第8話 呼称〈こしょう〉

 冴えない中年社員と茉莉まつりは会社周辺のカフェに来ていた。

 上着を羽織ることなくシャツ姿の中年男性の腕に付けられていた黒いアームカバーがその店の雰囲気を壊してしまっていた。

 同席している茉莉まつりはその事は全く気にしていない。


 中年男性は茉莉まつりが入社する前はカフェなどに縁のない生活をしていた。

 茉莉まつりが入社する前までは昼食は牛丼やなどといった手早く済ませられる食事を取って居た。

 その為メニューなどみてもさっぱり理解できなかった為、もっぱら注文は茉莉まつりに任せていた。


「おじさん、最近いつもここの店に来ているけど次は違う店に行く?」


 そういってまた、中年社員を食事に誘おうとする茉莉まつり


 中年社員は落ち着いた声で、諭すように茉莉まつりに声をかけた。


下野しもの君、さっきも言ったけど、やはり会社で私の事を『おじさん』と呼ぶのは良くないと思うな。」

「うちの会社従業員も多いし誰が聞いているかわからないからね。」


 その言葉を聞いた茉莉まつりは少し考え事をしていた。


「おじさんは、会社ではわたしに『おじさん』って呼ばれてほしくないんだ・・・。」


 少し気落ちをしたかのように言葉を発する茉莉まつり


「でもそうだよね。おじさんが嫌ならわたしもそれに応えなくちゃいけないよね。」

「じゃあ『主任』って呼ぼうかな? でも会社の人でおじさんの事『主任』って呼んでいる人居ないし誰だか解んないよね・・・。」

「うん! 今度からは、おじさんの名前に『さん』付けをして呼ぶことにします。」


 茉莉まつりは素直に理解してくれた様で何よりだった。


 会社の嫌われ者である中年社員はその事を自覚していた。

 別に今更嫌われている事を改善しようとも思っては居なかったのだが、中年社員の事を嫌う姿を見せない茉莉まつりが好奇な目で見られるのは避けてやりたかった。

 少しずつ中年社員との関りを無くし、他の社員達と交流を深めてやるべきだと考えていた。


 そう考えている時、茉莉まつりから中年男性に対して提案をしてきた。


「ねぇ、おじさん今からおじさんの事『さん』付けで呼んでいい?」


 少し頬を赤らめ上目づかいに視線を向けてくる茉莉まつり

 いままで『おじさん』と呼んでいたのに急に名前で呼ぶことになるのは気恥ずかしいのであろう。


「もちろんいいとも。」


「うん、じゃあ言うね・・・。」


 茉莉は一呼吸置き、更に頬を赤らめ、上目遣いのまま語りかけた。


ま・さ・ゆ・き政幸・・・さん・・・。」


政幸まさゆき』、中年男の名前ファーストネームである。


 すっかり名字である『矢野やの』と呼ばれるものだと思い込んでいた中年社員政幸まさゆき茉莉まつりの思わぬ発言に、言葉を失っていた。


 中年社員政幸まさゆきの言葉を失わせていた原因である茉莉まつりは頬に両手を当て体をくねらせていた。


「もう、やだ! これではまるで新婚ね!」

「もうこのまま結婚しちゃうしかないわね!」


 言葉をすっかり失っていた中年社員政幸まさゆき

 どうやったらその発想になるのか意味が解らない。

 だがこのままではズルズルと茉莉彼女のペースにハマってしまう。


「あの下野しもの君・・・。」


「なあに、政幸まさゆきさん?」


 上機嫌で愛想よく受け答えをする茉莉まつり

 当然の様に中年社員政幸まさゆきの事を名前ファーストネームで呼んでいる。


「あの、名前ファーストネームではなく名字で呼んでくれないかな?」


「拒否権を行使します!」


 間髪入れず拒否する茉莉まつり

 何の権利があって拒否権を発動させているのか意味が解らない。

 中年社員政幸まさゆきに更に言葉をつづける茉莉まつり


政幸まさゆきさん、わたしの事も『茉莉まつり』って呼んでほしいな、もちろん呼び捨てでね!」


 政幸まさゆきは理性を保とうとしてはいたが、としてしまった。


「そんな事会社でいえるか!」


 冷静なをしていた中年社員政幸まさゆきは思わず茉莉まつりに対して突っ込みを入れてしまっていた。


「えーっ、昔は呼び捨てでは無いけど『茉莉まつりちゃん』って呼んでくれていたじゃない。」


 口を尖らせて不満を述べる茉莉まつり

 どうやらこの二人は昔なじみの様だった。


「昔は昔、今は今なのっ!」

茉莉まつりちゃんだって今は立派な社会人、社長のご子息だって会社では父である社長の事を『父さん』なんて、呼ばないよね? 父である社長の事を『社長』って呼ぶんだよ、社会のルールに従って言葉には気を付けないと、いつかおじさんみたいになっちゃうよ!?」


 政幸まさゆきは反面教師としての資格は十二分にある。


 きょとんとした表情をみせる茉莉まつり

 だがその表情はすぐに変化があった。


「今おじさん、わたしの事『茉莉まつりちゃん』って呼んでくれた・・・。」

「嬉しい・・・。」


 茉莉まつりの表情は真っ赤になっており、とても上機嫌であった。

 だが肝心の政幸まさゆきが伝えたいことは理解していないことだろう。

 中年社員政幸まさゆきの呼称も『おじさん』に戻っていた。

 中年社員政幸まさゆきと自分の発言を悔いていたがそれは後の祭りである。


 暫くの間状況を楽しんでいるかの様な茉莉まつり

 十分に満足したのか普段通りの愛想よく楽しそうな表情へと戻っていた。


「わかりました、おじさん。」

「でも、わたしにばかり一方的に意見するってのはではないと思うなーっ。」

「だから妥協点を提案します!」


 何がフェア公平だ、一般常識を言ってるだけだ・・・と思ってはいたが茉莉まつりの話を何も言わず聞く中年社員政幸まさゆき

 嫌な予感がしている・・・。


「今からおじさんに対する呼称を2つ提案します。」

「その内の1つをおじさんに選択してもらいます。」

「1つは今まで通り『おじさん』。」


 名前ファーストネームで呼ばれるよりはるかにマシな呼称。

 中年社員政幸まさゆき茉莉まつりがこの『おじさん』以外の呼称で呼ぶ気が無い事をある程度はしていた。


「2つ目は?」


 茉莉まつりは少し考えていた。

 恐らく考えていなかったのであろう。

 だが中年社員政幸まさゆきの絶対に拒否する呼称にするつもりなのが想像できた。

 少し上向きに頭を上げ、右手の人差し指のみを立て、その人差し指を顎に置いていた。

 嫌な予感と不安がさらに高まる・・・。


「んーっと・・・。」

あ・な・たダーリン?」


 ニヤけた顔つきをしている茉莉まつり

 嫌な予感は的中した。

 その姿を見て中年社員政幸まさゆきは即答した。


「拒否権を行使します!」

「今まで通り『おじさん』でいいわ・・・。」


 中年社員政幸まさゆき完全敗北。

 親子程も歳の離れた茉莉まつりのペースにすっかり飲み込まれていた。





 時は平成の世。

 バブル経済はとっくに弾け不況の時代。

 負けると思われていた米大統領トランプが誕生し、慌てた日本国首相が米国に即飛んだ事柄があった年の話。

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