匣の中の画伯〜その7

うまくいった。

これで誰にも私の秘密を知られずに済んだ。

私の秘密……


という事実を……


全てはあの日の放課後、私が部室で絵の仕上げをしている時に始まった。

部活もとうに終わり誰もいなくなった部屋で、私は細心の注意を払いながら筆を走らせていた。

色覚異常といっても、私の場合はごく限定的なものだ。

だけで、他の色は判別できた。

だからなんとかなると思っていた。

色が判別できないなど絵描きにとっては致命的だが、そんな事でこれまで積み上げてきた実績と栄誉を失う訳にはいかない。

それにあの絵は私の高校生活の集大成とも言えるものだ。

完成すれば上位の入賞も夢ではない。

だから途中で止める訳にはいかなかった。

決意を持って作業していたあの日……

まさか部員が戻って来るなど予期していなかった。

そう、まさか……


高山美月の脳裏にその時の光景が蘇った――



「あれ、高山部長いらしたんですか」

驚いた顔でドアを開けたのは小宮山栞だった。

地味だが絵のセンスは部員の中でも一番高い。

それゆえ美月も何かと目をかけていた。

「あ、ええ……あなたこそどうしたの?」

美月は動揺を抑えながら言った。

見られてはいけないものを見られた罪悪感が身中で膨らんだ。

「教室に忘れ物を取りに来たついでに部室の前を通ったら明るかったので……」

申し訳無さそうに栞が答える。

「お邪魔してすみません」

「ううん。いいのよ」

美月は無理矢理笑顔を浮かべた。

とにかく気付かれないようにしなければならない。

「あ、それ……」

栞が戸口からキャンバスの方を覗き込んだ。

「今度の展覧会の作品ですよね」

「え、ええ……そうよ」

栞の言葉に美月はハッとした顔で答える。

「もう色入ってるんだ……見てもいいですか?」

興味津々の眼差まなざしを向ける栞に、美月は頷くしか無かった。

嬉しそうに駆け寄る栞。

だがキャンバスの前に立ったその顔が微かにゆがむのを美月は見逃さなかった。

「あの、これ……」

首をかしげてキャンバスに描かれた肖像画を指差す。

「この唇の色って……何かのアクセントですか?」

その言葉に美月の顔から血の気が引いた。


唇……まさか……!?


「独創的ですね。なんて」


急激な目眩めまいで倒れそうになるのを美月は必死でこらえた。

鼓動が高鳴り、額から冷や汗が噴き出す。


不覚だった!


チューブからパレット上に移した絵の具を取り違えてしまったのだ。


最後の最後に油断してしまった。

勿論、独創的でもアクセントでも無い。

完全な失敗作である。


「どうかされました?部長」

顔面蒼白の美月を見て栞が心配そうに声を掛ける。

返事もできず、美月はその場に座り込んだ。


二ヶ月間の努力が


上位入賞の夢が


高校生活最後の集大成が


この一瞬で跡形も無く消え失せた。


展覧会は二日後――

今からではとても間に合わない

美月は栞の視線も気にせず、がっくりと項垂うなだれた。

そして今度は、筆舌し難い危機感が彼女に襲いかかった。


まずい!


素直に塗り間違ったと白状すれば、「どうして」と聞かれるに違いない。

自分ほどの実力の持ち主が、そんなあり得ないミスをするとは誰も思わないからだ。

そうなるとこの病の事を言わねばならなくなる。


のだと……


いや、駄目だ!


そんな事をすれば瞬く間に知れ渡ってしまうに違いない。


役立たずな者を見るようなさげすみの視線にさらされるに違いない。


そんなのはごめんだ!


かと言ってこんな失敗作を展覧会に出す訳にもいかない。


一体どうすればいい!?


どうする……

どうする……

どうする……


鬼の形相で美月は必死に打開策を模索した。


そして最終的に出した結論は、というものだった。


これが誰も見ていない状況であったなら、適当に絵の具をぶちけ【事故】を装う事もできただろう。

だが如何せん、栞にしっかり見られてしまっている。

彼女の口から唇の色の件が広まる前に、なんとか上手くだまして口を塞ぐ方が賢明だ。


美月は涙しながら自分の色覚異常について告白した。

自分でも驚くほど真に迫る演技だった。

最初は信じられないといった表情の栞も、次第に目を潤ませながら頷き始める。

かねてから敬愛する先輩の窮状きゅうじょうに、少女の心はなんの疑念も無く同情心で満たされた。

ここで美月は、思いついたばかりの切り札を使った。


「この絵のモデルね……


そう囁きながら栞に近付き、そっと眼鏡を外す。

「前から思ってたの。あなたの瞳、とても綺麗だなって。だから今度の肖像画はあなたをモデルに描こうと決めたの。出来上がったら皆に発表するつもりだった」

勿論、嘘である。

肖像画のモデルはあくまで自分自身だ。

単なる写実ではなく随所に想像も加味しているため、ぱっと見は誰にも似てるし誰にも似ていない。

だがそれでも、この言葉の効果は絶大だった。

「部長、とても……とても光栄です!ありがとうございます」

栞は満面の笑みで声を震わせた。

「だから余計にこの絵は大事なの。私の想いの詰まったこれが、病のせいで失敗したなどと知られたくないのよ」

「部長のお気持ちよく分かります。私にできる事があれば何でもおっしゃってください」

特別扱いされた者の悦びが栞の全身から溢れ出る。

少女が美月の手に落ちた瞬間だった。


「そうだ。私に考えがあります。要はこの絵の色違いがバレずに、展覧会にも出さず、かつ部長に責任が及ばないようにすればいいんですよね」

栞の目が輝く。

そこにいつもの地味で影の薄い少女の面影は無かった。

「実は私、推理小説が好きで、たまに自分でもトリック考えたりしてるんです。だから任せてください」

栞は自信たっぷりに豪語した。

そうして考案されたのが、今回の密室犯罪であった。


最初は栞を口止めし【事故】に見せかけて絵を処分するつもりだったが、それでは自分への風当たりは避けられない。

だが栞の計画ならば絵をダメにしたのは正体不明の不審者で、自分はあくまで被害者の立場を確保できる。

同情されこそすれ、絵を駄目にした張本人だとは誰も思わないはずだ。

美月は栞の作り出したトリックを称賛し、同調した。


「でも……万が一トリックがバレたら……」

「その時は……私が全て責任を持ちます。そしてとでも仰ってください。そうすれば私が誤解していたという事で丸く収まる筈です」


美月はこみ上げる笑いを必死でこらえた。


自分の肖像画だと信じ込み、懸命に策を弄する栞の姿が滑稽だった。

だがそれと同時に、外見とは裏腹な大胆さを発揮する少女に驚嘆の念を抱きもした。

この子を仲間にして正解だったわ……

自分の判断の正しさに美月は満足げに頷いた。


絵については少しでも美月に容疑がかからないよう、ズタズタに切り裂く事にした。

あの日、水色のスマホをかざした栞の前で美月はカッターをふるった。

うまく録音できるよう、なるべく派手に切り裂く。

特に色違いの口の部分は、

「まったく……こんなものがあるから……」

美月は栞に聞こえぬよう口の中で呟いた。

そしてその顔には、自らの名誉を死守できた悦びが笑みとなって浮かんでいた。



瞑想から現実に戻った美月は軽く頭を振った。

うまくいった……

結果的に、あの日栞に絵を見られた事がいい方に動いてくれた。

自分はあくまで被害者。

実績も栄誉も失わずに済んだ。

これからも注意しながら創作を続けられる。

栞には気の毒だったけど……

私の創作の役に立ったんだからきっと本望でしょ。


美月は何気なく肖像画のカバーをまくり上げた。

特に意図は無い。

ほどなく処分する予定の絵を、もう一度だけ見ておこうと思っただけだ。

ふと見ると、隅に小さな紙片がピン止めされている。

何かしら?

不思議そうに首を傾げながらそっと剥がす。


「…………!!」


途端に美月の表情が一変した。

眉が吊り上がり、額から汗が噴き出した。

その紙片はだった。


デッサンされた少女の肖像画――


まだ色を入れる前の絵だ。


そして



画像の端に何か走り書きがあった。



その言葉に美月の脳裏をある光景がよぎった。

あの連中と部室で初めて会った日――

百合子とかいう女子が画材をひっくり返した。

手についた絵の具が一瞬、

赤と緑の判別ができなかったからだ。

咄嗟に「消毒」と口走ってしまったが

まさかあのたった一言で私の秘密を……


一体誰が!?


あの時部屋にいたのは?

栞の筈は無い。

泰葉?

他にはあのお節介で邪魔な連中──

名前は確か……

矢名瀬美乃

浜野紀里香

朝霧百合子

あと……なんと言ったかしら……

……凪とか言うボーっとした男子

そう言えばあの子だけ

この肖像画を熱心に眺めていたわね。

私が念のために剥ぎ取った口元を……


まさか……

まさかね……


たったそれだけで私の病を見抜ける訳がない。


でも誰だか分からないけど

私と栞以外に秘密を知っている者がいるのは確か。

この写真が何よりの証拠。


それにしても……


美月の中をさらに重苦しい疑念が埋め尽くす。


なんで公にしないんだろう。

なんでわざわざこんな遠回しな事を……


その時ふいに、美月の中にその答えが浮かんだ。

それはあまりに無慈悲で残酷なものだった。

少女はその場に座り込むと、やがて引きつったように笑い始めた。

自暴自棄に満ちた声が室内に木霊した。


なるほど……

そういう事か……

これは、もうごまかしは効かないぞという警告

心に足枷あしかせをはめられてしまったのだ。

自分はこれからこの写真を見るたびに

見えない敵に怯えながら

罪の意識にさいなまれ続けねばならない。


どこに逃げる事もできずに……


美月は虚ろな目で周りを見回した。

薄暗い部室が、まるで蓋の閉じたはこのように思えた。

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