第68話 手記〈しゅき〉

 政幸まさゆき花桜梨かおりの日記を読むのが日課となっていた。

 一文字一文字、ゆっくりと丁寧に読み続けていた。

 政幸まさゆきの書く文字は払い、止め、流しなどが力強く勢いのある文字だったのだが、花桜梨かおりの書く文字は尖った印象はなく文字は小さめで丁寧に書かれている。

 花桜梨かおりの控えめな性格が性格がそのまま文字になっている印象を受けた。


 花桜梨かおりの日記は中学入学からスタートしていた。

 中学入学の際に何かを始めてみようと思ったのだろう。

 一日一日の文字数は然程多くはなく、一ページに数日分の日記が書き込まれていた。

 あまり裕福では無い家庭の環境の影響か一日一ページといった使い方はしていない様だった。

 内容は記録というより感想や心情といった具合で、日記というより手記に近いものといった印象だった。

 短文で綴られた日記の中で、長文な日記もあった。

 その大半は、『矢野さん』という文字が含まれている物だった。

 若かりし日の花桜梨かおり政幸まさゆきの存在に思い悩んでいたのが窺える。



 花桜梨かおりの日記に政幸まさゆきの名が初めて出て来たのは、政幸まさゆき花桜梨かおりに一目惚れをしてしまい、いきなりの告白した日の事だった。

 正確には政幸まさゆきの名ではなく『上級生の男性』と記されていた。

 下校時の生徒が集まっている下駄箱で見ず知らずの上級生からいきなり告白され、混乱してしまい泣き出してしまった事などが記されていて、政幸まさゆきは若さゆえの過ちを今更のように後悔してしまった。


 政幸まさゆきの名前が最初に出たのは次の日の日記からだった。

 花桜梨かおりの友人でもある蛍子けいこ政幸まさゆきの事を調べて花桜梨かおり政幸まさゆきにその事を教えたのであろう。

 この日は校内中の噂の的となっており、登校時から他生徒から好奇な目で見られ恥ずかしい思いをしていた事、学校に到着してもその視線は変わらず、むしろ多くなっていた。

 とどめは自分のクラスに入ったところ、クラスメイトからその事について問い詰められたりからかわれていた。

 それに激怒してクラスメイト達を窘めたのが蛍子けいこという訳だった。

 花桜梨かおり蛍子けいこの友情に救われたとあった。

 そしてこの日の晩方に事件の発端である、政幸まさゆきが兄の真司しんじに連れられて家まで訪ねて来て花桜梨かおりに謝罪に来た事。

 最初は正直会いたくなかったが、真司しんじの説得により会うことを了承した。

 政幸まさゆきの謝罪を受け、政幸まさゆきを許すといった心境は書かれては居なかった。

 花桜梨かおりは最初から政幸まさゆきの事は恨んではいなかったのかもしれない。

 突然向けられた行為に対して、どう対応すれば良かったのかが解らなかったようだ。

 あの時の政幸まさゆきの行動がもっとデリカシーのある行動であったのなら、すんなりと二人の関係は上手く行っていたのかもしれないが、逆に強烈な印象を植え付けられた為、政幸まさゆきの事を多少なりとも意識してくれたのかもしれない。


 その後は友人関係が壊滅的な兄である真司しんじの唯一の友人という事で政幸まさゆきに対しては良い印象しか綴られていない。


 政幸まさゆき達の卒業式の日の件についても、政幸まさゆきに対する自分の気持ちが解らない様だった。

 あくまでも兄の親友といった立ち位置に過ぎなかった。

 そこから当分の間、政幸まさゆきの名が日記に書き記されることはなかった。


 政幸まさゆきの名が出て来たのは、他県の大学に進学が決まった政幸まさゆき花桜梨かおりの家の近所の河川敷に花桜梨かおりを呼び出した日の事だった。

 政幸まさゆきからプロポーズの予告を受け、この日の日記から政幸まさゆきの名が度々日記に記されることになった。

 実母の死をえて花桜梨かおりの気持ちはあきらかに政幸まさゆきに傾き始めているのが解った。

 政幸まさゆきが故郷を離れている間も、花桜梨かおりの日記には政幸まさゆきの名が何度も記されていた。

 内容は心配事であり、政幸まさゆきの事を気遣っているのが受け取れた。


 そして茉莉まつりの父である元旦那との出会いから少しづつ変化があった。

 元旦那から積極的にアプローチを受け、政幸まさゆきの事で思い悩んでいた様だ。

 だが結果、離れている政幸まさゆきに敵う要素はなかった。

 元旦那と結婚への話が進みつつある時も、常に政幸まさゆきの事が引っかかっていた様だ。

 結婚が本決まりになり、結婚式当日、政幸まさゆきが祝福してくれたことで政幸まさゆきへの気持ちの整理がついた様だった。


 その後の妊娠、旦那との不仲、そして出産。

 元旦那との関係を何とか改善しようと努力をしている様子が内容から伺える。

 日記の内容は自問自答の繰り返しだった。

 生まれて来た茉莉まつりの為、元旦那との関係回復を望んでいる様だった。

 だが、旦那のDVについには耐えかね、兄である真司しんじに相談をして、別れさせられる事となった。

 この頃の花桜梨かおりは娘の茉莉まつりの事ばかり心配している内容だった。


 真司しんじ夫妻の家に間借りして、娘の茉莉まつりとの生活が始まった。

 不安を抱えながらも娘の為に生きて行くことを決心した中、兄によって政幸まさゆきに再び引き合わされる。

 自分に好意を向けていたにも関わらず、結果的にそれを裏切る結果となってしまった相手との再会は内心はかなり同様していた様である。

 だがそんな思いは杞憂であった。


 再会した政幸まさゆきは現在の状況の花桜梨かおりを受け入れようとしてくれていたのである。

 その後の日記は、ほぼ政幸まさゆきの事ばかりであった。

 出戻りの付きである自分を、受け入れようとする政幸まさゆきへの葛藤が毎日の様に綴られていた。

 政幸まさゆきに対する好意が留まる事がなくなり思い悩んでいた様だ。


 政幸まさゆきへ対する愛情が遂に限界となり自身も感情を止められなくなりつつある頃、花桜梨かおりの身に深刻な病気が発覚する。

 現時点で助かる確率は半分以下との事だった。


 こんな状態の自分に付き合わせる訳には行かない・・・。


 そう決心した花桜梨かおり政幸まさゆき政幸まさゆきとは一緒になれない事を思い出のある河川敷にて告げる。


 政幸まさゆきはそれでも諦めなかった。

 真実を告げる事で政幸まさゆきが離れていくだろうと、正直に理由を話した。

 だがそれは逆効果であった。

 一緒に病気に立ち向かおうと告げて来たのである。


 迷惑をかけたくない故に離れようとしていたが、既に気持ちが固まってしまっていた。


 この人と一緒に居たいと・・・。


 闘病生活が始まり、最初は完治させることに希望をかけていた日記の内容も日が進むにつれ弱々しく変化して行った。


 相変わらず政幸まさゆきは献身的で少しでも時間に余裕があると見舞いに訪れる。

 十年も自分の事を思い続けてくれた政幸まさゆきに対して有難さと愛情が深くなる一方、自分の体がもう助からない事を感じていた。

 自分が居なくなったら心配なのは、娘の茉莉まつりこの人政幸の事だった。

 娘の茉莉まつりは兄である真司しんじ夫妻に引き取ってもらう様に話を付けていた。

 子供を望んでいたが今だ授かる事が無かった真司しんじ蛍子けいこはそれを受け入れた。

 政幸まさゆきの事だ、きっと茉莉まつりの親権を得ようとするだろう。

 それに対する対策でもあった。


 どうして私はこの人と一緒にならなかったのか?・・・。

 どうして私はこの人を待てなかったのか?・・・。

 そして私はこの人にどうなってほしいのか?・・・。


 私が居なくなっても、この人には幸せになってほしい・・・。


 花桜梨かおりは本心からこう思ってくれていた様だ。


 これを最後に日記は終わってしまった。


 この後、死の間際の花桜梨かおりにプロポーズをし花桜梨かおりはそれを受け入れてくれるようだった。

 おそらくだが、昏睡状態になる寸前で表紙に最後の力を振り絞りあの言葉を記したのだろう。


 −私のことはわすれてしあわせに−

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