人間の翼
大西 憩
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胸の奥では骨の軋む音が響いていた。
俺の背中には鳥のような翼が生えている。
これは比喩表現でも何でもなく、本当に生えている。
コンクリートの箱のような部屋で俺は目が覚めた。とっ散らかったベッドから重い体を無理やり起こす。ここは俺のような異形の人間が詰め込まれている古臭いコンクリートで固められたマンションだ。
打ちっ放しのコンクリートの壁に手を這わすと、ざらついた冷たい感覚が手の平に広がった。
人目を気にして生きねばならない俺のような【突然変異】の人間たちが、逃げるように作った山頂の施設だ。
俺以外には全身にウロコの生えた者や夜に目が効きすぎる者、見た目はそこまで人間と相違ないものの"普通"の人間から普通から逸脱した者たちが暮らしている。
ホスピタリティの高い酔狂な福祉活動家がありとあらゆる山を購入し、異形の人間を詰め込む小さな福祉の町をあちこちへ作ったのだ…と、ウワサでは聞いている。
……朝起きてすぐは翼の付け根が痛む。俺は冷たいコンクリートの壁に背中を押し当て背中を冷やした。
時計を見ると朝の5時過ぎを指していた。
窓からは朝日が差し込んでいる。…夏になってから日の入りが早い。
「あ、おはよう。」
そういって、朝日を背に一人の女性が話しかけてきた。
この女性は俺のような異形ではない。
一つもおかしなところのない五体満足の"普通"人間だ。いつからだったかここに紛れ込んで、いつのまにやら俺の部屋に巣くっている。
出ていけ出ていけと毎日唱えるように言い、時には無理に押し出すこともあった。それでも彼女は数時間後になんでもない顔をして俺の部屋に帰ってくる。まるで自分の家にでも帰ってくるかのように、至極当たり前と言った表情で。
「…早いんだな。」
「そっちもね。今日は買い物でも行こうか。」
朝日がまぶしくてしばらくうまく瞼が開かない。
俺は自分の眉間を親指でぐっと押し込み、ため息を吐く。
「買い物ね。」
「もう朝のパンが無いの。あとシリアルも。」
彼女はそういってシリアルの箱を俺に見せつけ、上下に振っても音が鳴らず、
「シリアルはお前しか食わんし、先週買ったばっかだろ。」
「そう、食べきっちゃったの。」
『業務用!』と大きく表記されたシリアルの箱には、仰々しいフォントで『1キロ』と記されていた。
一体どういう配分で食べれば1週間で1キロものシリアルが食べ切れるのか。俺は疑問に思いながらも身支度を始めた。
朝の6時になる頃、俺は身支度を終え朝のコーヒーを啜っていた。
「いい翼よね。光の角度によっては黄金に輝いて見える。」
彼女は優しく俺の翼をさすりながらそう言った。彼女の手は熱かった。きっと、基礎体温が高いのだろう。
「そうか…、汚く黄ばんでいるようにしか俺には見えん。」
背もたれに背をつけるときも気を付けてゆっくりつけねば変な方向に曲がって痛いし、寝るときだってあおむけで寝れない。邪魔で邪魔で仕方がない。
「それにしても大きい翼よね。昔から?」
「いや、小さい頃は小さなコブだった。」
幼いころ俺の背中には2つのコブがあり、両親はそれをひどく気にしていた。何か知らひどい病気ではないのか、と。
医者に見せると前例のない腫瘍が心臓から繋がるように伸びているといった。太い血管が通っているため取り除くこともできない、と。
あまり刺激をしないようにとだけ忠告を受け、俺と両親は背中の腫瘍に細心の注意を払って生活をし、幼少期を過ごした。
しかし俺が13歳になる頃に背中の腫瘍は破れ、中から小さな小さな翼が生えてきた。蝶の羽化のように神々しくもなければ、生命の誕生のように仰々しくもなく、俺の翼は生えた。
背中の破れはじめたこぶが痛くて痛くて俺は両親に縋って泣いた。母は必死に俺をあやし、父は大慌てで車を出してくれた。
病院に着いたころ、コブから翼が食い出たのだろう。激しい痛みと共に俺の背中の小さなコブは完全に破れ、背中は血まみれになった。
服を脱がされ血をぬぐわれ、俺は「痛い」「助けて」と絶叫した。
父と母、そして医者は俺の背中を見て絶句し、そのまま引きずられるように俺は手術室へと運ばれた。
コブの頃同様、翼自体に太い血管が通っているため翼を切り落とすことは叶わなかった。その頃の翼は手のひらほどもない小さなもので、両親は「隠して暮らしていこう。」と、俺に言った。
両親は俺に翼があることが世間に知れるのをひどく心配し、背中にガーゼを張り付けたりガムテープで羽を固定したりした。
そうされるたびに翼の根元は軋み圧迫され、ひどく痛かったが両親に「周りに気付かれてはいけない」と強く言いつけられていたため、痛みよりも翼が露呈する恐怖が勝った。
俺はそれからというもの、必死に翼を隠して過ごした。
しかしあるとき、俺の背中の違和感に気が付いたクラスメイトに翼のことがばれてしまった。
そして、俺は両親の心配するように"普通の場所"にはいられなくなった。
いじめはなかったが、みんな俺を腫物のように扱ったり、静かに俺から距離をとった。
昨日まで友達だったのに、全員が全員、一瞬で知人となってしまったというわけだ。
「そこから翼が生えてきて、もうどうにもできなくなって。ここに来たってわけだ。」
「はーん。」
もう興味を失ったのか、彼女の視線はもうテレビに注がれていた。
異形の人間。多くもないが少なくもなかった。
この山の上にある小さな町には少なくとも30人ほどの"突然変異"した人間が住んでいた。そしてそれの半分ほど"普通"の人間も付き添うように暮らしている。
ここは町を模した福祉施設で、突然変異による異形で暮らしにくさを感じる者が集う場だ。話によれば各地に点在しており、ここと同様30人ほどの集落が各国あちこちにあるそうだ。
「ねえ、その羽根で空は飛べるの?」
彼女は無邪気な顔で聞いた。俺は次回の端にちらつく翼を邪魔だと感じながら「飛べん。」と、否定した。
彼女は首を傾げて子どものように「どうして?」と聞いた。
「鳥の構造を知らんのか。」
「こう、羽をぱたぱた~…っと。」
うすら笑いで彼女はそういって、俺の顔をうかがった。きっと俺は訝し気な顔でもしていたのだろう。彼女は俺とぱっちり目があったかと思ったらバツが悪そうにうつむき「はは…。」と困ったように笑った。
「鳥の胸の筋肉は人間とは違う、体の重さのほとんども胸筋だ。」
「骨は?」
「鳥の骨の中はほとんど空洞だ。また鳥の骨にでもかぶりついてみろ。」
俺の説明を聞いて納得したのかそうでないのか、女は「ふーん。」と言い、次は視線を手元のコーヒーに移した。
そして数秒黙っていたかと思うと「あ!」と大きな声を女は出し顔を上げた。
「すぐうんちするしね。」
「…フンな。」
彼女は「なるほどなるほど。」と満悦そうに顔をほころばせ、鼻歌を歌いだした。
「筋肉もりもりだし骨太そうだし、なんか便秘そうだし…確かに飛べないかもね。」
変に嬉しそうに彼女が言うものだから便秘…という腹の立つ言葉を無視し「…せめて空でも飛べたらよかったんだけどな。」と、俺は流すように言った。
はじめは小鳥ほどだった小さな翼が今は全長1メートルほどはある巨大な翼に成長した。そして、いくら翼のサイズが大きくなっても俺は空を飛べなかった。
日が昇ってきたころ、俺は彼女と部屋を出た。
嫌に大きく集合住宅感の強いこのマンションは廊下の日当たりが悪く、夏だというのに廊下は肌寒かった。
「ここの作りって昭和っぽいよね。」
彼女はそういって、廊下の塀から身を乗り出して地上を見た。
「むき出しコンクリートなんてもう流行らないって。」
俺も一緒になって地上を見ると、4,5人のたちがマンションの前で集まって井戸端会議をしている様だった。
「5階から見ると人って小さくて、虫みたいだな。」
「…あ、君って虫って食べるの?」
「…俺は人間だぞ。」
俺は彼女の突拍子のない質問にため息を吐きながら階段を下った。
マンションから出て、歩いて10分程のところに大きめのスーパーがある。ここに暮らすものは基本ここで買い物をする。
ここで働いている人も大半は異形の人間たちだ。俺のようにキメラめいた見た目の人間もいれば、顔がボコボコと腫れあがり、それを隠すように髪を伸ばしている者もいる。
朝のコーヒー、そしてクロワッサン。そして適当な乾麺を籠に入れた。彼女は俺の持つ籠の中に牛乳やシリアルなんかをポイポイと投げ入れてくる。
「…今日は1キロじゃなくていいのか?」
「ン?まあね。」
籠の中に転がるシリアルは『400グラム』と書かれており、普段の半分以下の量だった。
「食欲ないのか?」
「そういうわけじゃないよ。」
そういって彼女は歯を見せて笑い「心配してくれてありがとう。」と言った。
俺は「気になっただけだ。」と自分の頭の中で彼女の言葉を否定をしながらさっさと彼女の前に出るように歩いた。
基本的に食事は適当に済ましている。スープだけとか、レトルトの食べ物を中心に食べる。それらは適度に買いだめてあるので今日買う必要はない。
買い物が終わると、彼女は突然「ブランコに乗りたい。」と言いだし、俺の手を引いてマンションそばにある小さな公園へやってきた。
この町に収容されている人間たちはみなほとんど子どもを持たない。この中で結婚をするものもいるし、外から来ている異性と結婚を果たしたやつもいる。
俺の知っている中にも、マンションの6階以上は家族用の3LDK造りになっていて、その部屋に移り住んだやつもいるが「子どもが出来た。」とは聞いたことが無い。
子どもが作れないのか、作らないのかはわからないが。俺はこの施設に収容されてから子どもの声を聞いたことが無い。
その結果、この公園も人があまり来ないのを物語るように雑草は濛々と生え、短いものでも太もも辺りまで雑草が伸びている。
「ここってやっぱり空気薄いよね。」
「山だからな。」
「夏のくせに少し寒いし。」
「山、だからな。」
彼女は器用にブランコに飛び乗ると立ったままぐわぐわとブランコを漕ぎ始めた。
数回漕いだだけなのに、ブランコごと空に溶け込んでしまいそうなくらい高くブランコは揺れた。
「…漕ぎ過ぎじゃないのか。」
「えー?なんだってー?」
俺が小さく疑問を口にすると、宙まで届きそうな女が大きく聞き返してくる。
「漕ぎ過ぎだ。」
そこそこ大きな声を出してそういうと、彼女は吹き出し「心配症~!」と俺の声の何倍も大きな声で答えた。
彼女はしばらく激しめにブランコを漕いで遊んでいたが、すぐに飽きたのか一番高いところで器用に座った。
そこからは漕ぐことなくぼんやり空を見つめているようだった。
俺もつられて空を見ると、雲一つない青空の真ん中に1羽のトビが滑空していた。
家に帰ると彼女は、大きなボストンバックから古臭いポラロイドカメラを取り出した。
「今日は天気がいいから写真を撮って遊ぼう。」
そういって、今やっと座ったばかりの俺の手を引いてまた外へと走り出した。
マンションを飛び出し、彼女は踊るように飛び跳ねて走り出した。彼女は柔らかい素材の赤いワンピースを着ていて、強い日差しに透けた赤い影が印象的だった。
二人で小さな町を歩いて回った。小さな町にふさわしい小さなパン屋があったり、電気が切れそうな自動販売機があったりした。そしてそれらに差し掛かる度に彼女は俺を適当な場所に立たせこちらに向かってシャッターを切った。
「私、昔は写真家だったのよ。」
「へえ、初耳だ。」
彼女の言うことを聞いてその場に突っ立っていると彼女は満足そうに笑ってこちらにカメラを向け何枚か写真を撮った。
歪な音を立ててカメラから写真が排出される。手慣れた様子で彼女は写真を振った。彼女の取った写真を盗み見ると大きな翼を蓄えた俺が写っていて自分でも「コラージュ作品みたいだ。」と思った。
「やめたのか?写真家。」
「うん、虚しくなってね。」
そういって彼女はお世辞にもおしゃれとは言えないナップサックの中に写真を突っ込んだ。
「私、動物写真家だったの。サバンナやらなんやらにいってさ、生きてる動物を追っかけて写真を撮る。楽しかったよ。」
彼女のカメラは古臭いが、汚れのひとつもなくとても大切にしていることがうかがえた。
「南極で、アザラシの赤ちゃんの写真を撮りに行ったわけ。かわいくてかわいくて。あの子たちって人懐っこいの。」
「へえ、アザラシ。」
「カメラを向けると、彼らはカメラに寄ってきちゃうのよ。警戒心0。愛くるしいのなんのって。」
彼女はこちらを向いて、反対を歩きをしながら話す。そして、話しながら俺の写真を撮った。
「野生なのにか?」
「ええ、けどお母さんアザラシは怖いのよ。警戒心が強いし、自分よりも大きい敵にだって果敢に立ち向かうの。」
フィルムが無くなったのか、彼女は歩みを止めることなくカメラを開けたり閉めたりといじくった。あまりにも早くフィルムを代える姿を見て、本当に写真家だったんだと俺は思った。
「けど人間が近づきすぎると、お母さんアザラシは自分の赤ん坊を捨ててしまうの。人間のにおいがうつっちゃうからね。」
「…他の生き物にも言えることだな。」
俺は、小さい頃自分が拾った小鳥のことを思い出した。持って帰って母に見せると「もうこの子はおうちには帰れない。」と説明され、自分はなんとむごいことをしたのかと大泣きしたことがあった。
「撮影中にお母さんアザラシとはぐれた赤ちゃんアザラシを見つけたことがあったの。」
彼女はまた、俺にカメラを向け何枚も写真を撮った。ただ歩いているだけで面白い写真は撮れるのだろうか。
「きゅーきゅーって、赤ちゃんは泣いてて。見ているだけで涙が出そうだった。」
しばらく話しながら歩くと、今日の午前中にきた公園に着いた。彼女は当たり前のように公園へ入る。
「しばらく観察してたわけ。したら大人のアザラシが出てきて、赤ちゃんアザラシはすり寄っていったの。あーよかった!と思ったらその大人のアザラシは赤ちゃんアザラシにかみついて攻撃をしたの。」
「…それはどうして。」
「自分の子どもじゃないから。アザラシは自分の子どもじゃないアザラシと接触すると攻撃をするのよ。」
彼女は俺にフェンスの前に立つよう誘導すると、自分はフェンスを乗り越え、ほぼ断崖絶壁といえる細い道を伝うように歩いた。
「お、おい!危ないだろ!」
「平気平気、これまで何度死に近い経験をしたことか。」
そういってがさつに彼女は笑い、俺から少し離れた場所からフェンス越しに何枚か俺を撮った。
「母親とはぐれたアザラシは、母親には会えたのか?」
俺が問いかけている間に彼女はフェンス越しに俺の目の前まで戻ってきた。
「攻撃を受けたまま、動かなくなっちゃったわ。それからは、知らない。」
彼女が「知らない。」と言ったと同時に強い風が吹いた。俺は一瞬目を瞑った。
すぐに目を開けると彼女が少しバランスを崩した様に身体が曲がっていた。真っ赤なワンピースがぐわぐわと風になびかれ、まるで血のようだった。
慌てて彼女の腕を掴み、フェンスの内側に引きずり込むと女はあんぐりと口を開けた。
「ほらみろっ、危なかったじゃないか。」
俺はとっさのことに驚いたのか、大きな声で彼女を叱責した。
そんな俺を見て彼女はしばらく呆然としていたが、ゆっくりとうつむいてしまった。
言い過ぎたかと思って彼女の顔を覗き込もうと肩に手を添えると、彼女は吹き出すように笑いだした。
「ほらみろっ!…だって。ぐふ、ふふ、ふふふ。」
「わ、笑いごとか?」
「ふふ、ありがとう。引っ張ってくれて、まるで天使みたいだった。」
彼女は本当にうれしそうな笑顔でこちらを見て、俺の大きな翼を優しくなでた。俺は自分の顔に熱が集まるのを感じた。
天使だなんて産まれてこの方言われたことが無いものだから、変に恥ずかしい。
俺は自分の背中からはみ出るようにした黄ばんだ翼を指先でつまみ、別の意味で「恥ずかしい。」と思った。…普通に生まれたかった。
「もう帰るぞ。」
「はいはい。心配かけてごめんなさいね。」
公園を出ても彼女は何度も思い出したかのように笑うものだから、俺は足早に彼女と距離を撮った。
すると、背後からパシャっとシャッター音が聞こえた。
「…おい。」
「一番、いい写真かも。」
彼女の顔は夕日で赤く染まっていて、もう夕方になってしまったのか、と俺は不思議な気持ちになった。
「さっきの一瞬、私。もしかしたら飛べるかもって。あなたみたいな羽根でも生えた気分だったわ。」
彼女はひどく優しく笑った。俺は「こんな翼、生えないほうがいいに決まっている。」と思い、彼女から顔をそらした。
次の日の朝、彼女は「シリアルがもう半分になった。」と言った。
朝の6時過ぎ、今日の俺は寝すぎだ。いつもは背中が痛んで5時ごろに起きるのに、今日は不思議と痛まなかった。
「いつもよりも小さいのを自分で買うからだ。」
俺がそういうと「それもそうね。」と女は言った。
起き上がって、顔を少し背中に向ける。そこにはいつも通り下手に大きい黄ばんだ翼がある。
俺は落胆してため息を吐いた。いつもの付け根にある痛みが無いものだからもしかしたらあの卑しい羽根が消えてなくなっていないか、ぽろりと取れ落ちてはいないかとおもったのだが、希望的観測すぎた。
「どうしたの、朝からため息ついて。」
「翼が消えてなくなってないかと期待したんだ。」
俺の話を聞いているのか聞いていないのか彼女は「ほーん。」と生返事をした。コーヒーを入れているようでコーヒーの静かな香りが部屋に漂った。
「心臓と繋がってるんでしょ。」
「そうらしいな。」
「取れたら"死"じゃない。」
「たしかにな。」
まだ覚醒しきっていない頭をぐしゃぐしゃとかきむしり、1つあくびをした。
すると彼女はびっくりしたような顔をして「はじめてあくびするところをみたかも。」と言った。
小さなダイニングテーブルに女はコーヒーカップを2つ置き、当たり前のようにコーヒーを入れた。
俺もそれを当たり前のように手にして啜った。鼻を抜けるような爽やかな香りが寝起きの頭にちょうどいいと思った。
俺が朝の支度をしていると彼女が俺の周りとうろうろとしてまわった。
「なんだ。」
「今日は屋上でご飯を食べようよ。」
そういって彼女はにんまりと彼女の顔くらいはあるピクニックバスケットを見せつけた。
中にはホットサンドやスムージーが詰められていて「もう行くことは決定しているのか。」と俺は思ったがなんだか胸が暖かくなった。
屋上へ上がると、今日も晴天だった。昨日は雲一つない青空だったが、今日は薄ら雲が点在している。
それでも太陽を遮るものはひとつもなく、煌々と日光が屋上を照らしていた。
「おい、熱いぞ。コンクリ。」
と、俺が言うと、彼女はへらへらとした表情のままシンプルなマットを屋上に敷いた。
「爽やかな朝ですねえ。」
彼女はそういってマットの上にピクニックバスケットを置くと小走りで屋上の塀へと向かった。俺もそれにゆっくりと続く。
「みてください。山の下の大きな街。」
このマンションの屋上からは山のふもとに広がる都会が一望できる。そのため、誰もここには登ってはこない。
小さなこの街に暮らしているみんな、本当ならあそこで"普通"の人間として暮らしたいと願っているのだ。
「あそこで暮らしていた時は、退屈だったな。」
彼女はそうこぼし「じゃあ、モーニングモーニング!」と楽しそうにマットへと戻った。
俺はしばらく、街並みを見つめていた。幼い頃はあそこで両親と暮らしていたのだ。懐かしくないわけがない。
一向に動かない俺に痺れを切らしたのか、彼女は俺に歩み寄って口元にホットサンドを押し付けてきた。
「ほら、美味しいんだから。食べて。」
年齢は知らないが、俺と同じか少し上くらいだろう。そんな彼女の笑顔はまるで小さな子どものようだった。
「食パン何枚使ったんだ。」
「賞味期限が今日の食パンが8枚あったから、全部。4つ分。」
彼女の手からホットサンドを受け取り頬張ると、配分よく入れられたケチャップとマスタード。そしてハム、レタス、トマトが口内で混ざり合った。
「ねえ、ここにいるとさ。空に飛び込みたくなると思わない。」
さっきまで彼女も口いっぱいにホットサンドを頬張っていたはずだが、もう飲み込んだようだった。
彼女は飛び込みたいと称した空を仰ぐようにくるりとその場で回った。ステージに上がる前のバレリーナのようだと俺は思った。
「俺は、べつに。」
「立派な翼があるのに。」
彼女はそういってプラスチックの容器に注がれたスムージーを太いストローで吸い込む。
「こんなのはお飾りさ。」
「飾りにしては立派よね。」
「いやになるよ。」
スムージーを彼女は俺に手渡し「口の中ぱさぱさなるよ。」と言った。素直に受け取り、俺はそれを飲んだ。
「私は飾りじゃないと思うわ。」
爽やかで優しい風が屋上を包んでいる。俺は塀に体重をかけて、目を瞑った。「ふん!」と掛け声を上げ、背中の翼に神経を集中させる。
「……はっ!…今、翼を羽ばたかせようとしたけど、動いたか。」
「…なにも。」
「ほら、お飾りなんだよ。手足のようには動かない。」
多少息切れをしながら、俺はそれみたことかと彼女を見た。彼女は本当に不思議そうに俺の翼をなでた。彼女の手の体温はしっかりと翼を伝ってわかる。
「こんなに暖かいのに、自分の意志で動かせないのね。」
落ち込むように彼女がそういうものだから、なんだか俺は申し訳ないような気分になり、彼女から翼を逃がすように塀に背中を付けた。
屋上の塀から羽が飛び出すような形になる。翼には太い血管が通っていて、風を受けるとさっぱりとして気持ちがいい。
「この羽根は、毛みたいなものなの?」
彼女は未だ興味津々に、俺の翼に手を伸ばす。塀の外に投げ出しているというのに危ない。
俺は彼女の伸ばした腕を掴み「落ちる。」と言った。
「落ちないわよ。」
「前科があるだろ。昨日。」
「あー…。」
彼女はバツが悪そうに視線をあちらこちらに移動させた。俺の目が見られないようだ。
昨日、公園のフェンスを乗り越えた彼女。今日よりも強い風にはためいた血のような真っ赤なワンピース。
「運動神経いい方なんだけどね。」
彼女はそういって照れたように笑った。
それから何日か経った頃、家の食料が尽きた。
どうして尽きてしまったかと言うと、彼女がずっと家にこもって写真を焼いていたからだ。
俺は自分から買い物には出ていかない。彼女に誘われるまで基本は出掛けない。
そしてその彼女は実は別途部屋を持っておりここ最近日中もずっとその部屋にいる。借りていると本人は言っていたが、そこは写真用の暗室に改造しているらしく寝るには俺の部屋が一番らしく夜だけ俺の部屋に戻ってきていた。
彼女がきてからというもの、俺はいつも壁沿いのベッドソファで眠っている。彼女はもともと俺が使っていたシングルベッドで眠る。それた二つの家具は部屋の真ん中を挟んで向かい合うようにそれぞれが壁沿いに置かれている。
朝、空腹で目が覚めた。起き上がり隣のベッドを覗くと、いつもは俺よりも早く起きている彼女が丸まって眠っていた。昨日の夜は全然彼女の帰ってくる様子が無く、先に寝たのだが忠犬のように返ってきていたようだった。
寝ている彼女を起こさないように音をたてずにキッチンへと向かう。キッチンにはやっぱり食料はなく、俺は水道水を1杯飲んだ。
リビングテーブルの上には彼女の焼いたであろう写真が積み上げられていた。
1枚1枚見ると、どの写真にも俺が写っていてなんだかくすぐったいような嬉しいような不思議な気分になった。
その中でも俺の目を引いたのは公園で撮った1枚の写真だった。画面端から波打つように彼女の着ていたワンピースが写りこんでいて、フェンスからレンズを覗く自分の目に恐怖を覚えた。
「その写真良いでしょ。」
気が付くと彼女は起きてきていて、俺の腕に絡みつくようにして並んだ。
「今にも、空を滑空するトビみたいだわ。」
町を歩いていると様々な人とすれ違うが、俺ほど変な奴を見たことが無かった。
俺は自分の背中に生えた動かない翼が毎日毎日疎ましかった。
「羽ばたけないならきっと、滑空するための翼なのよ。」
彼女の頬はコケていて、目の下には深いクマが刻まれている。
「きっとあなたはトビなの。」
断定するように言った彼女の声を聞いて、俺はなんだかすとんと胸の中に詰まっていたなにかが落ちた気がした。
起きたままの姿で俺は部屋を出た。彼女は追ってこなかった。
軽い足取りで屋上へ上がると、遠くにもくもくと大きな入道雲が目に入った。
背中に力を入れると、ピンっと翼を張ったり、小さくすぼめたりすることができた。俺の翼は滑空するためのものなのだと理解した。
俺は背中に力を入れ、翼を大きく広げて屋上の柵に這い上がり一番高いところで腕を広げた。
そして背中を押すように強い強い突風が吹き、俺はそれを合図とでもいうように屋上から飛び降りた。
「ずっとこうしたかったんだ!」
俺は胸の中でそう叫んだ。
マンションの屋上から滑空していく。そして、俺の部屋のベランダに彼女が立っていて、目があった。
彼女はカメラ片手に嬉しそうに微笑み、俺に手を振った。俺も手を振り返したかったが下っていくスピードがあまりにも早くてすぐに彼女は見えなくなってしまった。
腹が減っていて体の中が空っぽだからか俺は長く長く飛んだ。
風を切る音が耳に心地いい。
俺はずっと自分のことを人間だと思っていたがそんなことはなかった。
俺は俺だったんだ。
人間の翼 大西 憩 @hahotime
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