第55話 愛娘〈まなむすめ〉

 花桜梨かおりの死から約一年が経過していた。

 政幸まさゆきは魂が抜けた様な表情をしていた。


 与えられた業務をただ淡々とこなしていく日々。

 業務改善や意見は一切口に出さなかった。

 以前の様に仕事への情熱が感じられなかった。

 仕事だけではない、仕事以外もただ生きているだけの状況だった。

 なんの楽しみも無い、やりたいことも無い、ただ一つの事を除いては。


 政幸まさゆきに期待をかけていた営業所所長である梶川かじかわ政幸まさゆきの事をまだ諦めてはいなかった。

 そして政幸まさゆきが変化した経緯も理解していた。

 政幸まさゆきは以前の様に光るものは感じられないが業務自体は普通に行っていた。

 大きなミスや会社に被害を与えている訳でもない。

 問題があるとするならば同僚への態度である。

 同僚とのやりとりでは感情が無機質なものとなっており、以前の様な愛想は全く感じられなかった。

 人と付き合う態度がただ淡々としており感情というものを感じさせなくなっていた。

 営業所の人間は政幸まさゆきの境遇を知っていた為政幸まさゆきを責める事はない、むしろ同情的でもあった。

 政幸まさゆきの業務評価は解雇するほどでもないし普通に会社に居てくれても良い人材といったごくごく普通の評価だった。

 以前の政幸まさゆきを知り政幸まさゆきに期待を寄せていた梶川かじかわはある決断をする事になる。





 政幸まさゆきには唯一の楽しみがあった。

 それは毎週終末になると当り前の様に行われていた親友である真司しんじ宅で行われる食事会だった。

 自分の事を誰より理解してくれる真司しんじ花桜梨かおりの親友で政幸まさゆき花桜梨かおりが一緒になる事を望んでくれていた真司しんじの妻の蛍子けいこ、そして真司しんじ夫妻の養女となった花桜梨かおりの忘れ形見である茉莉まつりの住む家での一時ひとときが何よりも大切で以前の政幸まさゆきに戻れる時間であった。


 政幸まさゆき真司しんじ達の家を訪ねると真っ先に茉莉まつりが駆け寄ってくる。

 そして政幸まさゆきから離れようとしないのである。

 政幸まさゆき茉莉まつりに相当懐かれていた。


「全く茉莉まつりはおじさんが大好きなんだから。」


 両手を腰に当て呆れる様に話す蛍子けいこ、その言葉に敏感に反応する真司しんじ


政幸まさゆき! 茉莉まつりは嫁にはやらんぞ!」


 馬鹿親である・・・。

 茉莉まつりはまだ四歳だぞ・・・。


「わたし、お嫁さん?」

「わたし、おじさんのお嫁さんになるの?」


 茉莉まつりの言葉にも敏感に反応する真司しんじ


茉莉まつり、そうだよな政幸まさゆきのお嫁さんなんて嫌だよな?」


 何度も言うが馬鹿親である・・・。

 一生娘を傍に置いておくつもりか・・・。


「わたしおじさんのお嫁さんになる!」


 更に政幸まさゆきにくっついてくる茉莉まつり


「まつり~っ、本気なのか!?」


 真司しんじは相当動揺している。


「うん!」


 茉莉まつりの元気の良い一言に真司しんじは何かを考えている様だった・・・。


「で、でもさ・・・お嫁さんになるには大人にならないとダメだから・・・。」


 見ていて相当面白い・・・。


「なら大人になったらおじさんのお嫁さんになる!」


 顔面蒼白になる真司しんじ、ちょっとからかってやるとするか・・・。


「うんそうだな・・・俺と茉莉まつりちゃんは茉莉まつりちゃんが大人になったら法的にも何ら問題なく結婚できるな。」

茉莉まつりちゃんと血が繋がり、しかも養子にした真司しんじには無理だが俺には茉莉まつりちゃんをお嫁さんにすることが出来るな・・・。」


 真司しんじの表情に焦りが加わっていた。

 そろそろ止めを刺すか・・・。


「その時は宜しくな!」

「お義父さん!」


 完全勝利だな・・・真司しんじは死んだな・・・。


茉莉まつりは嫁にはやらん!」

茉莉まつりは一生俺と一緒に暮らすんだ~っ!」


(うんうん、真司しんじは一生子離れできないタイプだな・・・。)


 感情的になる真司しんじの態度を面白がっていると蛍子けいこがそれを制止した。


「男共!、馬鹿なこと言ってないでとっとと食事に手を付けなさい!」

あんた真司もいちいち冗談を真に受けない!」


 この家の主は真司しんじでは無く蛍子けいこの様だ・・・。

 男達は大人しく食事を再開した。


「伯母さん、わたし大人になったらおじさんのお嫁さんになるんだ!」


 箸がとまる真司しんじ


「そうなんだ、きっとかわいいお嫁さんになるね茉莉まつりなら。」


 蛍子けいこ茉莉まつりの言葉を無難に受け止める。

 こういう時は男より女の方が精神的には強い。


「早く大人になりたいな・・・結婚式はドレスが良いかな・・・着物が良いかな・・・。」


 持っていた箸を落としてしまう真司しんじ

 本当に見ていて飽きない。


茉莉まつりは・・・茉莉まつりは・・・。」

「絶対、嫁にはやらんぞおおおおおぉぉぉっ!」


 雄叫びを上げる様に叫ぶ真司しんじ


「黙れ! 馬鹿亭主!」


 蛍子けいこの一括に再び大人しくなる真司しんじ


 茉莉まつりは義父である真司しんじから多少過剰ともいえる愛情を注がれてはいるがこの夫婦に引き取られた事は間違いなく茉莉まつりにとって幸福だったと感じる。

 実の母親を亡くした幼子であった茉莉まつりは母を亡くした点については不幸な娘だ。

 だが積極的に茉莉まつりを引き取りたいと願い出た真司しんじ夫妻の存在は茉莉まつりにとっては幸福だったと言える。

 伯父とはいえ近しい存在に血のつながった人間が存在して居る。

 またその妻の蛍子けいこは母の親友でもある。

 親友の忘れ形見を愛情深く育てない訳がない。

 政幸まさゆきは愛する花桜梨かおりの娘である茉莉まつりを引き取れなかった事に最初は憤りを感じていた。

 妻にこそできなかった花桜梨かおりの娘を引き取り茉莉まつりを立派に育て上げ花桜梨かおりとの証としたかったのだ。

 だが結果として茉莉まつりにとっては今の環境が一番幸福だと言える。

 真司しんじ達の存在に改めて感謝しつつ茉莉まつりの幸福を願わずにはいられなかった。





 楽しい宴の時間も終盤となっていた。

 食事も平らげ程よく酔いも回っている。

 茉莉まつりは既に疲れてか夢の中である。

 政幸まさゆき真司しんじ達にどうしても話さないといけない事があった。


「実は、まだ内示すら受けてないんだが、どうやら転勤になりそうなんだ・・・。」


 真司しんじ蛍子けいこは特に驚きの表情は見せていない。

 政幸まさゆきの務める企業は大手の企業で全国的に支社を構える企業である。

 転勤があることぐらい想像に容易い。


「そうか・・・勤務地はどこになりそうなんだ?」


「東京だよ・・・。」


「東京!? もしかして本社勤務か?」


「ああっ・・・。」


「すごいじゃないか! 栄転じゃないか!」


 だが政幸まさゆきの表情は暗かった。

 まるで転勤を望んでいない様な・・・。


「政幸よぉ、おまえは転勤を望んでいない様だな・・・。」

「東京か・・・確かに遠いな・・・。」

「だがある意味チャンスだぞ!」

「おまえはここでは普通に過ごせているように見えるが、実際は無理してるだろ?」


 長年付き合いのある真司しんじには全てお見通しだった。


「ああっ、その通りだ・・・。」


 あえて、それを否定しない政幸まさゆき


「お前がどう選択するかは俺に決める権利もないし、決めた選択を否定しようなんて思っちゃーいない。」

「だがお前はこれからも花桜梨かおりの影を追いながら生きて行くのか?」


 図星を付かれていた。

 政幸まさゆき花桜梨かおりの事を今だ想い続けている。


「まあ花桜梨かおりをそう思ってくれるのは正直ありがてぇよ?」

「だがな花桜梨かおりはどう思うのかな?」


 花桜梨かおりの事だきっと政幸まさゆきが幸せになる事を望んでくれるに決まっている。


花桜梨かおりの事を忘れろなんて俺は言わない。」

「だがよ、花桜梨かおりに縛られてお前が掴むべき幸福を手放す事を花桜梨かおりが望むと思うか?」

「だったら心機一転して向こう東京へ行くのもありなんじゃないか?」


 真司しんじは本気で政幸まさゆきの事を考えて居てくれている。

 それは手に取るように解る。

 伊達に十年以上も親友をやっていない。

 その心遣いが政幸まさゆきには嬉しかった。


 政幸まさゆきの表情が一変したのに真司しんじは気付いていた。

 そして安堵した表情となっていた政幸まさゆきの表情に確信を持てたのだろう。


「そうだな・・・真司しんじ・・・それもありだな・・・。」

「お前達と気軽に会えなくなるのは寂しいが、今の状況を変えなければならないのは俺も解っていた・・・。」

「ありがとな・・・真司しんじ・・・。」


 政幸まさゆき真司しんじに感謝していた。

 いつもこんな時、真司しんじは本気になってくれている。


「それに政幸まさゆき向こう東京へ行ったら・・・。」

茉莉まつりも結婚の事を諦めてくれるだろうしな!」


「この馬鹿親!」


 毎週の様に当たり前に行われていたこの団欒も内示が出てしまえば終了を意味する。

 政幸まさゆきにとって唯一の楽しみであり癒しの場でもあった。

 まして本社勤務となれば友人はおろか知人すらいない状況だろう。

 人間関係は一からスタートする事になる。

 今の政幸まさゆきにそれが堪えられるであろうか?

 正直、その状況にならなければ解らない。

 向こう東京に行くと真司しんじ達のありがたみが身に染みて解る事だろう。

 だが今の状況を変えなければならない事は政幸まさゆき自身も理解はしていた。

 もし内示が出て向こう東京へ行く事が決まったのなら会社に従おう・・・。

 それがたとえ自分の意志とは正反対の希望であろうとも・・・。

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