所在

前ならえ! 大きなそのよく通る声は俺の鼓膜をやぶかんばかりに響き渡り、何十人といる生徒どもの両腕を地面と並行にさせる。ちょっと並行でない者どもは「そこ、ちゃんと」と声かけられ、整列へと導かれる。俺は、俺の意志でこの声に従っているのだろうか。子供心に疑ったのを覚えている。

前ならえ、気をつけ、休め、の号令に従っていればよかった大昔は大層気楽なものだった。気をつけの姿勢も休めの姿勢も、その正解の形はあのよく通る声が教えてくれた。そうして俺は完璧にそれをやってのけた。優秀で、何でもそつなくこなす生徒であり、よく褒められたものだ。

それの何が悪いって言うんだろう。こういう文脈で何かが卑下される時、型破りであることを強制されているような気にもなる。「型破りであれ」と命令されたなら、俺はそれをやり遂げるだろう。そして事実昨今の生活に響き渡る声はそう命令しているように感じられる。

だから俺は型破りであった。小学生の頃と打って変わって逸脱、奔放に自由な発想で授業に取り組み、私語厳禁、しかし先生には突飛な質問をしクラスの失笑を買う。その授業後にさらに直接教師の元へ行き、やはり深掘りしたり、クラスメイトがなぜ笑うのか問いただしたり、美術の時間には絵の具をカッターで切り崩しながら画用紙にぶちまけてみたり、文化祭では前例の無いロックフェスを主催したりした。

「型破りであれ」と世間は言う。なるほど型破りであるのは造作もないことだった。で、何? 何を求めてこうあれと命令したんだ? 俺は今、型破りな行動の成果にそれ相応の成功か失敗を両腕に抱え、そつなく就職し、こう、働いている。それで? まあ楽しかったとは思うよ。少なくとも何もしないよりは多分そうだ。それで何なんだ? それ自体が何を産んだ?

気をつけ! 今でもそう言われれば俺は反射的に気をつけの姿勢になれるだろう。あるいは命令を思い出して、両腕を故意にぐわんぐわん回しながら膝を曲げ、脚を閉じたり開いたりするだろう。どちらにしても同じことだ、そこに俺は居ないのだ。

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