第7話 頭に当たった
我々はその日、食事当番に当たっていたイワシタとカズミの作った夕飯をもそもそと食べ、順番に風呂に入り、サイトウ氏の粘ついた説法が済んでしまってから、それぞれ寝室へと戻った。さすがにパリの熱狂も一段落していて、後には黒のボールペン一本で書いたような、事務的な夜が残されていた。
僕は寝室のふかふかとしたベッドの上に腹ばいになり、駅のキオスクで買ったペーパーバックを読んでいた。レジナルド・コーウェンという作家の小説で、奇妙な宗教に出会った男が、とある国の大統領になるという筋である。男は怒り、悲しみ、呆然とし、ときに喜び、ときに絶望していたが、心の底では全てのものを愛していた。僕は彼が大好きだった。
話の中で、彼が芸術について語る場面がある。
「無意味だ! 嘘っぱちだ!」
彼は簡潔にそう断言する。
僕がちょうどその部分を読んでいると、サイトウ氏が近寄ってきて、何を読んでいるのかと尋ねた。僕が読んでいたページを見せると、彼は大いに憤慨して言った。
「あまり感心できないですね。彼は芸術を無意味だと言っている」
「でも、いろんな考え方の人がいるんじゃないですかね」と僕は言った。「それに、これはこの登場人物が言った言葉であって、この本の作者の生の言葉じゃないですよ」
「しかし、少しでも芸術を理解している人間なら、決してそんなことは言えないはずですよ。芸術が無意味だなんて。彼は人生に必要不可欠な物を否定したんだ」
「でも」と僕は言った。「あなたは人生そのものを否定しようとしていますよ」
「そうですか。それでは人生とはなんですかな、先生?」
サイトウ氏は意地悪く微笑んだ。苦手なタイプの人間よりも自分が一枚上手に立ったという、優越感の笑みだった。
「そうですねえ」と僕は言った。「僕はそれを持っている。あなたもそれを持っている。イワシタさんも、クニミさんも、ヤマモトさんも、カナクラさんも、カズミだってそれを持ってます」
「答えになっていないようですが」
「まとめると、つまりこういうことです——『だからなんだ? なんでもないさ』」
「話になりませんな」と彼は言った。
「そうですか」と僕は言った。
サイトウ氏は不愉快そうな顔を見る見る真っ赤にしていった。きっと僕の言動が彼を怒らせてしまったのだろうと僕は思った。いつも後から気付くのだが、僕の口調はどうも相手に喧嘩をふっかけているように聞こえることが多い。
「おっと、失礼」と言って頭を下げてから、僕は部屋を出た。もちろん、サイトウ氏の怒りはさらに掻き立てられたことだろうと思う。
先ほど僕は事務的な夜と書いたが、夜はもちろんいつでも事務的である。同じ意味において、朝も、昼も、太陽も、夏至も、惑星直列も事務的である。ひょっとしたら、人間ですら事務的であり得るかもしれない。
僕は家の外に出て、ふらふらと裏の庭の方へ歩いて行った。
蚊の出始める季節だったが、昔から手ひどく蚊にやられた記憶が無いので、僕は夏の夜でも堂々と、パリを解放した連合軍のように外を行進することができる。さくさくとスニーカーが砂を踏む音が、僕には鼓笛隊の小太鼓のリズムを思わせた。たかたかたんたんたかたかたんたん——全隊、止まれ、一、二。休め。座ってよし。
僕が腰掛けると、アトリエから張り出したベランダは、ぎしりと抗議の声をあげた。
さて、そのころ僕の頭上では何やら不穏な動きがあったらしい。らしい、というのは、僕がそのことを後になってカズミから聞いたせいである。僕の腰掛けているちょうど真上はカズミにあてがわれた寝室で、僕に気付いた彼女は、どうにか僕を脅かそうとしたのだそうだ。ところが結局上手い策を考え付けず、実際には、彼女は上から物を投げて、僕に上方への警戒を怠らないよう警告するにとどまった。
さて、問題。彼女が放り投げたのは、彼女の持ってきた私物の中で、もっとも放り投げるに適当なものである。当たっても怪我をしないし、大きさだって丁度いい。何だかお分かりだろうか?
僕の頭にぽちんと当たったのは、コンドームである。
「ねえ」と彼女は頭上からささやいた。「こんばんは、先生」
僕は地面に落ちたコンドームを摘み上げ、それから上を見上げてカズミの姿を確認した。夜の空に浮かぶ彼女の顔は、やはりパンケーキによく似ていた。
「やあ」と僕は言った。「先生と呼ばれたのは初めてのような気がするな」
「だって、他に適当な呼び名もないわ」
「名前で呼んでくれればいい」
「私、名前で人を呼ぶのって嫌いなの。なんだか確認作業をしてるみたいなんだもの」
「分かるような気はする」
僕がそう言うと、彼女はパンケーキの顔のままでくすくすと笑った。
「それで、あなたはそこで何をしているのかしら?」
「追い出されたのさ」
「とんちきくんに?」
「サイトウ先生に」と僕は穏便に訂正した。「原因を作ったのは僕だけど」
「ふうん」と彼女は言った。そんなのそうなるに決まってたじゃない、という口ぶりだった。
「どうするの? これから一週間、ずっとそこで座ってるわけ?」
「まさか」
「私の部屋に来る?」
「そうする」
カズミはしばらく黙り込んで、それから、「冗談だと思ってるの?」と聞いてきた。
「いいや」と僕は言った。「君はとても事務的に、僕に寝床を提供してくれようとしている」
「そうかしら」と彼女は言った。「でもまあとにかく、可哀相なあなたに寝床を提供する用意はあるわ。そこで問題よ」
「問題?」
「そう。この問題にきちんと正解できたら部屋に入れてあげる。できなかったら、そこでずっと星でも食べてなさい」
「それで、どういう問題なのかな」
「そうね」と彼女は言った。「絵についての質問よ。絵を描くときに、一番大切なことを三つ挙げなさい」
そこで僕は立ち上がって家の中に戻り、階段を駆け上がると、カズミの部屋のドアをノックした。
「絵を描くときに、一番大切なことを三つ挙げなさい」と彼女は言った。
僕はもちろんこう言った。
「キャンバスがあること、筆があること、絵の具があることだ」
「お入りなさい」——彼女はドアを開けた。
*
誓って言うが、僕はその日彼女に指一本触れていない。もちろん歴史の観点からいけば、人はいつか必ずお互いに触れようとするものだ。僕と彼女はだいたいそれから二十四時間ほど後にお互いに触れ合った。サイトウ氏がそのことを知るに及んだのかどうかは、よく分からない。
*
というわけで、翌日から我々は平和的に合宿を開始した。
僕はみんなが起き出す前にカズミの部屋を抜け出し、ソファに寝転がって、そこで一夜を過ごしたふりをしていた。それから一週間、それが僕の日課になったことは言うまでもない。毎日、だいたい朝の七時ぐらいになるとパリの熱狂組(ところで僕は彼女たちの名前がどうしてもすらすらと出てこない。今、これを書いている時点でも、いちいち住所録を開かなければならない始末である)が目を覚まし、それから三十分ほどするとサイトウ氏が起き出してきた。カズミは常に最後だった。結果として、カズミが朝食当番の日の朝食は、いつもよりも一時間ほど遅れることになった。
サイトウ氏によれば「彼女には社会性が欠如している」とのことだったが、僕の意見を言わせてもらうなら、彼女に欠落しているのは社会性というよりも、どちらかと言えば一般的観念全般である。
美術部の合宿らしく、また、サイトウ氏監修の合宿らしく、食事の時間以外はほとんどが絵を描くことに費やされた。僕も合宿期間内に一枚の絵の提出が求められたが、これはおそらくサイトウ氏なりの嫌がらせなのだろう。曲りなりにもプロの画家に、絵の提出を求めるとは!
しかし、僕はその条件を承諾した。何故か?
簡単だ。僕の絵はもう既に出来上がっている。僕はまっさらのカンバスにタイトルをつけて、サイトウ氏に提出するつもりだった。
タイトルは——「なにか文句が? 違いはないさ」
*
今では分かる。もちろん違いは存在する。それも、致命的なやつが。
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