金の帽子すてき!

宮上拓

金の帽子すてき!

 二月も中旬に入ったある日、僕は大阪発の夜行列車に乗っていた。外では既に冬の短い日が落ちていて、僕が見当をつけたところではだいたい夜の七時というあたりだ。僕は自分に割り当てられたB寝台の下段席に脚を伸ばして座り、ディッケンズのクリスマス・カロルを読んでいた。なぜ今時そんなものを読んでいたのか、残念ながらどうにも思い出せない。

 列車は新大阪と京都の間をおそろしくシステマチックに走っていた。がたんの後にはごとんが来て、時折かかかかっというのがその規則性を乱そうと空しい努力を続けていた。僕はそういった一種の予定調和に身を任せながら偏屈なスクルージ爺さんの物語を読み続け、何分かに一度は向かいの席に座っている女の子をちらちらと眺めていた。十七か十八ぐらいの、わりにきれいな女の子だ。彼女は僕と同じような体勢で、手にしている英語の参考書を真剣に読み耽っていた。英語の参考書をそんなに真剣に読む女の子に出会ったのは、おそらく初めてだったと思う。

 そのうちになにしろ薄いクリスマス・カロルを読み終えてしまうと、僕は全くすることが無くなってしまった。晩御飯は大阪の駅ですませていたし、荷物の中にはグレート・ギャツビーのペーパーバックが一冊入っているだけで、つまるところ僕は手詰まりの状態に陥ってしまったのだ。英語の勉強をしている女の子の前で英語の小説を読み始めるなんて、ちょっと無神経にもほどがある。そういうわけで、仕方なく僕は窓の外を眺めるふりをしながら、実際は窓に映った女の子の様子をじっと観察していた。彼女はひどく慎重な手つきでページをめくり、ときどき口の中でむぐむぐと何かの発音の練習をして、それが済むとまたひどく慎重な手つきで次のページに取り掛かった。四ページに一度くらいは、右手の人差し指で空中に長めの単語のスペルを綴ったりもした。

 僕は彼女の観察を少しの間中断して、ぱっと思いついた長いスペルの英単語をくもった列車の窓ガラスに書き付けてみようとしたが、大した長さの物は浮かんでこなかった。辛うじて僕は「yorkshireterrier」と書き、それから何秒か後にはっと気付いて「supercalifragilisticexpialidocious」と書いた。望みを叶えて下さる言葉、スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス。きゅっきゅっと、指の腹とガラスがこすれる音が辺りに響いた。

 彼女はすっと顔を上げて、僕が綴った長いスペルをじっと見つめた。ほとんど睨んでいるみたいだった。それからぱたんと参考書を閉じて体を窓の方に伸ばし、「Fuck you」と書いた。全くその通りだった。

 僕は精一杯申し訳なさそうな顔をしながら、「I'm really sorry. I just wanted to have some talk with you.(本当にすみません。ちょっとあなたと話したかっただけなんです)」と書いた。それから「If you don't like it, please forget about it. I only felt bored about being alone.(でももし気を悪くしたんなら忘れてください。ただ一人でいるのに退屈しただけですから)」——どうにも冴えない科白だなとは思ったけれど、とにかくまあ。彼女は「分かってるわよそんなこと」と鼻を鳴らしてみせ、それから、大嫌いな親戚と街で偶然顔を合わせてしまったようなひどい顔をした。

「I know. This is awful.(分かってます。こんなの最悪だ)」と、すまなそうな字体で僕。

 彼女は暫く黙ってから(と言っても彼女は実際には一言も発していないわけだけれど)、「It's OK. But if you feel really sorry, can you give me something to kill time? I'm bored with this fuckin' space to death.(いいわ。でももしあなたが本当に悪いと思ってるなら、なにか時間を潰すものをくれないかしら? このクソみたいな場所はもううんざりなの)」と書いた。その年の女の子にしては随分しっかりとした字で、僕はふむと感心してしまった。

 僕は彼女に頷いてみせて、荷物の中からペンギンブックのグレート・ギャツビーを取り出した。黄色い背表紙の上のほうに、ヨーロッパ貴族の家紋よろしく小さなペンギンがプリントされている。僕はそのペンギンにさよならを言ってから、本を彼女に礼儀正しく両手で差し出した。彼女は面白くもなさそうに表紙を一瞥して、それでも一応納得したのか本を受け取ってから、彼女が持っていた参考書を僕の方にぞんざいに右手の親指と人差し指でつまんで差し出した。表紙には事務的な口調で「大学受験用英語」という文字が印刷されていて、その下にそれよりは幾分フランクな様子で「3−4 立川亜紀」という名前がマジックで書かれていた。タテカワアキ、と僕は思った。

 僕が参考書を受け取ると、彼女はさっと身を引いて自分の寝台席にうつ伏せに横になり、グレート・ギャツビーの最初のページを読み始めた。僕が今よりももっと若くて傷つきやすかった時代に、父が与えてくれたアドバイスのくだりだ。でも僕は実のところ、その素晴らしい最初の一文よりも、献辞の裏に引用されているトマス・パーク・ダンヴィリエの言葉の方を気に入っていた。


 さあ 金色帽子を被るんだ それであの娘がなびくなら

 あの娘のために跳んでみろ みごとに高く跳べるなら

 きっとあの娘は叫ぶだろ 「金の帽子すてき 高跳びもいかすわ

 恋人よ あんたはあたしのもの!」


 僕はその言葉を窓ガラスに書き付けてみようと思ったのだけれど、原文の方はすっかり忘れてしまっていた。仕方なく諦めて、僕は人差し指で「ONCE AGAIN TO ZELDA」と書いた。最後のAの右脚から水滴が垂れて、窓を伝った。

 水滴が窓枠まで滑り落ち切ってしまったところで、僕はガラスが僕と彼女の文字で埋め尽くされていることに気付いた。もう何かを書くスペースなんてほとんど残っていない。辛うじて一単語、それも四文字以上の言葉は綴れそうに無かった。僕はしばらく考えて「love」と綴りかけ、思い直して「life」と綴った。

 彼女はなんの反応も示さずギャツビー氏の物語を読み続けていたが、とにかくそれでガラスは文字で一杯になった。僕はとても満足した。それから僕は自分の席で脚を伸ばし、はるか昔のイギリス人が考え出した複雑な言語を習得する作業に取り掛かった。


(了)

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金の帽子すてき! 宮上拓 @miya-hiraku

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