土鳩のシャボン

 盆も正月も実家に帰らないまま2月になった。というか僕には実家が無い。去年まで父と二人で住んでいたアパートは引き払って、父は単身、引っ越した。

 両親は親戚付き合いをあまりしない。祖父母の顔も、僕にははっきりと思い出せない。母方のとは会った記憶もない。


 母とはもともと連絡がつかない。いつから別居していたのか、いつ離婚したのかわからない。

 悲しいわけではない、ただこうなっているだけだ。

 母が仕事へ行くのをシャボン玉を吹きながら見送る光景だけは覚えている。アパートの二階から、いってらっしゃい、で満ちた薄味の虹色が膨らみ、彼女の後姿を透かしている。それは浮かばずに弾けてしまった。




 大学に入ってからすっかり人付き合いが苦手になった。もともと苦手なのだが、人付き合いをしなくても済む環境に身を置きはじめたせいで最低限すら忘れていった。いつ相槌を打つのか、いつ笑うのか、わからなくなってしまった。まったく透明なものをなんとか見ようとするときみたいに目を凝らすのだが、すぐに疲れる。人々が迫るのを怖がるようになってしまった。人々へ迫るのを恐れるようになってしまった。遺伝かもしれないな。


 大学でできた友達とは、初めての長い長い夏休みを挟んでから疎遠になった。夏休みになにか遊びにでも誘えばよかったのだろうけど後の祭りだ。後期で取った授業は誰とも被らず、もう距離感を見失ってしまって、SNSで話しかけることも躊躇われる。気の置けない雑談とは何だったか。


 バイトはしているが大抵は一人で裏方仕事だ。バイト仲間に挨拶はするが、挨拶しかできない。時折振られる世間話に苦笑いしたり、「あぁ」とか言ったりする。案外それに救われていたりもする。でもそこまでだ。煙がもやもやと頭の中に立ち込めているみたいで、打ち返せないボールが増えた。足がすくむ。




 怖いと思うものも増えた。人、車、集団、喫茶店、尖ったもの、流行りの曲、視線、花火、長蛇の列、電話の呼び出し音、ため息、ビニールのがさがさ言う音、飛んでくるもの、混雑、人ごみ、人、玄関のチャイム、人、鳥、人、音、鳥、鳥、人、鳥、とり。




 情けないことだが鳥が怖いのだ。飛ぶし。クチバシツメ尖ってるし。フン落とすし。それなのだ、よりによって排泄物を落とすのだ。泥をかけられたことが一度あり、フンを落とされたことは二度ある。奴らは泥の二倍フンを持っている。恐ろしいことだ。



 都会にも意外に動植物がいる。って当然かもしれないが、僕はずっと、都会には虫一匹も居ないと思っていた。害虫だけは居ると思っていた。嫌な所だと思っていた。嫌な所だとは今も思っている。だがこんなに土鳩が居るならもっと嫌な所だ。



 僕の通学路には土鳩がたくさん居る。元気のない茶けた緑の街路樹と黄色く舗装された道路の隙間に、くるっぽ、っぽ、っぽ、ぽっ、と虹色の首元を携えてまぬけに歩いていたかと思うとばさばさばさっ、と突如飛び立つ。折り重なって飛び立つ。勘弁してくれ飛び立つ。目を細めても飛び立つのだ。



 恐ろしいことだ。



 今朝もそうだった。一限目の授業に遅刻しそうでも奴らは居るのだ。早足で祈っても居るのだ勘弁してくれ、足元を睨む、しかしやはりぽっぽぽばさばさばさと飛翔が和音を生んだ、思わず頭を抱える。



 おや、と思った。蹲ったままの土鳩が一羽っぽっちでいる。あちらを向いて、首のまわりをシャボン液で濡らしている。飛べないのだろうか。怪我でもしているのか。一歩、一歩、と点を辿るように、ぽつ、ぽつ、と歩いている。首のシャボン液をみらりらとさせながら。


 人の目が無いか見渡してから、僕も彼に向って、ぽつ、ぽつ、としてみた。


 僕は嫌いなのではない、怖いだけなのだ。

 ぽつ、ぽつ、彼もぽつ、ぽつ、とする、だんだんと距離が縮まっていく。ぽつ、ぽつ、ぽつ。シャボン液がうねる。ぽつ、






 ばさばさばさっ。と前触れなく彼は裏切った。


 ついついぎりっと切り詰めた視界の裏から追随して、ばさっばさばさばさばさっ、と重なるのが聞こえた。煙みたいな群れが空に集っていく。


 きリッ、と群れが進路を転換する。先頭にいるのは彼なのだろうか、きリッと彼が右へ傾ぐ。きリッと彼らが後を追う。きリッ、とまた戻り、すこし沈み、また浮かんだ。シャボン玉は十二分に膨らんで、空を透明に染めていった。


 しゅるしゅる、と風が吹いた。

 常緑樹の枝が呆けたようにしゃらしゃらとため息をつく。



 なんだよ。



 腕時計を見る。もう間に合わない。

 僕はもう一度シャボン玉を見上げた。



 どこまで膨らんでいるのかわからなかった。






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