上編

 「ガンジス河でバタフライ」を初めて視聴したのは、富士山8合目の山小屋・元祖室で働いていた時のことだった。6年前、2015年の夏、僕は当時26歳だった。名古屋出身のトオルという同僚が、山小屋に持ち込んだDVDのコレクションの中にそれは入っていた。外は大嵐、宿泊客は全員キャンセル、当然仕事も休みとなった。だが標高3250m、日本2位の北岳よりも高い位置にある元祖室では如何せんやることが皆無。というわけで、10畳ほどの広さの談話室に皆で集まり、DVD視聴会が始まったのであった。


 ガンジス河でバタフライは、2007年10月に放送された長澤まさみが主演のドラマだ。ストーリーのあらすじは、「ガンジス河で泳いだ」という就活で吐いた嘘を本物にするというもの。世間では美人として知られる名女優が、ゴミだらけのガンジス河を泳ぐクライマックスにかなりの衝撃を受けた事を覚えている。更に驚くべきことは、このハチャメチャなストーリーがエッセイスト・たかのてるこが実際にやった出来事、つまりノンフィクションであるということだ。日頃の娯楽が煙草と睡眠、そして下界を眺める事ぐらいしかない(嘘じゃない、本当だ)退屈な毎日に嫌気が刺していた僕にとって、下山後にガンジス河で泳ぐということが一つの希望となった。


 2ヵ月間の山小屋勤務を終え、下山した僕は名古屋に戻ると1ヶ月間スイミングスクールに毎日通った。水泳の練習をするのは高校の体育の授業の時以来、8年ぶりのことである。元々、身体の筋肉量が多く浮きにくい身体だった事もあり、通い始めて最初のうちはまるで泳げなかった。3日目に自力での泳ぎの習得は無理だと悟り、それからはプロのコーチのレッスンを受けた。30代前半、色黒で筋肉質の男性コーチで、名前を信藤といった。身長は185センチは優に超えており、173センチの僕は彼と会話すると見上げる形になってしまう。顔の彫りは深く、荒々しい野性味となんでも見通しそうな理知を兼ね備えた不思議な目をしていた。ドラマ「トリック」の頃の阿部寛が髭を剃ったらこんな感じになるのかもしれない。


 「泳ぎとは無駄な力みを捨て去る行為なんだ」と、信藤コーチは言う。「林君はどうも力が入りすぎなんだよ。だから沈む。寸劇と同じ、余計な力を抜くことでより自然に近付ける」

 幸い下山後は働いていなかったのでたっぷり時間はあった。信藤の村上春樹が書く文章ばりにわかりやすい指導と僕のダウンタウンの松本ばりの熱量もあってか、1ヶ月経った頃にはバタフライなら200m、平泳ぎならば300mは泳げる様になっていた。元々がゼロだったのだから、我ながら大したものである。


 1ヶ月間の特訓を終え、インドに行く日程を決めた後、僕は信藤をディナーに誘った。彼は快諾してくれた。約束の日、大須観音に17時に待ち合わせをし、僕は16時45分に到着した。信藤コーチはまだ来ておらず、代わりに境内の広さに似つかわしくない数の鳩の群れが気持ち良さそうに歩いていた。時間潰しの為に、僕はスマートフォンを開き、Googleで「鳩 平和」と検索した。すると鳩が平和の象徴とされるのは、旧約聖書のノアの箱舟が由来となっていることがわかった。地上の生物を飲み込んだ大洪水から47日後、ノアは周囲の様子を見るために鳩を放ったところ、オリーブの枝を咥えて戻ってきた。これによりノアは水が引き始め、神々の怒りが静まったことを知った。ここから、鳩は神と人間の和解、そして平和の象徴となったそうだ。その他にも温和な気質や旺盛な繁殖力・生命力を持っていることも平和の象徴たる理由らしい。


繁殖。


 この字面を見たとき、僕は悪寒がした。頭のてっぺんから爪先まで、ありとあらゆる毛穴からドロドロとした黒い油が出た様な錯覚を覚えた。右手に持ったスマートフォンの電源を一度落とす。

「ごめん林君、待たせたね」電源を切った数秒後、信藤がやってきた。時間は16時55分。きっちり5分前行動である。


 合流後、僕らは大須商店街の中にあるピッツァ専門店「チェザリ」へと向かった。信藤は黒色で無地のピッチりした半袖Tシャツと少しゆったりめのジーパン、そして黒と白のコンバースの靴を履いていた。服越しにでもわかる雄弁な胸板や日本人離れした身長、そして健康的に焼けた黒い肌と短く刈り上げられた頭髪はベテランの職業軍人を僕に連想させた。入店後、我々は案内された白い丸テーブルに向かい合わせに座った。店内は薄暗く、EDMが程よい音量で流れている。店員を呼び、水牛モッツァレラのマルゲリータ、白のスパークリングワインをそれぞれ2人分注文した。


 「実は信藤さんには黙っていたんだけど、俺さ1週間後にインドに行こうと思っているんだ」2人ともピッツァを食べ終わった後、僕は彼にそう告げた。フロアにはフロー・ライダーのGood Feelingが静かに鳴り響く。信藤はにやりと笑う。

「どうした林君?女にでも振られたのか?まあ、毎日泳ぎに来るような無職ニートじゃしゃーないな」

「待ってくれ、女じゃない」

「じゃあ、男なのか?」

「今のところ、まだ男を愛した事はないな。期待に沿えないて悪いけど」

「となると……ジョージ・ハリスンに影響でも受けて、タブラやシタールを習いに行くんかね?」

「ビートルズは確かに好きだけど、そんな高尚な理由でもない。というか、そもそも楽器弾けないし……信藤さん、ガンジス河でバタフライって知っているか?」

「あー知ってる。長澤まさみが主役のドラマだろ?メーテレの企画だったし、俺も観たよ。……って、まさか?」

「そう、そのまさかだよ」

 信藤は笑い出した。酒の影響もあるのだろうけど、まるで「七人の侍」に出てくる菊千代を思わせる豪快な笑い方だった。ひとりきり笑った後、彼は謝罪した。

「大笑いしてごめんって。あー、だから泳ぎのレッスンを受けていたのか?」

「まあ・・・ね」

「なるほどなるほど」

信藤は右手を顎にやるとそのまま10秒黙り込んだ。彼の頭の中で伝えるべき言葉を整理している様に思えた。

「どうしてまたガンジス河で泳ごうなんて奇行を決断したの?ハタチそこそこならまだしも、林君くらいのいい歳した大人がドラマ観たくらいで......あっ、もしかして、長澤まさみの聖地巡礼とか?」

「聖地巡礼じゃないな。んー、1つは富士山の山小屋生活が退屈過ぎてその反動。あとは……」


 ここまで言うと僕は黙り込んでしまった。ガンジス河で泳ごうと思ったもう一つの理由……誰にも話したことのないものだったし、それを語ることで自分という存在がとても酷く損なわれてしまう様な気がしたからだ。

「話したくないのなら構わないよ。野暮なこと聞いてすまんかったわ」

 その後、信藤は理由については尋ねることはしなかった。僕としても、答えなくて済んでとても助かった。信藤はインドへ行ったことは無かったが、海外旅行の経験が3度あり、様々な入れ知恵を授かった。それらの中でも個人的に印象深いアドバイスは「パスポートを無くすな」であった。彼曰く、パスポートとは海外における自分の存在証明であり、これが無いと本当に苦労するらしい。


 2時間ほど話し込んだ後、僕らはチェザリを出た。行きとは逆に大津通り方向、上前津駅へと向かった。途中、大きな招き猫がある広場を通った。そこには喫煙所があり、僕らは足を止めて煙草に火をつけた。僕はKOOL、信藤は赤のマルボロだった。10月になったばかりで過ごしやすい気温。時刻も20時を過ぎており、広場脇で段ボールを敷いて眠り込んでいる壮年のホームレス以外、周りには誰も居なかった。


 「子どもを堕ろしたことがあるんだ。19歳の頃、石川に住んでいた時にね」


 酒のせいなのか、それとも近くに誰も聞き耳を立てている人間が居なかったせいなのか。僕はチェザリで信藤に話しそびれた、ガンジス河へ行く理由をポロっと漏らしてしまった。それは何の前触れもなく急に飛び出てきた。まるで田舎道を自動車で走っている時に突っ込んでくる野生の鹿のように。唐突に。無意識に。不用心に。そして、一度話し出すと滾々と溢れ出てくる話したいという欲求を押し留めることはもう不可能だった。

「当時は大学生だったし、とてもじゃないが彼女とその子どもを養う余裕は無かった。彼女は子どもを産みたがっていたが、俺と同学年だったし、将来は学校の先生になる夢があった。結局、俺や相手方の両親に説得されて堕胎することに決まった」

 信藤は何も言わなかった。僕は気まずさ故に彼の顔を見ることが出来なかったが、彼がしっかりと自分の話に耳を傾けている感覚はあった。僕は煙草の煙を深く肺に入れて、それ以上に深く吐き出した後、話を続ける。


「中絶した後、彼女・・・メイって名前なんだけど、メイは1ヵ月昏睡状態だった。手術は成功して身体的には生命に別状は無かったんだが、彼女は何故かずっと目を覚まさなかった。何かの間違いで毒リンゴを食べてしまった白雪姫の様にこんこんと眠り続けていた。当然、そうなった原因は俺にはわからかったし、医者も首を傾げるだけだった。こうなった以上、向こうの両親もひどくご立腹でね。まあ、自分の娘を傷物にした挙句、ずっと目覚めないとなるとそりゃ仕方がない。ある日、俺はメイの父親の家に呼び出され、ボコボコに殴られた。体格こそそんなに良くは無かったけど、親父さんのパンチは一発一発痺れたよ。最後の方でゴルフの1番ドライバーを取り出された時はさすがに死ぬかと思ったな。幸いヘッドの部分は俺に当たらなかった。もし当たっていたら、まあここには居ないだろうな。その時リナの父親は、俺がこれ以上あの子と接触することを厳禁とした。当然、俺はそれを吞めなかった。2週間ほど毎日彼女の家に謝罪に行ったが門前払いだったな。そうこうしているうちにメイは永い眠りから目覚めた」


 気が付くと、右手に持っている煙草の火が消えていた。それを吸い殻入れに捨て、右ポケットにしまっていたKOOLの箱から新しいものを取り出し、火を着けた。

「30日の眠りから目覚めたメイは今までの彼女とは違っていた。見た目こそ幾分か痩せた程度だったのだけれども、その眼には俺に対する憎しみと拒絶がハッキリと見て取れた。相手方の両親の目を搔い潜って見舞いに来た俺に対しても、彼女は俺と一切の言葉を交わそうとはしなかった。担当医や看護師とは明るく話していたらしいから失語症という訳じゃあない。驚いたよ、俺は。人はこんなに変わるものなのだという事実にさ。そして、拒絶は俺だけに対するものでは無く、彼女自身の両親にも同様だったらしい。メイは退院すると同時に大学を辞め、両親の元からも去った。退学と同時に携帯電話も解約して、地元の誰もメイと連絡を取ることが出来なかった」一区切りを付けて横目で信藤を見ると、ちょうど新しい煙草を口にくわえた所だった。彼の着火を確認した後、僕は話を再開する。

「それから半年後、俺の下宿先に一通の手紙が届いた。消えたメイからだった。全部で20枚、その内容を一期一句間違えずに言える様になるくらい、俺は何度も何度も手紙を読み返した」

「まさかここで全部言うつもりじゃないだろうな?」と、ここまで黙っていた信藤が口を開く。

「言ってやろうか?」

「いや、勘弁してくれ」

「わかったよ。簡単に話すと、メイは1ヶ月の眠りの中で生まれるはずだった子どもと一緒に過ごしていたらしい」

「今流行りの異世界転生?」

「まさか!そんなファンタジーなものじゃない……手紙によると、メイが居たのは四方真っ白な壁に囲まれていた部屋の中だった。六畳ほどの広さで、対面上にある2つの壁にはそれぞれ一つずつ大きな窓がついていた。窓から見える外の世界は室内と同じくらい真っ白な地面が広がっていて、その先には同じくらい真っ白な地平線が拡がっていた。空模様だけは現実のそれと変わらない。日が昇り、沈む。ある時は雨が降り、またある時は満天の夜空に星が綺麗に広がっていた。そんな世界でメイは男の新生児をその部屋で世話していた。彼女には、この子が自分が中絶した胎児ということが直感で分かっていた。だから、精一杯育て上げた。現実で昏睡した時間は一ヶ月だったけれど、夢の世界では10年が経過していたらしい。だがある時、夢の中で成長した男の子は殺された。ハンマーで純白の壁を破壊し、2人だけの優しい世界に入り込んだ暴力的な3人組によってな」

「3人組...」と、信藤は呟く。一瞬の沈黙の後、彼はあっと声を上げる。

「もしかして・・・その3人組が林君とメイちゃんの両親ってことか」まるで1+1=2を答える様にあっさりと正解を出してくる信藤コーチに対して、畏敬の念を払わずには居られなかった。


「その通り。その3人…つまり夢の中の俺らは、壁を破壊したハンマーで10歳の子どもを撲殺した。何度も何度も…殴った。真っ白な部屋は流血で真っ赤に染め上げられた。会話が出来るようになった息子は当然この不条理に言語的な抗議をしたし、肉体的な抵抗もした。が、夢の中の俺らは彼が叫んでも泣いても殴ることを止めなかった。その間メイは全身金縛りに合い、その蛮行を止められずにいた。目を瞑ろうにもなぜか瞼を降ろせない。いっその事、舌を噛み切ろうにも身体は動かない。ただ10年間大事に育てた息子が物言わぬ肉の塊に変わるのを、棒立ちしたまま見続ける事しか出来なかった」


ここまで話し切って、煙草を吸う。吐いた煙を眺めるとどこか僕の事を嘲り笑っている様に見えた。


「それはこの世で最もおぞましい暴力の形だ。俺ならいっそ死んでしまいたいと思うだろうな。が、息子の息が止まると同時にメイの意識は現実に戻ってきた」


2本目の煙草を地面に押し付けて消した。吸い殻入れに捨てる。

「だから、メイちゃんは君らの元から離れたんだね。例え夢の中とは言え……その言いにくいんだけど、君らに息子を殺されたから」と、信藤は言った。

「夢の中だけじゃない。現実でも殺した」信藤は黙り込んだ。僕は3本目の煙草に火を着ける。

「差出人の住所は書いていなかった。結局手紙もその一通だけだったし、俺は俺で大学を中退した後は石川から愛知に引っ越してしまったからな。例え、今送ってきたとしても、もう届くことは絶対にない。絶対に。だから、もうあの子の心理はもう2度とわからない。2度とね」

「君はその……罪滅ぼしの為に泳ぐというのか?」

「まあね。あれからのうのうと生きていたけど、どこかで贖罪しないといけないと思っていた。そんな時、富士山の山小屋で観たのがガンジス河でバタフライだった。『これだっ』って、俺は思ったね。天啓があるとするならこういう感じなんだろう。汚濁の河を泳ぎ切ること。これがあの子らに対する償いになると直感した。どうしてそうなるのかってことに関しては、上手く説明出来ないんだけどさ」

信藤が右手で2度、僕の肩を優しく叩いた。それは励ましの様に思えた。

「話してくれてありがとう」

「とんでもない。聞いてくれてありがとう。中絶の話は今まで両親以外に誰にもしたことなかった。手紙の内容は信藤さんにしか話していない」

「インドは広く深い、気をつけるんだぞ」

「もちろん」

「そして……」信藤は一呼吸を置く。

「インドから戻ってきたらまた飲もう」

気が付くと、僕が右手に持っていた3本目のKOOLも火が消えていた。

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ガンジス川に沈む赤子 日高 隆治(ひだりゅー) @r-hidaka

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