつり花桜梨かおりを天秤で測っているかのような心境となっていたのだ。


しげさん・・・ありがとう・・・。」

「でも、俺・・・茉莉まつりちゃんには会う事は出来ない・・・。」


 やっとの事で発言した言葉は、茂田しげたの期待を裏切るには十分な発言だった。


「確かに余計なお世話かもしれないですね・・・。」

「現実では親でも親戚でもない私が口を出すべきではないかもしれない・・・。」

「だがあえて言わせてもらう!」

「実の息子と、息子の様におもっていた貴方・・・。」

「二人の息子に共通しているのは、親不孝な事だ!」


 茂田しげたらしくない感情的な表現だった。


「実の息子は親より先に亡くなってしまった! 実に親不孝だ!」

「息子の様に思っていた貴方は、掴める幸福を掴もうともしない!」

「そんな状況を目の前にして、見過ごせる訳はない!」


 茂田しげた政幸まさゆきの為に本気で心配してくれているのが、手に取るように解る。

 それはとてもありがたい事だ。

 だが・・・。


しげさん! 俺は確かに茉莉まつりちゃんに好意はある、だけど花桜梨かおりの事を忘れる事は出来ない!」


 政幸まさゆきの本音の言葉だった。


「忘れる必要などない! 二人共受け入れればいいだけだ!」


 政幸まさゆきは言葉を続けた。


花桜梨かおりは『私の事は忘れて、幸せに』と俺に求めている! 花桜梨かおりに瓜二つの茉莉まつりちゃんの姿をみたら、絶対に花桜梨かおりの事を思い浮かべる! そんなの茉莉まつりちゃんにも失礼だ!」


 茂田しげたは即言葉を返す。


下野しものさんはそれも承知で貴方に好意を向けていたはずだ、生きている時は下野しものさんの事を一番に考えてやればいい! 花桜梨さんの事が忘れられなかったらあの世に行った時に花桜梨かおりさんに土下座でも何でもして謝ればすむ話じゃないか!」


 茂田しげたの発言は普段の茂田しげたからは想像もつかない程、めちゃくちゃだった。

 何を言ってもこの調子で返されてしまうのが、想像できた。


「だったら、俺はどーすればいいんだ!?」


 この後の茂田しげたの発言は、ある程度予想は出来ていた。

 だがあえて、この言葉を口にしてしまった。


「今すぐ駅に走れ!」


 想像通りの発言内容だった。


「だけど、今は勤務中だし・・・。」


 今は勤務中である。

 業務を投げ出す訳には行かない。


「何か正当な理由があれば勤務など途中で抜けられるはずです。」


 茂田しげたはいつも通りの口調に戻っていた。

 だがその表情は、得意なスポーツをした後の様なすっきりとした表情となっていた。


「人にとって人生の伴侶に巡り合う事以上の大事な事はありません。」


 茂田しげたの発言は、一般的には『仕事を投げ出して女の所へ走れ』と取られる発言だった。

 そんなの許されるはずはない。


「私は息子が亡くなった時、当分立ち直れなかった・・・。」

「だけど私には妻が居た・・・。」

「妻が居たからこそ、互いを支えあい立ち直ることが出来た。」

「私にとって妻は何事にも代えられないものだ。」

「妻に何かあれば、私は全てを投げ出しても駆けつけるつもりです。」


 茂田しげたの場合はこの行為は許される事だろう。

 だが、政幸まさゆきの場合はどうだ、全く茂田しげたとは立ち位置が違う。

 政幸まさゆきのそんな表情を察してか、茂田しげたは発言を続けた。


矢野やのさん、貴方の上長の沢渡さわたりさんは、貴方と下野しものさんの関係を理解している人物だと思いますが?」

「そして訳を話せば理解してくれる人だと私は見ています。」

「そして、私の立場は社内の清掃を担当しています。」

「役員ブースだろうが社長室だろうが私は入室できます。」

「後の伝言は私に任せてください。」

下野しものさんは昼の新幹線で帰郷すると言っていました。」


 茂田しげたは大きく右腕を振りかぶり、政幸まさゆきの背中を押すように叩いた。


「わかったら、駅へとっとと行け! バカ息子!」


 政幸まさゆき茂田しげたに押されるまま駅へと駆け出した。


「茂さん! ありがとう!!」


 政幸まさゆきの姿を見送る茂田しげたは遠い目をしていた。

 何十年被りに、息子と親子喧嘩をした様な懐かしい気分となっていた。


 政幸まさゆきは駅に向かう際、自分の鞄から大事な花桜梨かおりの日記帳を持ち出した。

 この日記帳は花桜梨かおりの形見である。

 花桜梨かおりの娘である茉莉まつりに返すのが筋だろう。

 持ち出した日記帳を片手に政幸まさゆきは駅へと急いだ。

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