第9話 誓い〈ちかい〉

 わたしは『おかあさん』 になりたかったんだよ。

 あなたに愛され続けられた『おかあさん』 に・・・。

 でも『おかあさん』 の事はわたしはあんまり知らないの・・・。

 だから写真の中の『おかあさん』 に近づけるよう頑張ってきたんだ。

 だけどそれ以外の『おかあさん』 の事は解んないの・・・。

 結局『おかあさん』と私は別人なんだ・・・。

 わたしは『おかあさん』 にはなれない。

 わたしはずっと『おかあさん』に嫉妬していたんだよ・・・。

 だけど気付いたんだ、わたしは『おかあさん』と違うから。

 わたしなりに頑張ってみるって・・・天国の『おかあさん』に誓ったよ・・・。



 



 矢野やの政幸まさゆき

 冴えない中年社員の氏名フルネームである。

 誰もがそうであろうが、この政幸まさゆきも若かりし頃は現在と真逆で眩しいくらいの青春時代を過ごしていた。

 いや、『眩しい』は少し大げさな表現かもしれない。

 もし過去の自分に合うことが出来たとして、そう問いかけると一笑されてしまうことだろう。


 だが、現在の政幸まさゆきからすると過去の記憶はとても『眩しい』ものであった。





 午後の業務を終え帰宅の準備をしている政幸まさゆき

 黒いアームカバーを机に押し込み、上着を羽織りオフィスを後にした。

 社員通用口に向かっていると政幸まさゆきは一人の白髪頭の男性から話しかけられた。


矢野やのさん、お疲れ様です。今お帰りですか?」


しげさん、お疲れ様です。」


 政幸まさゆきに『しげさん』と呼ばれた男性の名は茂田しげた下の名前フルネームは知らない。

 大手電力会社に勤め人事部に居たらしい、その後子会社への出向をしそこで定年を迎え現在は政幸まさゆきの勤務しているビルの外注の清掃員をしている。

 人となりは非常に温厚で老紳士といっても差支えのない人物である。

 社内の嫌われ者である政幸まさゆきにも非常に好意的であり、政幸まさゆきにとって社内で唯一親しみの持てる人物であった。


矢野やのさん、終わりならこれから新橋へどうですか?」


 茂田しげたは口元にお猪口で酒を飲む表現を行った。


 政幸まさゆき茂田しげたと何度も飲みに出かけている。

 元々強くはないが酒はそれなりに好きだった為断る理由もない。


「良いですね。行きましょう!」


 茂田しげたはにっこりと微笑み頷いた。

 二人は社員通用口に向かった。





 社員通用口、守衛所受付の前政幸まさゆきにとって頭の痛くなる人物がいた。


 茉莉まつりである。


 茉莉まつりの同世代や結婚適齢期の男性からすると思考であろうが親子程年齢差のある政幸まさゆきにとってはあまり関りを持ちたくない。


 茉莉まつり政幸まさゆきの姿を確認すると周囲の目を気にすることもなく政幸まさゆきに話しかけた。


「おじさん!一緒に帰ろ!」


 一緒に帰るも何も茉莉まつりとは帰る方向が真逆である。

 恐らく駅地下周辺を散策し政幸まさゆきを振り回すのが目的であろう。

 だが今日に限っては政幸まさゆきにはを断る理由がはっきりとあった。


下野しもの君、私は今日は茂田しげたさんと用事があるから、今日は勘弁してくれないかな?」


 その言葉に不満げな表情を見せる茉莉まつり


「えーっ、またしげさんと?」

「おじさんの浮気者・・・。」

「たまにはわたしも連れて行ってよ?」


 上目使いで同行を求める茉莉まつり

 だが茉莉まつりにもを許してくれないのは解りきっていた。


下野しもの君、男同士の付き合いってのもあってね、これは非常に大事な事なんだ。」

「ましてや、茂田しげたさんは私にとって心許せる数少ない人物、その意味わかるよね?」


 茉莉は両手こぶしを握り、脇を締め政幸まさゆきにとって意図せぬ発言をした。


「つまり、わたしにとっての最大のしげさんって事ですよね!?」


 その言葉に周囲の空気が凍り付いた。

 その様な雰囲気にも関わらず茉莉まつり茂田しげたに対して肩幅に足を開き、左手を脇に当て、右手を水平に上げ人差し指で茂田しげたを指さし芝居かかったように言葉を続けた。


しげさんには絶対負けませんよ! 必ずおじさんは取り戻して見せます!」


 何を言っているこの小娘は・・・。


 茉莉まつりの空気を全く読まない発言の中、開いた口が塞がらない政幸まさゆき

 茉莉まつりにライバル宣言をされた茂田しげたは余裕のある温和な表情で茉莉に話しかけた。


下野しものさん、せいぜいお手柔らかにお願いしますよ。」


 その発言をすると茂田しげたは後ろを振り向き肩で笑っていた。


 ライバル宣言をした茉莉まつり十分満足したのか、あっけにとられている政幸まさゆきに対して肩幅に広げた両足はそのままで両手を組み発言をした。


「さて、冗談はここまでにして・・・。」


 突っ込みどころはあったが、今の政幸まさゆきにはその様な元気もない。

 かまわず茉莉まつり政幸まさゆきに言葉を続ける。


「今日はしげさんに譲りますが、明日はわたしの番ですよ!」

「そうじゃないとではないですからっ!」

「でも残念ながら、明日はシフト的にお昼はご一緒出来ないのです。」


 茉莉まつりは会社の受付業務である。

 その業務の特性から、昼休憩時間も受付は稼働している。

 その為、休憩時間もシフトによって変動する。

 明日は通常社員が休憩する時間と休憩時間となっているのだろう。


 茉莉まつりは膝を少し曲げ、両手の指を組み、上目づかいで政幸まさゆきに話しかける。


「ごめんねおじさん、寂しい思いをさせて・・・。」


 また茉莉まつりのペースに飲み込まれつつある政幸まさゆき

 もう半ばあきらめの方が大きくなっていた。


「でも、わたしはおじさんに寂しい思いはさせたくない!」


 余計なお世話である。

 頼むからほっといてくれ・・・。


「幸いおじさんと私は帰宅時間は一緒です。」

「だから明日はわたしがおじさんとデートしてます!」


 政幸まさゆき茂田しげたを見かけた時から既に茉莉まつりは頭で絵を描いていたようだ。

 最初からこれが目的だったのであろう。


 茉莉は右手人差し指を立て左目だけ閉じウインクした。


「明日は、残業厳禁!」

「これはわたしからのです!」


 命令権すらない茉莉まつりからの

 政幸まさゆきからの返答も聞かず足早に去っていく茉莉まつり

 政幸まさゆきは翌日残業をすることを考えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る