第30話 傾倒〈けいとう〉

 政幸まさゆきはかつての恩人である先輩である美春みはるとの再会を心から喜んでいた。

 二十数年ぶりの再会だった。

 美春みはるにはとても高い目標があることを政幸まさゆきは知っていた。

 様々な経験をして生徒に寄り添える教師になる夢。

 美春みはるはその理想の教師になれたのだろうか?

 それとも理想の教師になる夢を諦めたのだろうか?

 諦めるはずは絶対にない、政幸まさゆきのいる会社に来たのもきっと理想の教師になる為のの一つだろう。




 政幸まさゆき美春みはるにごちそうするから飲みに行こうと誘われていた。

 もちろん断る理由などない。

 最後に美春みはるにあったのは高校時代、当然酒を酌み交わす事なんて一度もなかった。

 美春みはると再会でき再交流を取れることがどれだけ嬉しい事だろう。

 一度部署に戻り帰り支度をしたら役員ブースの受付まで来るように指示されていた。


 政幸まさゆきは帰り支度をする為自分の部署へ向かっていた。



 政幸まさゆきが戻るとそこには茉莉まつりが待っていた。

 茉莉まつりは不安そうな顔をしている。

 政幸まさゆきが役員に目を付けられたのではないかという噂を聞いて心配してくれたのだろう。


「おじさん・・・あの・・・あのね・・・。」


 茉莉まつりは何かを言いたそうにしている。

 茉莉まつりの不安そうな顔を見るのは忍びない。


茉莉まつりちゃん何でもなかったよ?」

「あの沢渡さわたりさんって方はおじさんの古い知り合いだったんだよ。」


 茉莉まつりはその言葉を聞いても不安な表情をしている。


「おじさん、私を安心させる為に嘘ついてない?」


 全く持ってその様な事はない、深読みしすぎである・・・。


「おじさん、まだ沢渡さわたりさんに呼ばれているんだよね。」

「また向こう役員ブースに行かないといけないんだよ。」

「本当に何でもないから、心配しないでね。」


 政幸まさゆきが役員ブースへ向かおうと歩き出したが茉莉まつりがついてくる。

 美春みはるをあまり待たせる訳には行かない。

 政幸まさゆき茉莉まつりを歩きながらなだめようとしていた。


「本当に大丈夫だから、何でもないんだから心配しないで・・・。」


 茉莉まつりは不安そうな顔をしたままだ。


「でも・・・でも・・・。」


 茉莉まつりは不安を拭えていない様だ。


茉莉まつりちゃん沢渡さわたりさんが古い知り合いってのは本当の事なんだ、おじさん沢渡さわたりさんにこれから飲みに行こうと誘われているんだよ。」

「噂になっている様な事になってたら、その人と飲みに行くと思うかい?」


 ここで納得させねばならない、もう役員ブースは目の前である。


「心配してくれるのは嬉しいんだけど、心配無用だよ。」

「おじさんがこんな嘘つくと思うかい?」


 茉莉まつりはまだ納得できていない様である。

 これだけ人から心配してもらえる、確かにありがたい、でも誤解である。


「おじさんがわたしに嘘つくなんて思ってない、でもおじさんは優しいから、わたしを不安にさせない為の嘘かもしれない・・・おじさんはやさしい嘘ならつく気がする・・・。」


 大変ありがたい評価ではあるが、誤解であることには違いはない・・・。

 美春みはるをあまり待たせる訳には行けないしどうしたものかと困惑していた。


矢野やの君、何をしているのかしら?」


 美春みはるの声だった。


「あら・・・俺・・・まだ受付してないのですが・・・。」


「受付の子があなたの姿を見かけたから気を利かせて私に連絡してくれたのよ。」

「そしたら矢野やの君が女の子とイチャイチャしてるからびっくりしたわ。」


 完全な誤解である・・・。


「いやこの子は沢渡さわたりさんに私が目を付けられて会社を辞めさされるという憶測による噂がありまして・・・良く解んないのですが・・・。」


 美春みはるはため息をついていた。


「つまりそう言った噂話を聞いて心配になったこの子がついて来たって事ね・・・。」

「全く、社員が多いのも考え物ね、くだらない噂や憶測が飛び交っちゃって・・・。」


 全く持って美春みはるは話が早い。


「まあいいわ、これから矢野やの君は私と飲みに行くの、あなたも帰り支度は出来ている様ね。」


 美春みはる茉莉まつりが肩に下げているバックを見ていた。


「あなたも用事ないのなら強制はしないけど良かったら一緒に来なさい。」

「ここで出会ったのも何かの縁でしょう。」

「ついてらっしゃい。」


 美春みはるは役員用のエレベータのあるエレベーターホールに歩いて行った。


 美春みはるを追う様についていく政幸まさゆき茉莉まつりもついてきている。


「おじさん・・・あの人が沢渡さわたりさんだよね・・・。」

「かっこいい人だね・・・。」


 茉莉まつり美春みはるに対して珍しい事に好感を示している。

 いつもの茉莉まつりなら嫉妬している事だろう。




 政幸まさゆき達はこんな事が無い限り一生使用する事のないであろう役員用エレベータで階を降りて行った目標階はB2となっていた。

 美春みはるは茉莉に話しかけた。


「あなたお名前は?」


 茉莉まつりはハッとした表情をした。


「申し遅れました。」

「受付業務を担当しております下野しもの茉莉まつりと申します。」

「本来であればわたくしの方から挨拶するべきでしたが、挨拶が遅れた事を深くお詫び申し上げます。」


 茉莉まつりは深々く頭を下げている。

 これが茉莉まつりの普段見せない営業中の態度なのだろう。

 普段の態度を見せつけられている政幸まさゆきには別人のように見えた。


「別にいいのよ、今は課業時間外だし今から飲みに行くのだから名前くらい知っていないといけないでしょ?」

「それとあなた達のICカードも守衛に連絡してリセットしてもらわないと明日出勤してもゲートくぐれないわよ?」


 そうセキュリティー確保の為この会社ではICカードによる運用が行われている。

 つまり退社する際にICカードをかざしていないと次に入館しようとしてもエラーが出て社内には入れない仕組みとなっている。

 守衛にそれを連絡、つまり政幸まさゆき茉莉まつりのICカードを退社状態にしてもらうという事である。

 その為もあって茉莉まつりの名前を聞いていたのであろう。

 本当にこの美春は小さなことでも良く気付く。


「ねぇねぇ、おじさん・・・沢渡さわたりさんてかっこよくて、気が利いて、素敵すぎない!?」


 茉莉まつりはすっかり美春みはるに傾倒してしまったようだ。


 エレベーターから降りるとそこは地下の車両用のロータリーとなっていた。


 そこには一台の黒塗りのミニバンが停まっていた。

 役員用の送迎車であろう。


 美春みはるはそのミニバンに向かって歩いていた。

 美春みはるについていく政幸まさゆき達。


 ミニバンの横には運転手が待機していた。


「この二人も一緒に乗せて行くわ。」


 運転手は頷いていた。


「かしこまりました。」


 政幸まさゆき達はミニバンに乗り込んだ。


「今日はこれから食事へ行くつもりだからそちらに行ってもらえますか、いつもの店ね、着いたらそのまま帰社してもらっていいわ。」


「承知いたしました。明日はいつもの時間に自宅にお迎えでよろしいですね?」


「ええ、それでお願いします。」


 車両が地上に出ると美春みはるは携帯を取り出し守衛所に連絡を入れていた。

 抜かりのない対応である。


 茉莉まつり美春みはるの行動に見入っていた。

 相当、美春みはるに魅かれたのであろう。

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