点O

「若いうちは無理が利くもんだ。」


 世間から仲間外れにされている気分になる。

 22時から7時まできっちり睡眠、欠かしてみようもんなら1日が1分1秒からばらばらになって使い物にならない。まるで自分の身体みたいだ。毎日きっかり7:30、12:30、19:00の食事も野菜はしっかり緑のと赤いのと彩り、もちろんお肉とかもしっかり考えて摂って菓子は控える、とはいえ甘いもんやしょっぱいもんは身体に合わず食べると気分悪くなるから控えるのは苦じゃない。高校へは運動になるようわざわざ徒歩で通学。あと漢方とか飲んで身体の中のなんか詳しく知らない氣とかを整えてやっとまぁベッドから起き上がれる。私は生まれつき身体が弱い。無理は利きようもない。


 私は塾に通っている。

 努力でどうしようもないことは確かにある。


 今日も22時にベッドに入り目を瞑るだろう。15分以内には皮膚なんかいう薄い膜は役割を果たさなくなる。不自由な身体はどっかいく、どこにもなくなる、時間もなくなる。手で三角を作ったり脚を組んだり数学を解いたりがぜんぜん役に立たない地平は途方もなく延びる。心地良い。


 私は塾に通っていて、先生が一対一で勉強をみてくれる。個別指導だ。私の受けている科目は数学で、O先生という20代前半くらいの先生が担当。土曜日の午後14時から15時まで、そのO先生は数学のIIBを教えてくれる。

 私は数学が苦手だ。身体が弱いのとは関係ない、いや、あるのかもしれない。文字と数字と記号1つ1つがばらばらになって使い物にならない。力が抜ける。特に試験でぐちゃぐちゃに散らばる記号が0点を取らせんとする勢いなのを見かねた両親が入塾を決めたのである。身体がどうしようもなくても頭がマシならフェアだ。しかし脳みそも身体の一部だっていうか脳みそが身体を動かしてんだから身体がポンコツなら当然脳みそもポンコツなのさ、みたいな屁理屈捏ね野郎が私を造ったんだろう。

 塾に通えるのは私の努力じゃない。親の金だ。


 塾での授業は一対一だが完全な個室を使えるわけじゃない。大きな教室に大きな机が3台くらいあり、それぞれがパーテーションでいくつかに区切られている。その区切られたスペースの一つ一つで個別に授業が行われている形だ。

 O先生は今年の春大学2年生になったらしい。去年の冬に私がこの塾に来てからずっと担当してもらっているので7ヶ月くらいの付き合いになる。


 これからするのはその去年の冬、私が塾に通い始めて間もなく、授業を5回も受けていない頃の思い出話だ。

 少し暖房が効きすぎた教室の一角で土曜日14時からの授業が始まった。授業は私が問題を解きつまづいたところを解説してもらう流れで、つまり私が手を動かさない限りは進まない。正直眠かった。O先生と私は横並びに机へ向かい座っている。O先生が私の左側にいるのは右利きの私がノートに問題を解くとき邪魔にならないようにするためだ。区切られた他のスペースで行われる授業の声が聞こえてくる。土曜、14時の教室はそんなに埋まっていない。余計に眠気を誘う。まだ一問目までしか進んでない。


 左隣にいるO先生を横目に見る。当時すでに数回の授業を通してO先生とそこそこ打ち解けていたが、その時の私は暖房の熱にあてられたのか少し気が立っていた。眠気覚ましにシャーペンを振りながら、

「先生は数学好きなんすか」と訊いた。続けて、

「数学好きじゃない人の気持ちわかります?」と言う。

 O先生は先生とはいえ大学生で、学校の先生とは違うのは分かってたけど、その日はわざとそれを無視してO先生を先生として扱いたい心持だった。だから最後に「先生は先生だからわかんないんじゃないすか」と付け加えた。


 O先生はこちらを眺めて、

「まー嫌いというか好きというか、やってたら楽しいけどできるから楽しいだけで好きか嫌いかで考えたことないね。たぶんできなかったら楽しくないだろうし、たまたま向いてるだけかな。数学に」

 と大層な自然さで応えてくれた。もう散々他の生徒にも尋ねられてきたのであろう、舌足らずな喋り方のわりにすらりとした回答だった。そしてO先生は重ねて言った。

「私は数学嫌いじゃないけど好きでもないから、気持ちわかるっちゃわかるけどわかんないっちゃわかんないね。てかあれ、君数学嫌い?」

 私は少し考えた。数学。解けない、好きじゃない、嫌い、どうだろう。目を泳がせているとO先生が更に口を開く。

「うーんなんかさぁ君はそんな数学嫌いってかんじじゃないよね、ついてけないってだけでさぁ。や、ただの私の印象ね」

 O先生はごく柔らかに笑い、私の反応をすこし待った。シャーペンを揺らしていない自分の手に気がついて、私ははにかんだ。なにを求めて質問したんだったかわからなくなった。


 このやりとりがなんとなく私の原点になっている気がする。


 その後はいつもどおり数学の問題を解いて、わからないところを教えてもらったり、教えたり(生徒が自分で解き方を説明することで学習の定着をはかるやつらしい)した。

 長い夢を見ているようだった。


 3日後くらいにO先生は交通事故に遭った。

 といっても歩いてるところに自転車とぶつかっただけで、しかし当たりどころが悪く右足を骨折したのだそうだ。O先生はしばらく入院し、その間は別の先生が私の数学を担当した。作り物のように滑舌の良い先生だった。

 その先生にO先生の話を振ると、

「若いんだし大丈夫だよ」

 と、カラッとした返答がきた。

 数学ができる人の理屈だ、と思った。

 まぁ意外と悪くないよな。


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