目を隠す世界

 人と目を合わせてはいけない。人に目を見せてはいけない。人の目を見てはいけない。この社会の不文律だ。


 その社会の中でずっとちっぽけな僕は黒いアイベルトをした彼女の目が見たくて仕方がない。彼女の髪の毛に紛れ込みそうなそれを、その繊維を掻き分けて外してしまいたい。こんな卑劣な欲求を、ずっと前、初めて彼女に出会ってから一遍も忘れることなく抱いている。


 僕は喫茶店でアルバイトしている。僕らの目には強すぎる日差しを遮るためのカーテンに覆われた古き良き喫茶店。それでも室内でアイベルトを外さないのは、暖房が効いていても服を脱がないのと同じことだ。当然だ、今更言うまでもない。だがどうだろう、もし、もしも僕らの目が、文字通り刺し込むような光の棘を適切に絞れるような機構を備えていたら?空想してしまう。誰もがアイベルトを外し、前髪を切り、その濡れた瞳を曝け出している世界を。16歳、高校生、仕方ないだろう。って勘違いしないでほしい。僕は純粋に、単純に、生物の不思議について考えてるだけだ。


 とはいえ誤魔化せない欲求は先ほど述べたばかりで、今日も窓側の一人席に座る彼女の濡れた黒髪を眺めてる。彼女の目はどんな形をしてるんだろう、なんて卑猥な。本当に嫌になる。僕は頼まれたコーヒーを運ぶ。


「お待たせしました」

 と僕は、前髪をできる限り前に垂らしながらコーヒーカップをテーブルの上に置く。かちゃりと笑うような音がして、彼女が笑ってこちらに顔を向けていることに気がついた。

「ありがとう。いつもコーヒー、美味しくいただいてるわ。」と、彼女の上げた口角が空想を蘇らせる。

「あっいえ、」と僕はあわてて、それを隠すように「こちらサービスです」

 とジャムクッキーの乗った小皿をテーブルに載せた。この店では常連客にこうした「気持ち」を届ける。

 すると彼女が、アイベルトに隠れていない額の中央で、すこし眉をひそませたのがわかった。「あら、ごめんなさい」彼女は言う。「私、甘いのは苦手なのよ」

「そうなんですか」僕は甘いものはみんな好きだろうと思っていた。僕は恥じた。別に僕が気持ちを贈ってるわけじゃないけど彼女の喜ぶ顔を勝手に想像していた。

 僕はとにかく「失礼いたしました」と口走って、皿に冷たく乾かされた店の気持ちをどうしようか、というところで彼女は明快に、「いいのよ、お店の皆さんで召し上がって。」と微笑んだ。適度に締め付けをもったアイベルトから彼女の瞼の形がやさしく湾曲するのが見えない。コーヒーの香りがする。

 その健全な微笑の奥で僕がなにを考えたか、今更言うまでもない。


 最近はコーヒーを淹れるだけで、前髪を掻き上げたいような気持ちになる。店の奥にクッキーを持ち戻る。これを僕以外に食べさせる気になれない。かといって僕が食べるのも罪な気がする。

 僕は裏口に出た。視界が白に覆われる。アイベルトの調整が上手くいってないな。少し前髪を多めに下す。野犬がゴミを漁るのをやめて、こちらに向かってくるのが聞こえた。たぶん匂いをかぎつけたんだろう。甘い匂い。


「ほら、うまいか?」がつがつといい食いっぷりが耳に障る。犬、猫、クジャク、なんでもいい、人間以外の生物、彼らはなぜ器用に、適度な光を受け取れるんだろう。いや逆だ、なぜ人間だけが、この不便で不完全な目を授けられたのか。いや別に、神様を信じてるわけじゃないけど、とにかくみんなはシャーペンと紙を持ってるのに人間だけ木の棒で地面に板書とってるみたいなもんじゃないか。違うかな?


 僕は店に戻る。どうせみんな大して僕のことなんて聞いていないし嗅いでもない。抜け出したのはバレてなかった。

 カウンター越しに彼女の飲んでいるコーヒーが香った気がした。


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