第11話 どっちが最初だ
テスト週間が終わると、再び僕は美術の特別講師として教壇に立った。その間にも僕の作品は次々に返品され、学校側も僕の解雇を検討し始めたようだった。親切な事務員が「ひどい話よね」と僕にこっそり教えてくれたのだ。世界は刻々と変わりつつあった。僕の世界で相変わらずだったのは、彼女の親切と、カズミの冷たい態度だけだった。
僕自身も何かを変える必要があった。カズミを失わないために。
冷静になって考えてみると、彼女とは、ほんの少しの間かかわりを持ったにすぎない。運命的な出会いをしたわけでもないし、何か二人の絆を強める劇的な出来事があったわけでもない。客観的に我々の関係を考えれば、道端でばったり会った二人が、気まぐれに寄り道をしているようなものだった。
それでは、僕はなぜこれほど彼女に執着していたのだろうか?
「そんなの簡単よ」と、今ではカズミは言う。「そうするべきだと、あなたがちゃんと分かっていたからよ」
彼女の答えは、ときに哲学的すぎてピンと来ないことがある。しかし、たしかに間違ってはいない。言わせていただくならば、僕の魂が「彼女に執着するべきだ」と告げていたのだ。魂は人間にこそ宿っている。レジナルド・コーウェンが言うように、それを何かに移し替えようとするのは愚かなことだ。しかし、それに従おうとするのは人間として圧倒的に正しい。そう思うしかない。
それでは具体的に、僕は何を変えるべきだったか?
それは、屋根裏部屋で見つかった。この先使われるあての無くなった画材と、僕である。
*
夏休みが明けてから三度目の授業の後で、僕はカズミに声をかけた。九月も終わりに近い、どんよりと曇った日で、彼女はその天気を映したような無表情をきめこんでいた。彼女の顔を見たのは、実に久しぶりのような気がした。
「宿題が終わったよ」と僕は言った。
彼女は表情を変えずに、少しだけ顎を上げて、「どうかしら」という仕草をしてみせた。それから視線を窓の外にはずしたが、それは「それじゃあ見せてごらんなさい」という意味である。最後にまた視線を僕に戻して小さく頷いたのは、「まあなんにしろ、ご苦労様」という意思表示だった。彼女は、態度だけでそういうことを伝えることができる。
「宿題は僕の家にある」と僕は言った。「一緒に来てくれるかい?」
彼女はぱちぱちと瞬きをした。「別にいいけど」という意味である。そこで僕は彼女をフィアットに載せて、僕の家まで連れ帰った。今となっては、それほど大胆な行動をよく他人に見咎められなかったものだと思う。
車の中で、カズミはタバコを一本吸った。彼女がタバコを吸うところは初めて見たが、その吸い方はさまになっているものではなかった。おそらく彼女の喫煙はつい最近からのものなのだろう。その証拠に、ショート・ホープを半分ぐらい吸ったところで、彼女は盛大にむせかえった。けほけほと息を吐き出す彼女を見ていると、なにかひどく傷ついている少女が、わざと自分を痛めつけているようにも見えた。そのとき、彼女は初めて年齢相応の顔をしていたと思う。
「最近初めて吸ったのよ」彼女は沈んだ声で言った。「特に良いものでもないわね」
「もちろんだよ」
「あなたのせいよ」
「済まないと思ってる」
「何が済まないのか、きちんと分かっているの?」
「うん。分かっていると思う」僕は言った。
「僕が君を傷つけた。それが全てだ。僕はひどいことをした。ずっと一人で自分を統制してきた君を舞台の上に引っ張りあげて、その統制のしくみを、できるならば僕も知りたいと君をあちこちつつき回した。僕は君に興味を覚えたんだ」
「興味なんて言わないで。反吐が出るわ」とカズミは言った。
「分かった、言い換えよう。僕は君のことが好きになった。あらゆる意味でだ。生徒として、女性として、人間として。僕は君のことが知りたかった。だから僕は、僅かではあるけれど、君と一緒の時間をすごしたんだ。そして、そうやって僕が君のことをいろいろ考えている間に、君も僕のことを好いてくれるようになった。素晴らしいことだ。君は少しずつ自分のことを話してくれるようになった。僕を信頼してくれるようにさえなった。それは君にとって、とても重要な決断だったはずだ。ここまでは合っている?」
カズミは小さく頷いた。
「そういう空気を感じられたことは、とても嬉しかった。その気持ちは分かるだろう? 自分の好きになった相手が、自分をいっぱしのものとみなしてくれているんだ。僕はとても良い気分だった。なんだってできそうに思えた。君の感じられることは僕の感じられることだと思っていた。要するに、僕は調子にのってしまったんだ。そこで決別が訪れた。僕はとんでもない勘違いをして、君をどん底に叩き落した。せっかく君が勇気を出して信頼した相手は、とんでもないとんちき野郎で、まぬけコンテストのチャンピオンのままだった」
「今でもそうよ」とカズミは言った。
「もちろんそうだ」と僕は言った。「でも宿題はきちんと完成したんだよ」
*
僕はカズミを屋根裏部屋に上げた。屋根裏部屋はいつでも素晴らしい場所だ。カズミが初めて僕の人生に関わってきたのは、僕がこの屋根裏でうたた寝をしているときだった。カズミの宿題の答えを見つけたのもここだ。そして今、カズミを取り戻すのもこの部屋である。屋根裏万歳!
小さな木製の梯子を上りきって屋根裏部屋が視界に入ると、カズミは小さく感嘆の声を上げた。
天井は屋根の勾配がそのまま反映されていて、一方に向かって急激に傾いている。床と天井の間が狭まった方の壁に小さな窓があり、そこからは庭の木にかけられたスズメの巣が覗けた。その窓に押し付けるようにして古びたデスクが置かれ、逆側の壁には簡素なパイプベッドが居を構えている。床は板張り。デスクとベッドの間にあるコーヒーテーブルの上には、レジナルド・コーウェンの『明日が来なけりゃ、または明日が来なくても』がうつぶせになって置かれていた。
これはいつもの僕の屋根裏の様子である。
初めてカズミを屋根裏に上げたその日、僕はその部屋に、一日だけのちょっとした模様替えを施していた。その日、僕はコーヒーテーブルを片付けた後に、階下から持ち込んだ大型のテレビを据え、部屋の真ん中には白いシーツを被せた画架をセットしておいたのだ。
「これが宿題の答え?」と彼女は言った。
「うん、そうだ」と僕は言った。「採点をお願いします」
彼女はゆっくりと画架に近付いて行った。そして、妖しげな魅力を放つ理科の実験道具を扱うような慎重な様子でシーツに手をかけると、視線で確認を取ってから、するするとそれを剥ぎ取っていった。
その絵は、仮にも画家の作というにはあまりに稚拙過ぎた。デッサンは狂い、遠近法はでたらめで、色の使い方は十六色カラーチャートの方がまだマシだと思えたほどだった。初めにも言ったが、僕は絵が描けない。しかし、僕は絵を描いたのだ。使われるあての無くなった画材と、使われるあての無くなった僕とを使って。
その絵は、ある種の予言だった。
「よくできました」とカズミは言った。
「ありがとう」
「あなたは私を求めているのね?」
「もちろん」
「最高だわ」
絵の中には、一緒にベッドに腰掛けて、レイカーズの試合中継を観戦している僕とカズミの姿があった。
「最高だわ」彼女はもう一度言った。「だって、とても楽しそうだもの」
そこで、僕たちは予言を実行した。
*
さて、これであらかた片付いたようだ。残っているのは一つ疑問だけである。結局私とカズミの関係はなんだったのか?
その答えはレジナルド・コーウェンの著書ではなく、カズミの言葉にある。
僕はカズミに訊ねてみた。
「それで、僕たちはいったい何なんだろうね?」
「知らなかったの?」と彼女は言った。
「ぜひ教えてほしいね」
「私達はライバルよ」
「ライバル?」
「そう、私達はライバルよ。人類に反旗を翻して、世界に対してどちらが先に勝利を収めるのか、それを競うライバルなのよ」
我々は出会ったころからそうだった。今でもそうである。
(了)
ピエロ・ダンス 宮上拓 @miya-hiraku
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