第58話 自宅休養〈じたくきゅうよう〉

 過労により入院した翌日、政幸まさゆきは退院していた。

 美春みはるの指示で一週間の休養を強制されていた。

 最近は業務が充実しており激務ではあったがやりがいも感じられていた。

 だか突然訪れた思わぬ休養に政幸まさゆきは躊躇いを感じていた。

 プロジェクトは方向性が定まってきたところだ。

 今が一番大事な時期でもある。

 そんな状況で休んでいては話にならないのではないか?

 美春みはるには会社に出社してはいけないと言われている。

 ふと、美春みはるの言葉を思い出した。


『会社に出勤する以外は何をやってもらっても構いません。』


 美春みはるは出勤してはいけない事は言っているが、それ以外は何をやっても良いとの事だ。

 そして美春みはるから直接ノートPCを渡されていた。

 急ぎノートPCの電源を入れてみた。

 ログインIDとパスワードは社内のPCと同様に入力してみた。

 ログインできた。


 ディスクトップには様々なショートカットがあった。

 正直政幸まさゆきにはスケジュール帳以外は何なのかさっぱりだった。


 政幸まさゆきはまた美春みはるの言葉を思い出した。


『使い方が解らないなら小山田おやまだ君に聞きなさい、会社の勤務時間でも構いません。』


 政幸まさゆき小山田おやまだの携帯に早速電話をかけた。


「もしもし、矢野やのさん?」

「体調はどうですか?」


 小山田おやまだは社交辞令の様な電話対応だったが悪意はない様だ。


小山田おやまだ君かい?」

「唐突に悪いが、パソコンの使い方教えてほしんだけど・・・。」


 唐突で曖昧な表現だった。


「あの矢野やのさん・・・言ってる意味が良く理解できないのですが・・・。」


 PCの使い方と言ってもPCの何が知りたいのか伝えきれていない。

 政幸まさゆきは社内でも噂になるほど、PC作業は苦手だったし詳しく理解していない、基本的な事すらも怪しい知識だった。

 PC自体のOSの使い方なのか、インストールされているソフトの使い方なのか、周辺器具の使い方なのか明確に伝えていない。

 当然ある程度PCの知識のある人間からすると何について質問されているか理解できない内容であった。

 政幸まさゆきは正直にPCが苦手な事を伝え政幸まさゆきが理解できている事を全て小山田おやまだに伝えた。

 小山田おやまだ政幸まさゆきの聞きたい事を理解し、一つ一つ丁寧に教えてくれた。

 社内サーバーの入り方、ファイルの展開方法、共用ファイルの閲覧方法など、政幸まさゆきは全てメモを取り使い方を書き留めた。


「基本的な使い方はこんな所ですかね?」

「まあまだまだ便利な使い方もありますけど、PCなんて習うよりも慣れろですからね。」

「まあ解らない事がありましたら、また連絡してください。」


 政幸まさゆき小山田おやまだから聞いた事を今日は実践してみようと思っていた。


小山田おやまだ君ありがとう。」

「今日一日は君の言う通り色々触ってみるよ・・・。」


 電話を切った政幸まさゆき小山田おやまだから聞き書き留めていたメモを片手に早速PCを操作し始めた。




 数時間PCを操作していたところ、政幸まさゆきは社内サーバーに置かれた個人ファイルを閲覧していた。

 プロジェクトに参加している個々人の名前がファイル名となっており誰がどのファイルを作成しているのかが確認できた。

 殆どが表計算ソフトのデータであり作成した個人個人が何を進めているのかが理解できた。

 中には意見として出ていない物や、進行中であるが不備が見受けられるものも確認できた。

 政幸まさゆきはそれらを洗い出し自分なりの意見を個々人へメールにて送付していた。

 政幸まさゆきの送信したメールへの返信も多くあり、今まで社内の全体メールくらいしか受信してなかった政幸まさゆきのメールボックスは忽ちに大量のメールで溢れていた。

 意見のやり取りをPCでする事により場所を選ばず、しかも内容が残っている為エビデンスにもなる。

 政幸まさゆきが苦手で無くても仕事は出来ると思っていたPCは意外な程、便利な物だった。




 政幸まさゆきはPC作業に夢中になるあまり気付くと外は真っ暗になっていた。

 慣れないPC作業を続けていたせいか肩が凝り固まっていた。

 朝から食事すら取る事も忘れていた。

 PCの作業は時間、場所に関係なく何時でも作業できる。

 ある意味労働環境としては危険な物だと感じてしまっていた。


 政幸まさゆきの部屋の呼び鈴が鳴った。

 何かの勧誘かと思って気だるそうに部屋の扉を開けた。


 そこに居たのは茉莉まつりだった。


「えへへ、来ちゃった・・・。」


『来ちゃった』じゃないと突っ込みを入れたかったが、茉莉は満面の笑みを浮かべ悪意は感じられない。

 両手には大量の食材を抱えていた。

 政幸まさゆきの為に食事を作ろうとしてくれているのだろう。

 茉莉まつりの行動自体は問題があるが好意自体はありがたい。

 政幸まさゆき茉莉まつりを部屋に迎え入れた。


「初めてだね・・・おじさんの家入るの・・・。」


 茉莉まつりは嬉しそうな表情をしている。

 こんなボロアパートを見て何が嬉しいのか・・・。


「今日はおじさんの為にご飯を作りに来ました。」


 炊飯器や電子レンジ、

 鍋、フライパン、包丁、まな板、菜箸くらいはあるが調味料すら全くない・・・。

 茉莉まつりは台所を散策している。


「予想通り、調味料すらないね・・・。」

「でも大丈夫、お米も調味料も買ってます!」

「おじさんのキッチン周りなんて予想済みだよ!」


 茉莉まつりは購入してきた袋から食材などを取り出し料理をはじめた。



 台所から良い匂いがする・・・。

 政幸まさゆきがここに引っ越してきて政幸まさゆきの部屋からこの様な良い匂いがするのは初めてだった。


「もうすぐ出来るからね・・・あ・な・た!」


 茉莉まつりは新婚ゴッコでもしているのだろうか?

 やけに機嫌がいい・・・。

 だが政幸まさゆきも自分の部屋で誰かが自分の為に食事を作ってくれている光景を悪くないものだと感じていた。



「おまたせ、おじさん!」


 茉莉まつりが出来上がった料理を運んできた。


「ごめんね、簡単な物ばかりで・・・。」


 野菜炒めに卵焼き、味噌汁・・・これって簡単な物なのか?

 政幸まさゆきは料理は全く出来ないから何が簡単な物なのかさっぱりだった。


「おじさん、どうせ何も食べていないと思っていたからスピード優先で作ったの。」


 的確な判断ありがとう・・・。

 確かに朝から何も食していない・・・。


 政幸まさゆき茉莉まつりの作った料理を口にした。


「うん、おいしいよ茉莉まつりちゃん。」


 いつも作ってくれる弁当も旨いのだが、出来立ての料理はまた格別である。


「本当!? 嬉しいな!」


 茉莉まつりは心底嬉しそうにしている。


「会社帰りに作るから簡単な物しか作れないけど、毎日料理作りに来るよ!」


 毎日ここに来るって事か・・・?

 さすがにそれはまずいだろ・・・。


「いや、でもそれはさすがにまずいでしょ?」

「おじさんと茉莉まつりちゃんの家って会社から反対方向だし・・・。」


 茉莉まつりは上向き加減で人差し指を顎に当て何かを考えている。


「じゃあわたしもここに住む!」


 ある程度予想はしていたが、これはさすがに了承しかねない。


「ダメ!」


 政幸まさゆきは即拒否した。


「え~っ、なら毎日ここに通う・・・。」

「お願いおじさん! わたしがおじさんの為にしてあげたいの・・・だから解って・・・。」


 茉莉まつりの表情を見ていると拒否するのに罪悪感を覚えてしまった。

 以前なら絶対に拒絶していただろう。

 明らかに茉莉まつり対して情が深まっている・・・。

 政幸まさゆきには茉莉まつりの意見に拒否する事が出来なくなっていた。


「わかったよ・・・茉莉まつりちゃんの好意素直に受け取るよ・・・。」

「ただし俺の家の最寄り駅に到着する時間を連絡する事、迎えに行くから・・・。」

「帰る時は駅まで俺に送らせる事、これ絶対条件ね。」


 茉莉まつりの表情が途端に明るくなった。


「うん、わかったよ!」

「これから毎日、おじさんの通い妻になるね!」


 また茉莉まつりが調子に乗ってきた・・・。


「通い妻って・・・。」


 全く質の悪い冗談である・・・。


「おじさんの胃袋をゲットして、通い妻から正妻の立場になってやるんだから!」


 茉莉まつりは以前政幸まさゆきの事を本気だと話してくれた。

 そして照れ隠しで冗談じみた事を言っているが全て本気だとも・・・。

 政幸まさゆき茉莉まつりに対して本気になれば釣り合いは取れないが茉莉まつり政幸まさゆきのものになってくれるだろう。

 周辺の反対はあるかもしれないが少なくとも当人同士の了承は得る事は出来る。

 だが、今の政幸まさゆきにはその資格はない。


『それにおじさんは、わたしの事まだ一番ではない様だし・・・。』


 その時の茉莉まつりの言葉を思い出す。

 言葉の通りだった。

 確かに茉莉まつりの事は大切な存在だ。

 だが茉莉まつのの母である花桜梨かおりの存在が政幸まさゆきの中では常に一番の存在である。

 それは年月が経つにつれさらに大きくなっていく。

 花桜梨かおりの事だ、こんな政幸まさゆきを見たらきっと悲しむ事だろう。

 自分の事は忘れて政幸まさゆき自身の幸せを掴んでもらいたいと思ってくれるはずだ。

 そんな花桜梨かおりだからこそ政幸まさゆきの中での存在が増していくばかりだった。


 ふと政幸まさゆきは以前聞いた、美春みはるの言葉を思い出していた。


『亡くなった人は手強いわね。』

『思い出はどんどん美化されていくものだからね。』


 過去をあまり振り返らなくなったと言えど、今だ政幸まさゆきは過去にとらわれ続けている。

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