林檎にまつわる雑多な思い出

 林檎という題名の詩を国語の授業で読んだのを覚えている。

 高校の時だったか。読んでも私にはよくわからなかった。先生が解説して中間テストにも出たはずだが、あ中学の時かなやっぱり、もしかしたら小学生の時か、いやとにかくその詩についての設問だけごっそり空白で提出したのだ。

 だが、詩に対して無感情だったわけじゃなく、むしろあの詩は好きだった。好きだったからこそよくわからなかった。いやよくわからなかったからこそ好きだったのかもしれない。





 林檎狩りに行ったことがある。

 いつ頃のことだろう。小学校に上がるより前かもしれない。林檎は大食いに向いていない。一つ食べればそれで十分だ。

 だから林檎狩り自体はそこまでうきうきしたものじゃなかったが、その後お土産に姫リンゴを大量に買ってもらったのは嬉しかった。私は姫リンゴというものをその時初めて知った。

 姫リンゴは通常より小さい種類のリンゴで、親指と人差し指で作った丸くらいの大きさで、かるぅい感覚で食べられるのだ。味がどう、というよりも見慣れた林檎が形はそのままにサイズだけ縮んだようなそれがたまらなく愛おしく、魅力的に感じられた。

 林檎狩りから帰って数日間、おやつとしてそれが出されるたびにしばらくの間食べずにじっくり眺めていたのを覚えている。





 林檎が机の上に置かれていた。

 奇妙な先生だった。これは高校の美術の時間の話だ。「今日はデッサンをしましょう」と始まり、しばらくデッサンとは何か?の講義が続くが私の頭には入ってこない。私は美術にそこまで熱心なわけじゃなかったが、それとは別に理由があった。丸々ひとつの林檎が机の上に、教卓の上に、先生の目の前に置かれていたのだ。

 誰かがいたずらで置いたのだろうか?しかし先生がそれについて触れる様子はない。あ、先生が持ってきたのだろうか。いまチョークで黒板に「光と影を見る」と書いている先生が、その授業内容をよく説明するために林檎を持ってきたのだろうか。ひょいと机上の林檎を持ち上げて「例えばこの林檎は、光がこちらから当たっており……。」と言いだすのだろうか。しかし先生の説明は光源の話から写真術だとか舞台照明だとかの方向へと脱線を繰り返し林檎に接近する様子もない。

 そうこうしているうちに「はい、では自分の手を描いてみてください」と先生は着席し、教室には鉛筆の音が響くのみとなった。嘘だろ。林檎は?と私は自分の手を確かめるふりをしながら先生を、というか林檎を眺める。するとおもむろに林檎が宙に浮かぶ。しゃく、しゃくり。充満する黒鉛の匂いにフレッシュでフルーティなスメルが混じった。先生は林檎を食べ始めた。え?お昼ご飯?その授業は昼休憩の直後、5時間目だった。あ、デザートか。デザートが休憩時間中に食べられなかったから今。え?え?しゃくしゃく。

 程なくして先生は丸々一つの林檎を完食した。私は耐えられず席を立ち、先生のところへ歩いていった。

「先生、あの」

「ん?どした」

「……鉛筆、忘れました」

「なんだ。鉛筆が無きゃなんもできないじゃないか。気を付けろよ、今日は貸してやる」

「ありがとうございます」

 先生が喋るたび煙草と林檎の気配が混じった息が吐き出される。ついに私はその香りについて言及できず、席に戻り、自分の手を観察した。

 コントラストが妙にはっきりとして見えた。





 林檎が頭にぶつかった。というよりぶつけられた。激怒した友人がそれをぶつけたのだった。

 大学祭での話だが、友人が雑貨屋のようなものを開くということで大学の教室にこもって林檎のキーホルダーを作っていたのだ。私自身は美術に疎いのだが雑用係としてその店を手伝うことにした。すると友人をキレさせることになった。

 悪いのは完全に私で、友人はレジンというのを使ってキーホルダーの小物を制作していたんだけど、そのレジンというのを固めるためのブルーライトを私が勝手に切ってしまったのだ。卓上ライトが付けっぱなしなのと同じ感覚で深く考えず処理してしまったのだ。これでは今日中に作業が終わらないじゃないかと友人は資料用に置いていた林檎を私の頭に当ててきやがった。林檎は硬い。トマト祭が許されるのはトマトがゆるゆるにやわやわだからだ。床に落ちた林檎がこしゃとすこし形を歪ませ、転がる。私は頭を摩った。

「ごめん。でも暴力は」

「うるさいバカっつーか切るなと言ったろ人の話聞けよクソがどーすんだよ間に合わなかったら」

「ごめん」

 美的センスにも知識にも欠ける私に手伝えることはなく、しかし先に帰れば友人をさらにイラつかせることになるだろう、迷った私は財布を持って売店に行き少し贅沢でお高めのアイス、ラムレーズン味を買ってきた。あの友人の好みがどれか完全に知っているのだ私は。教室へ戻る。まだ怒っているだろうか、緊張しながら。

 ドアを開き真っ先に「ごめん」と言ったのは私でなく友人だった。

「流石にやりすぎた。痛かったよな」

「いや、完全に私が悪いんだから、いいよ、これ食べて」ラムレーズン。

「え?マジで、ありがと。お前の分買った?」

「いや……」

「バカかお前マジふざけんな、買いに行くぞ」

 共用の冷凍庫にアイスを仕舞ってからまた売店へ向かう。

 今ごろは空の教室の中でブルーライトが林檎を照らしている。









「林檎」





朝に食べれば足が浮く


昼に食べれば息が保つ


夜に食べれば腹が立つ



朝から夕にかけては赤い


夕から朝にかけては青い



しかしながらも


どれも林檎だ









 林檎という題名の詩を国語の授業で読んだのを覚えている。

 読んでも私にはよくわからなかった。

 その詩を久し振りに読む機会があった。立ち読みしてた古本屋で偶然に見つけたのだ。作者の名前も忘れていたから奇跡みたいな巡り合わせだと思った。

 永らく頭の片隅に眠っていた、というよりむしろ鼻のずっと奥に詰まっていたようなその詩がまたふわりと香ってくる。喉を通り、肺を満たし、すぅと透き通って指の先まで広がる。

 私はその本を買わず、古本屋の外へ出た。

 一度大きく息を吸い、吐く。


 あぁ、やっぱり、よくわからなかったよ。

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