第10話 レジナルド・コーウェン語る
さて皆の衆! 用意ができたなら聞くがいい! 私が魂を記す方法を教えてやろう!
私はレジナルド・コーウェン。ご覧の通り作家である。私の仕事は頭を悩ませて世界を創造し(うーむ、うーむ)、文字をタイプし(ぱたぱたぱた)、世間の想像力の上に胡座をかくことである(どっこいしょ)。だいたいそう言って差し支えない。この世に数多存在する他の作家がどう思うかは分からないが、少なくとも私はそうだということだ。
今のところ幸運にも、私の本はよく売れている。当然、私の書いていることに対する反感や賛同も、大量に送られてくることになる。いろいろな悪意があり、いろいろな賞賛があり、いろいろな叫びがあり、いろいろな疑問がある。私はそれらの手紙を一つ残らず読んでいるが、実に人というのはバラエティーに富んだことを考えるものだ。その中には、おそらく人類が真剣に取り組むべきかもしれない提案もいくつか含まれている。
一年に必ず何通か届く質問がある。私は今までこの質問を常に努めて無視してきたが、ことこの問題に関する限り、人の興味は尽きることがないらしい。
そこで、私はここでその質問に対して大いに答えようと思う。と言っても、答えられることはごく限られている。そも質問自体が漠然としすぎているし、質問自体が明確性を避ける類のものである。私が今まで答えを拒否し続けてきたのはそのせいでもあり、また、私の答えが答えとして成立していないためだ。
それでも彼らは声を限りに、何度も繰り返して訊ねる。
「ああ、レジナルドさん! どうやったら魂の宿った作品が書けるようになりましょう!」
はなから根底を覆すようで悪いのだが、私が思うに、どうあがいたところで作品に魂は宿らない。作品は作品である。文章は文章であり、絵画は絵画であり、磁器は磁器である。皆が言うところの「魂を感じる優れた作品」にも、やはり魂は宿っていない。魂が宿っているのは、人間である。
優れた作品は何も主張しない。作品それ自体以外の何物をも含んでいない。そして、その何も含まれていない空洞が、見る者の心をそれぞれの形に反響させるのだ。そうでなければ、ある作品に対する人々の反応は皆一様になり、ワライカワセミのそれと大差なくなるだろう。
然るに、あなたが己の魂を表現したいと思う場合には、あなたの作るものは空っぽでなければならない。文章は文章であり、絵画は絵画であり、磁器は磁器でなければならないのだ。そこに疑問や、提案や、叫びがあってはいけない。
しかし、空っぽであるということはおそろしく困難だ。我々が魂を表現しようと思い立つとき、我々は既にイノセントな空っぽの時期を遥か昔に終えてしまっている。もしあなたが、そのときにあってまだイノセントな空っぽを自分の中に持っていると思うのなら、私は即座にこの文章を読むのを止めることを勧める。そのような方には、おそらく私のやり方は向かないだろう。
我々に必要なのは空っぽであること——作為的に空っぽであり、しかも作為的に空っぽであることを自覚することである。
私の知る限り、それができる可能性があるのは、神だけだ。
それでも世の中には「自分は作為的に空っぽであり、しかも作為的に空っぽであることを自覚している」と豪語する人がいる。だいたいそういった類の人は、世間を皮肉って、シニカルなジョークを飛ばし、常に後ろ向きで希望の無い笑みを浮かべている。それによって、世界と自分の違いを確認しているのだ。
私はそういった人々を個人的に好まない。
ジョークや皮肉の効能については既に述べた。ジョークや皮肉は、笑いという極めて分かりやすく、それ自体には何の意味もない現象を生産する。人を導く示唆というのは、あくまでも副産物である。そのことが分からない者には、ジョークや皮肉を口にする権利は無い。もし彼の人が言論の自由を振りかざすのなら、私が出向いて直々に処刑することにしよう。
ああ、空っぽたれ! 常に何物も分からずにいたまえ!
初めから分からないのであれば、それは無知だ。一つ裏をめくって分かったフリをするのが常識だ。二つめくって人の上に立とうするのは驕りである。
我々が真理を見つけようとするならば、この三つを心にとめておくことが必要だ。そして三つ目をめくって我々が真理を見つけたと思うとき——もちろん、そこにはまためくるべき裏がまだまだ無数に存在するのである。
めくれ、めくれ! 死ぬまでめくれ!
そして、死ぬまでめくって気が付くのは、我々は方法を間違えたのだということだ。結局のところ、どんな方法もこの結論に落ち着く。我々は常に間違えている。そのことを前提にするのなら、何がどうなろうとなんの不都合もない。どうせ、最初から間違えているのだ。正しいことをしようと思うのなら、いっそのことえりまきにでもなった方が望みがあるかもしれない。えりまきについては、私もまだ詳しくない。
さて皆の衆! 用意ができたなら聞くがいい! 私が魂を記す方法を教えてやろう!
結局のところ、魂を記そうと思うのならば、こう言うしかない。
「だからなんだ? なんでもないさ」
私もそれにならおうと思う。それではみなさんご一緒に。
「だからなんだ? なんでもないさ」
*
思うにレジナルド・コーウェンは、小説家よりも明らかに哲学者か宗教者の方に向いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます