第8話 峠の我が家
実際、僕は何も描く気になれなかったので、誰もやって来ないカズミの寝室に画架を立て(そこからの眺めが一番良いんです、云々)、ベッドの上でうたた寝をして毎日を過ごした。裏の庭に向かって開いた窓からは、夏の匂い立つような風が吹き込んできて、五月の屋根裏部屋ほど快適な環境とは言えなかったが、それでも気持ちの良いうたた寝をするには十分の場所だった。誰かから食事のときに絵の進み具合を尋ねられたときには、僕はいつも「順調だ」と答えていた。
それは嘘ではない。
僕はすこぶる順調だった。考えるべきことはカズミと哲学のことだけで、するべきことは何も無い。さながら僕は、古代ギリシアの自由民だった。起きる。食べる。考える。繰り返し——まぬけのチャンピオンがなんと出世したことだろうか!
一方、まぬけチャンピオンの認定者であるカズミは、あまり順調とはいえないようだった。三日目の朝は昼過ぎまで起きてこなかったし(その原因が僕にもあることは言うまでもない)、たとえきちんとした時間に起きてきたとしても、いつも眠そうな顔で絵筆を機械的に動かしていた。少なくとも僕が見ているときはそうだった。
もちろんサイトウ氏は彼女の態度を非難した。こんな具合だ。
「マノ、我々は地勢図を描いているわけじゃないんだぞ」
彼が言いたいのは、芸術には魂が必要なのだということだろう。しかし、はたして本当に地勢図には魂が無いだろうか? 激しく沸き立つ活火山や、底の知れぬ深い渓谷や、無数の神秘が漂う樹海を正確に描いた地勢図に、描いた者の魂の鼓動を感じはしないだろうか?
そういうわけで、サイトウ氏に対するカズミの答えは次のようなものだ。
「先生、私は魂を描こうとしているわけじゃありません。私は絵を描いているんです」
そのようにして日々が過ぎていった。サイトウ氏とその弟子たちは魂を描き続け、カズミは絵を描き続け、僕は相変わらずうたた寝を続けていた。一滴も雨の降らない一週間だった。
五日目の夕方のことだ。僕が画架の前でぼんやりとしていると、風呂から上がってきたカズミが、後ろから、その上に乗っているまっさらのキャンバスを覗き込んできた。彼女は僕の肩越しに指を伸ばしてキャンバスに触れ、カリカリと表面を二、三度引っかくと、僕から離れてベッドの上に座り込んだ。
「あなた、絵は描かないの?」と彼女は言った。
「うん」と僕は言った。
「でもとんちきくんから一枚提出するようにって言われてるんでしょう?」
「うん」
「どうする気なの?」
そこで、僕はカズミに計画を教えてやった。まっさらのキャンバスにタイトルをつけて云々——もしよければ、何かもっと良いタイトルを考えてみてくれないだろうかとまで頼んだのだ。
ああ、このとんちき野郎は!
「あなたもどうやらとんちきくんの仲間入りのようね」とカズミは言った。
「そうかな? 皮肉やジョークとしてはまずまずだと思うけど」と僕は言った。
「皮肉? ジョーク?」と彼女は言った。
おそろしく冷たい目だった。
「あなたはこの五日間、何もしないでいったい何を考えていたの? 皮肉? ジョーク? そんなくだらないことを考えていたなんて、おぞましくって鳥肌が立つわ。まあ怖い。どうせ一日中、私のことしか頭に無かったんでしょう。何度でも言うわよ。皮肉? ジョーク? はん、少しはそのまぬけでとんちきな頭で、ものを考えてごらんなさい」
僕はすっかり肝をつぶしていた。自分が何か間違ったことを口にしたのだということは理解できたが、どこが何故間違っているのかは全く理解できなかった。これまでの五日間、自分は大筋で正しい方向に進んでいると思っていたのだ。
「でも笑えるというのは良いことだ」
ようやく僕は言ったが、それで彼女がさらに腹を立てたことは明らかだった。
「笑えないわ」と彼女は言った。「あなたが何を皮肉ってジョークにしようとしたのか、よく考えなさい」
「だからなんだ? なんでもないさ」
僕は気分を落ち着けるために、小声でそうささやいてみた。困ったときには魔法の言葉——しかし、彼女は無情にもドアを開けた。
「お話にならないわ。さあ、また宿無しに逆戻りよ」
*
今では彼女の言いたいことはよく分かる。少なくとも分かるつもりだ。
レジナルド・コーウェンは、著書『明日が来なけりゃ、または明日が来なくても』の中でこう言っている。
皮肉やジョークは良いことだ。それは笑いをもたらし、ときには相手に深遠な思慮をももたらすことがある。しかし、俗物に関する皮肉やジョークを言うときには、あなたは十分に注意しなければならない。その場合、大抵のジョークはあなた自身をスノッブで鼻持ちならない、醜悪な俗物に変えてしまう。
また、彼はこうも言っている。
常に俗物たろうとあれ! 自分の目の前のものにしがみつき、それを頼みに生きていけ! 深遠な思慮などくそくらえだ!
彼はおそろしく前向きなニヒリストだった。カズミの言によると、「自分がペシミスティックであることを笑っていられるオプティミスト」である。同じくカズミの言によれば、僕もそうだ。
*
さて、ここまで書いて、カズミが僕の家に戻ってきた。レイカーズがぎりぎりになってプレーオフに進出したので、その試合を見にきたのだ。しばらくの絶縁宣言からは四日しか経っていない。彼女はまたここまでの僕の文章をざっと読んで、「うん、よく頑張ってるじゃない」と褒めてくれたが、その後はずっとバスケットボールの中継を見ている。まるで、中継を見るために心にもないお世辞を言っているようだ。
今カズミは「そんな世に出るのかどうか分かんない書き物なんて止めて、一緒に中継を見ましょうよ」と僕を誘った。
そうすることにしようと思う。それでは、ちょっと失礼。
*
歴史の記述に戻る。
僕は宿無しにはならなかったが、職を失うことになる。カズミが寝室のドアを開けたその瞬間に、僕の携帯電話が鳴ったのだ。電話のお相手は——おそろしき美術館の係員である。
「もしもし」と僕は言った。「どちらさまですか?」
「わたくし、市立美術館のハマムラというものです」
「ハマムラさんがどういったご用件でしょう?」
「あなたの作品に関することです。ですが、あいにく用件の全てを電話でお伝えすることはできません。明日の午前中にお時間を頂戴したいのですが」
「申し訳ないけれど、今は家を離れてるんですよ」
「どちらへ?」
僕が合宿所の住所を告げると、ハマムラ女史は少々お待ちくださいと言って電話を置いた。待っている間、電話の保留音機能は小さく「エリーゼのために」のメロディを流していた。僕は「峠の我が家」の方が好きである。
来るべき時が来たのだ、と僕は思った。
「お待たせいたしました。明日、そちらに担当の者が伺います」
「明日? ここに? 僕の作品のことで?」
「そうです」
「ふうむ」と僕は言った。「それはちょっと困るな」
「しかし大事なことなので」
「では僕がそちらへ行きます。今から出ればなんとか間に合うでしょう。だから、こちらへ人は寄越さないでください。いいですか?」
ハマムラ女史は僕の提案を了承した旨を告げ、どちらかと言えば唐突に電話を切った。
僕は肩をすくめた。右隣の部屋で、サイトウ氏はくしゃみをした。左隣の部屋で、パリの熱狂組は明日の天気について話し合っていた。
カズミは言った。
「宿題よ。考えなさい」
僕は荷物をまとめ始めた。
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