ガンジス川に沈む赤子

日高 隆治(ひだりゅー)

下編

 大須でのディナーから8日後、僕はインド北部のバラナシを流れるガンジス河のほとり「マニカルニカー・ガード」に立っていた。空は晴天で気温も泳ぐにはちょうど良いくらいに思えた。

 

 ガードとはガンジス河で沐浴をするために設けられた河岸にある階段状の施設で、バラナシには80以上のガートが存在する。マニカルニカー・ガードは、それらの中でもかなり異質な存在として知られている。なぜならば、マニカルニカー・ガードには火葬場があるからだ。ここで燃やされ灰と化した遺体はガンジス河に流され、永遠の命を得る事が出来ると現地では信じられている。遺体は日本と違い、青空の下、公衆から見えるところで堂々と焼かれることとなる。当然、観光客もそれを目にすることが出来るし、現に僕もそれらを遠巻きに見ていた。中には火力不足の為に足だけ生焼けになった遺体もあった。火葬人は足だけになった生焼けの遺体もお構いなしに河に投げ入れていた。その光景に驚いた僕は現地の中年男性を捕まえて、慣れない英語で質問した。

「あれさ、足焼けてないけど、河に投げて大丈夫なの?」

「あー別に大丈夫だよ。多分、金が無かったから死体を焼くのに充分な薪が買えなかったんだ。ここではよくあることさ。中国人の兄ちゃん、あれを見ろ」

と、男はガードから50mほど離れた河面を指差した。その先には、白い布で巻き付けられた塊が浮き沈みしながらプカプカと流れていた。

「なんだいあれは?」と、僕。

「ありゃあ、子供の死体さ」僕は心臓が止まりそうなくらいギョッとした。子どもの死体……その言葉は僕の精神に鋭いナイフのような冷たさを感じさせた。男は困惑する僕に構わず話を続ける。

「この地では子供の死体は焼かずにガンガーに流すのがしきたりなんだ。もう一度生まれてくることが出来るようにって願いを込めてね」

ここまで言うと男は右の掌を僕に向けた。

「子どもの水葬も話したんだ。中国人の兄ちゃんよ、チップくれ」

やれやれ。僕は強欲な案内人にチップとして50ルピー札を手渡した。渡す際、僕は一言言った。

「教えてくれてありがとう。でも、俺は中国人じゃなくて日本人だよ」

インド人の男は興味の無さそうな表情で数秒間、僕の顔を見つめた後、踵を返しそのまま立ち去っていった。



 男と別れるとマニカルニカー・ガードに腰掛け、河を眺める。ドラマ同様、広大かつ神聖、そして汚濁の大河であった。僕は川岸に体育座りして、ポケットから現地の煙草を取り出して火を着ける。ピースよりタールが多いのか口に合わなかった。苦い。煙草を右手に持ちながら、また水面を眺める。赤や青などの色の多種多様なプラスチック製品や破損した木片、見たことのない鮮やかな色の果物など様々なものが捨てられ、そして浮かんでいた。先ほどの白い布に巻かれた塊はもう見えなくなってしまっていた。河からはヘドロの様な悪臭もする。多くの現地民はガードで沐浴をしている。が、泳いでいる人間はまるで居なかった。長澤まさみ、たかのてるこは本当にここで泳いだのか。立ち上がりいざ飛び込もうとするも足が竦んでしまう。そのまま15分ほど河岸に立ったり座ったりを繰り返していると、背後から英語で声を掛けられた。

「若いお方、沐浴をしにきたのですか?」


 声の主は年老いた修行僧風の男性であった。彼は160センチに満たないくらいの背丈でとても痩せており、そして健康そうに浅黒く日焼けしていた。上半身は裸だが、下半身にはバラナシには似つかわしくない白くて綺麗な腰巻きを纏っていた。サドゥーと呼ばれる世俗を捨て放浪するヒンドゥー教の修行者がこの地にいることは、事前の調査で僕は知っていた。身なりや落ち着いた話し方からすると、おそらく彼もサドゥーなのだろうと、僕は考えた。

「沐浴では無いですね。えーっと、泳ぎに来たんです」拙い英語で僕は返答する。伝わるかどうか不安ではあったが、サドゥーの老人は内容を察してくれたらしい。

「なるほど、泳ぎに来られたのですか。海外の観光客で沐浴をする方は多いのですが、泳ぐのを目的にしている方はあまり見受けられません。なんせ、この河はいろんなものが流れていますから」

 老人はゆっくりと伝わるように話した。が、きっとそんな必要はおそらくなかったと思う。というのも、不思議なことに彼の言葉は耳ではなく心で理解することが出来た。こんな事は生まれて初めての経験であった。


「ここで泳ぐことは出来ますか?」と僕は尋ねる。

「出来ます。生活の為、ここで火葬された遺体の装飾品を素潜りで取るものは多いです。また中には向こう岸まで泳ぎ切る者もおります」そう言うとサドゥーは河の向こう岸を指差した。ガードの対岸は大きな砂浜となっていた。対岸まで目視で300mぐらいだろうか?確かに泳ぎ切ろうと思えば、今の僕なら泳げるぐらいの幅である。


 しばらく考えた後、僕は服を脱いだ。色黒な人が多いインドで、僕の肌はあまりにも白すぎた。僕が上半身裸でハーフパンツ一丁になると、周囲から好奇心の眼差しが向けられているのがわかった。信藤コーチの教えに従い、パスポートは防水シートの中に収め、肌身離さぬようシートの穴に紐を通して首にネックレス状にしてぶら下げた。

「向こう岸まで泳ぐつもりなのですか?」サドゥーが問いかけてきた。僕は頷く。

「それが僕の罰だから」

「punishment……」

サドゥーは微笑みながら頷くと、右手で2度、僕の肩を優しく叩いた。それは古のまじないの様に思えた。

「グッドラック」

サドゥーの言葉を聞くと、僕は彼を振り返らずに水面に飛び込んだ。


 最初は長澤まさみよろしくバタフライで泳ぎ切ろうとしたのだが、見た目以上に河の流れが速い。また漂流するゴミが手や足に当たりケガをする恐れがあったので、岸から20m進んだところで平泳ぎに切り替えた。

「泳ぎとは無駄な力みを捨て去る行為なんだ」

岸から50mのところで、信藤の教えが脳内に反響する。平泳ぎは本能に根付いた世界最古の水泳法とだけあって、力みを自然と排除することが出来た。あいかわらず水は汚いし、身体にゴミがよく当たるが、泳ぐことに集中することが出来た。僕は力みを捨て、心を捨て、食品工場のベルトコンベアーの様に規則的かつ機械的に手足を動かし続けた。無心で水をかき分けていき、気が付くと河の中間点まで泳いでいた。「よしっ、これなら向こう岸まで行ける」と、僕がそう思ったときだった。


 水中を蹴った左脚に柔らかい感触があった。ゴミと思ったが、それは今までのものと違い、脛の辺りに絡みついて離れなかった。このままでは泳ぎの支障になると判断し、僕は一旦立ち泳ぎに切り替え、脚を水中でバタバタさせてみた。が、それでもなお異物はくっついたままであった。仕方がないので、左手で脚についたものを掴み、水面まで引き上げた。僕は呼吸が止まった。


 掴んでいたのは赤ん坊の屍体だった。


 反射的に僕は赤ん坊を下流に向かい、全力で放り投げた。5mほど先でドポンと重い音が聞こえる。その音を確認すると、僕は逃げるようにマニカルニカー・ガードへと引き返した。それは死のメタファーだった。

   

 先程流れていた赤ん坊なのだろうか……わからない。怖い怖い怖い。こんな日本から離れたところで惨めに死にたくない。早く岸に戻らなければ……


 逃走には名古屋でほとんど練習しなかったクロールを使った。習熟度の低さとパニックにより、ガンガーの水を大量に飲み込んだ。何度も何度も何度も。が、それを汚いとさえ思わなかった。いや、思えなかった。というより、思う余裕がまるで無かった。それくらい僕は必死だったのだ。


 マニカルニカー・ガードの岸に着くと僕は嘔吐した。吐き出したものはほとんど水だった。3回目の嘔吐で少しだけホテルの朝食に出てきたナンが出てきた。僕の醜態を見かねたのか先ほどのサドゥーが近寄ってきた。

「お辛いのはわかりますが、一度この場を離れましょう。あまりにも注目を浴びすぎています」

サドゥーに従い、疲れた身体を引きずって歩いた。上着のシャツと靴はもう誰かが持ち去ったのか、どこかに消えてしまっていた。


 ガードから200mほど川伝いを歩くと、人気の少ないところに出た。サドゥーは河を正面にして座った。僕は更にもう1回吐いた後、彼の左隣に座った。胃液が逆流したためか、喉がヒリヒリと痛んだ。


「河の半分を泳ぎ切った所で、赤ん坊の死体が足に抱き着いてきたんです」呼吸が落ち着いた僕はサドゥーに先ほど体験した事を説明した。

「それを見た瞬間怖くなったんです。もちろん赤ん坊の死体も視覚的に恐ろしいのですが、それ以上にあの遺体は何か不吉な兆しに思えたのです。ちょうど旧約聖書でソドムから逃げ出すロトが神々から受けた、絶対に振り返るなという警告の様に」

 老人は少し考えた後、語り出した。

「質問ですが、あなたはガンガーに飛び込む前、泳ぐ理由は罰だからと述べました。これは本当ですか?」

「はい」

「オーケー。ならば、あなたにしがみ付いた遺体ですが、それはあなたが忘れようとした…いや、捨て去ろうとしたものだと私は思います。若いお方よ、あなたは贖罪をすることで、無意識とはいえ罪そのものを捨て去ろうとしたのです」

「違います。罪を捨て去るつもりなんてありません」

「捨て去るという表現が不味かったかもしれませんね。忘れ去ろうとしたかったのではないでしょうか?つまり、ここバラナシで罰は受けるのだから、故郷では罪について思い悩みたくないという事です」

そう言われ、僕はハッとした。サドゥーは続ける。

「良いですか?本当の贖罪とは決して忘れないという事だと思うのです。確かにそれは難しいことかもしれません。何より多くの場合、その記憶はあなたを傷つける刃となりえるでしょう。とは言えど、時にはそれらの過去があなたを救うことがあるのです。まさに今回がそのケースと言えるでしょう」


 僕はこの言葉を聞いて驚いた。

「あの赤子が俺を救ったってことですか?いや、違う。そんなはずは無いんだ!あれは俺を殺そうとしたんだ。あの子はかつて俺が殺してしまったメイとの間に出来た子どもなんだ。きっと俺を恨んで……」慌てて捲し立てる僕に、老人は右手の人差し指を立てて静止させた。そして、その指を向こう岸に向けた。

「実は言っていなかったのですが、あの対岸の砂浜、死者の魂が集まる呪われた土地なのですよ。そして、当然あの地に降り立つ者には災いが訪れます」

「の、呪われた土地…なんでガードで引き留めてくれなかったんですか?」

「あなたには一度死よりも恐ろしい苦痛を引き受けるべきだと思ったからです。あなたは罪の償いと称して色んなものを捨て、あたかも何も無かったかのように過ごそうとしている。私にはその態度がどうしても許せなかった。が、あの赤ん坊は違いました。死した後、あなたを赦し、そして呪いから救おうとしたのです」

 ここまで言い切るとサドゥーは立ち上がった。

「なんにせよ贖罪の旅はここで終わりです。おめでとうございます」

 右肩をポンポンと叩かれる感触を感じ、振り向くと老人の姿は消えていた。まるで最初から誰も居なかったかの様な無がそこにはあった。


 しばしの静寂の後、僕は思い出したように首元を確認するもパスポートは防水シートごと消えていた。赤ん坊を放り投げた時、もしくは必死に岸に戻ろうと藻掻いていた時に落としてしまったのだろう。


「パスポートとは海外における自分の存在証明」


 信藤コーチの忠告を思い出すが、不思議と絶望感は無かった。なるようになっちまったのさ。どこからかバサバサと音が聞える。音の方に視線を移すと2メートルほど離れたところで白い鳩が大空に飛び立つところであった。


「やれやれ、俺はガンジス河でとうとう自分までも捨ててしまった」


たった一人残された僕は、飛び立つ鳩をただ見届ける事しか出来なかった。

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