第67話 花桜梨〈かおり〉

 茉莉まつりが故郷に帰る事を聞かされ数日が経った。


 政幸まさゆきの社内での生活に少し変化があった。

 茉莉まつり政幸まさゆきを訪ねてこなくなった。

 プロジェクトのメンバーは政幸まさゆきに気を使いその事は聞いてこなかった。

 茉莉まつりが帰郷してからの生活と何ら変わりはないと強がっては居るが、どこか物足りなさを感じていた。


 茉莉まつりから手渡された花桜梨かおりの日記帳は今だ政幸まさゆきは内容を読むことは出来なかった。

 茉莉まつりに対して気持ちが傾いていた事がその原因であった。

 生涯愛すると宣言した相手への裏切りの様な後ろめたさから、表紙をめくる事が出来ないままであった。

 花桜梨かおりの日記帳は表紙を見る限り状態は悪くはないが、汚れなどが目立った。

 幼い茉莉まつりが読みふけっていたからだろう。

 茉莉まつりは母の日記を読んで何を感じていたのだろうか?

 花桜梨かおりの性格からして、日記の内容は人への恨み事や嫉妬など書かれていない事は安易に想像できる。

 義母である蛍子けいこが幼い茉莉まつりにこの日記帳を渡した事からも、その事は想像できる。




 思い悩むことは多かったが会社の業務に影響する事はなかった。

 普段通り業務を滞らせる事なく進めている。

 花桜梨かおりが病魔に取りつかれ、政幸まさゆきへ別れを告げられた時は感情的になっていたが、現在の政幸まさゆきは意外と落ち着いていた。

 年齢を積み重ねた為、精神的に成長したのか、諦めに慣れたのか政幸まさゆき自身にも解らなかったが普段の生活は何ら変わる事はなかった。




 茉莉まつりが訪ねてこない事以外は普段と変わらない生活が続き数日が経っていた。

 周りの目からは、茉莉まつりと共に行動をしない事が通常の様に捉えられ始めていた。

 昼食時、小山田おやまだより一緒に食事に誘われた。

 茉莉まつりに気がある小山田おやまだの事だ、茉莉まつりの事を政幸まさゆきから聞き出したいのであろう。

 多少めんどくさくなっていたが、真実を打ち明け変な誤解を生む前に他者と話すのはいい機会かもしれない。

 まあ、相手が勉強はできるが馬鹿の小山田おやまだと言うのは選択が間違っているのかもしれないが、政幸まさゆき自身誰かに打ち明けたかったのかもしれない。


 政幸まさゆき達は会社近くの蕎麦屋に来ていた。

 ほぼ食事を終えると、小山田おやまだが話を切り出していた。

 話がこじれるのも時間がもったいないので、小山田おやまだ話を制止して政幸まさゆきは話し始めた。


小山田おやまだ君、君の聞きたい事は解っているつもりだ。」

茉莉まつりちゃん・・・いや下野しもの君の事だね?」


「そーです! なぜ矢野やのさんは以前はいつも一緒に下野しものさんと行動していたのに、最近は全く顔を合わせていないのですか!?」


 小山田おやまだの質問に答えていたら休憩時間が終わってしまうと危惧し政幸まさゆきは話を切り出した。


小山田おやまだ君、君が下野しもの君にどういった感情を抱いているか、私は知ってるつもりだ。」

「だが、話していい事と悪い事がある、今から私が話していいと判断した事を淡々と話すから、口を挟まないでくれ、そして話したことは下野しもの君のプライベートの問題も含まれているから他言無用で頼むよ?」


「わかりました・・・お約束します。」


 小山田おやまだだから話すと勘違いさせて置き前振りを行った。


「実は下野しもの君は、実家の母が怪我をしてしまった。」


 小山田おやまだの様子は何かを言いたそうだが、口を出すのを我慢している様だ。


「一人暮らしをしていてね、その母が心配でこの間実家に帰省してたんだ。」

「病名までは言えないが、結構深刻らしくてね・・・。」

彼女茉莉は近々会社を退職して実家に帰る・・・。」


 小山田おやまだの表情は驚きというより何か納得したような表情をしている。

 その理由を聞きたかったが、話しが長くなりそうなので後回しにする事にした。


「そういった理由もあってね、彼女茉莉の境遇は以上だ。」

「次に私と下野しもの君の関係について話そう・・・。」


 小山田おやまだは一切口を挟んでこない。

 最初の警告が効いているのだろう、非常に話しやすい。


「前にも言ったが私と下野しもの君は男と女の関係ではない。」

「私は彼女茉莉が生まれた時から知っていて、娘の様なものだと思っている。」

彼女茉莉も父を亡くしているから私をその様に感じていてくれたのだろう。」


 政幸まさゆきは自分にそう言い聞かせるように話を続けた。


「いつも一緒だったのは、彼女茉莉にとってこの会社に居る近しい人間が私だっただけに過ぎないだけだよ。」

「現に今、彼女茉莉の母が大変な事になった時、私に構っている場合ではなくなっているんだ。」

「結局私は彼女茉莉にとって母親より優先順位は低いのだよ。」

「話せることは以上だ・・・。」


 相手が小山田おやまだだったが、何故か少し気持ちが晴れていた。


 蕎麦屋を後にし、帰社しながら小山田おやまだは語り始めた。


「僕は下野しものさんは矢野やのさんの事をずっと好きなんだと思っていました。」


「そんな訳ないだろ、こんなおっさんだぞ?」


 政幸まさゆきは、はにかみながら答えていたが正直、茉莉まつり以外の他人からそう思われていたのが何故か心地良かった。


「実際、矢野やのさんと一緒に仕事をさせて頂いた僕の立場としては下野しものさんに相応しいのは矢野やのさんだと僕は思っています。」

下野しものさんの相手が矢野やのさんだったら、僕は素直に下野しものさんの事を諦められると思っています。」


 政幸まさゆきは突然声を上げて笑い出した。


「そんなことある訳ないだろ! 小山田おやまだ君は思い込みが激しいな!?」

「私と彼女茉莉がそんな関係になるはずはないよ・・・。」


 表情は笑っていたが、気持ちは気落ちしていた。


「話は変わりますが、下野しものさんが退職するすると言う噂があって、矢野やのさんに話を聞いたおかげで真相が明らかになりました。」


 政幸まさゆき茉莉まつりの退社の話が、噂に成程進んでいるのを小山田おやまだから聞き驚きの表情を隠せなかった。


「もちろん、退職が確定って事は誰にも言いませんよ?」


 政幸まさゆきの表情を見て他言無用と最初に言っていたからか、うまく勘違いしてくれた様だった。


「僕は下野しものさんの退社理由が矢野やのさんが相手の寿退社だと思っていたんですけど、全然違ったようですね・・・。」



 茉莉まつりの退社の噂が経っている。

 おそらく茉莉まつりは退職願を既に提出しているのだろう。

 一般的には退職願を提出して一か月後位で退社する。

 茉莉まつりの退社は一か月も無いという事になる。






 政幸まさゆきは帰宅してベットの上で花桜梨かおりの日記帳を眺めていた。

 改めて茉莉まつりが退社する事を聞かされ、昔の思い人に縋るかのようだった。

 花桜梨かおりの日記は今だ読むことは出来なかった。

 汚れている表紙を眺めていると文字の様なものがある事に気付いた。

 文字というより記号の様な感じだ。

 花桜梨かおりの文字とは思えない程あまりきれいな字とは言えない。

 まるで幼児が文字の練習をしているかの様な文字だった。

 鉛筆で書かれて消えて行ったような文字・・・。


(私・・・のことはわすれてれて・・・)

(しあわせに・・・。)


 花桜梨かおりだ!


 政幸まさゆきはその文字が花桜梨かおりのものだと確信した。

 死の直前、意識を失う前に書かれた最後のメッセージだったのだろう。


 そしてそのメッセージの相手は、政幸まさゆきに違いなかった。


 −私のことはわすれてしあわせに−


 娘の茉莉まつりにこんな事を言う親は居ない筈だ。

 母親なら娘に忘れてほしくなどない筈だ。


 花桜梨かおりは病気が発覚した際、政幸まさゆきに別れ話を切り出してきた。

 そんな花桜梨かおりだ、この最後のメッセージは政幸まさゆきに対するものに違いない。


 花桜梨かおりは最後の最後まで政幸まさゆきの事を思ってくれてたようだ。


 花桜梨かおりの最後の言葉が政幸まさゆきへの物だった事を思うと政幸まさゆきは泣き崩れてしまっていた。

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