第6話 ハンバーガー、ワイン、選挙
カズミの美術の才能には間違いがない。少なくとも僕はそう思う。授業のときに五人の絵を見比べてみたが、メッセージの存在しない絵を描いているのは彼女だけだった。
他の四人の絵は、こう叫んでいる。
イワシタさんの主張。
「なんと世界は無常なものか!」
ヤマモトさんの主張。
「どうして人は憎しみ合うの?」
クニミさんの主張。
「私を理解しなさい」
カナクラさんの主張。
「孤独!」
それに対してカズミの絵は何も言わない。強いてタイトルをつけるとすれば、こうだろう。
「だからどうした?」
大抵のものは、だからどうもしない。
*
電車には、早めの夏の行楽に出かける人々が、上品な寿司折といった程度に詰め込まれていた。我々は四人がけのシートをなんとか二つ確保し、実に自然な成り行きとして、一つをパリ解放組、もう一つを残りの僕とカズミとサイトウ氏が占拠することにした。僕とサイトウ氏が並んで座り、窓際の僕に向かい合わせるようにしてカズミが座っていた。
電車が走り出すとカズミはすぐに目を閉じた。しばらくして彼女が規則正しい呼吸を始めると、サイトウ氏は隣の僕にそっと呟いたものだ。
「私はね、うちの部員達はまあまあ大したものだと思ってますよ。みんな何かしら訴える絵を描くことができる。しかしね、この子、マノだけは別です」
サイトウ氏は咳払いをして、丸々と太った鼻の頭を掻いた。
「あんまり教師がこういうことを言うのはまずいんですけどね、彼女の絵には何も無いんです。たしかに巧い。けれどカラッポなんです。それなのに、本人は自分の技術にうぬぼれて、すこぶる世間を馬鹿にしたような態度を取る。こういうのが一番いけないんですよ」
「そうですか」
「そうです。この子はイラストレーターにはなれても、画家にはなれません」
もちろんカズミはこの教師の言葉をきちんと聞いていた。やがてサイトウ氏が睡魔の襲撃によって目を閉じ、規則正しい寝息を立て始めると、彼女はぱちっと目を開けて、ひどく眠そうな眼差しをしながら言ったものだ。
「かわいそうに、このとんちきくんは自分の能力に無いものを人に教えているのよ」
「そう?」
「もちろんよ。ああ哀れなサイトウ先生。この人が言っているのは美術じゃない。道徳だわ」
「そうかもしれない」
「それになに? 『何かしら訴える絵』? 冗談じゃないわ。あなた、意思表示する絵なんて、煩わしくって見ていられると思う?」
「正論だ」
「こういうのがたくさんいるのよ」
「よく分かる」
「本当に? あんな絵を描いているのに、本当に私の言うことが理解できるの?」
「とてもよく分かる。僕が食べていけるのはそういったたくさんの人のおかげだ。でも、恩知らずにも僕は常にこう思ってる。『おい、それでいいのか。お前らはカレー味のうんことうんこ味のカレーでは、うんこの方を選ぶのか』って。」
「あなたの絵はカレー味のうんこだと言うの?」
「なお悪い」と僕は答えた。「僕の絵はうんこ味のうんこだ。誰かがこれはカレー味だぞと言い出したときに、みんながそれを信じ込んでしまったんだ」
「なるほど」と彼女は言った。
「でも世間を馬鹿にした態度を取るのは良くない」と僕は試しに言ってみた。「そんなことをしても、自分を高いところに置いておきたいんだろうと思われるのがオチだ。わざわざ自分を貶めることはない」
「でも世間なんてみんな馬鹿よ」と彼女は言った。「みんな知ってるわ」
それからカズミは靴を脱ぎ、僕の膝の上にそのほっそりとした両脚を乗せ、窓の外の風景を眺め始めた。
一時間ほど経ってからふと目を覚ましたサイトウ氏は、僕の膝の上の脚を見てぎょっとしたらしかったが、何も見なかったふりをして、また大急ぎで目を閉じてしまった。おそらく、僕の膝の上の彼女の脚が何を訴えていたのかを考えたのだ。
合宿地に着くまでに、我々は三時間四分の電車旅と、十二分の待ちぼうけと、四十七分のひどく揺れるバス旅を経験することになった。秘境への旅を終えてようやくたどり着いたころには日もだいぶ傾きかけていたが、四人娘によるパリ解放の熱狂は、まだ続いていた。
「ちょび髭と鍵十字が必要ね」とカズミが言った。笑ったのは僕だけだった。
合宿所は清潔な二階建ての建物で、一階にはキッチン、ダイニング、リビング、バス・トイレと、アトリエに使えるだだっ広い部屋が裏の庭に面して一部屋あり、二階にはアトリエの上部が吹き抜けている他は、寝室が四つ並んでいた。すっきりとした作りと内装で、趣味の良い家だ。裏の庭は野球場が一面取れそうなぐらいの広さで、敷地の境から向こうは針葉樹の林になっていた。
「学校の持ち物なんですよ」とサイトウ氏が僕に説明した。「先代の校長の別荘なんです」
寝室は、イワシタとカナクラ、ヤマモトとクニミ、僕とサイトウ氏が部屋を共有し、カズミが一人で部屋を使うことになったが、これも実に自然の成り行きである。カズミに言わせればこうだ。
「そうね。その後のこともそうだったわね。これからもずっとそうよ」
僕もそう思う。
しかし、訴えの聞き手たるサイトウ氏は、僕とカズミの間に何か作為的なものを感じたらしい。寝室に入って荷物を降ろしていると、彼はマフィアのボスのご機嫌を伺うようなおどおどとした口ぶりで、僕に尋ねた。
「先生、あなた、マノと親しいんですか?」
「親しいというほどじゃないですね」と僕は謙虚に言った。「でも、あの子は素晴らしい子ですよ」
「そうですか?」——彼はその不愉快そうな表情の裏で、『それはあなたがあの子に特別な感情を抱いているからではないのですか?』と言っていた。
「ええ」と僕は言った。
「なるほど」
「なにか?」
「いえ、別に。ただ、ずいぶん仲が良さそうに見えたもので」
「ああ、サイトウ先生。僕と彼女がデキてると思ってらっしゃるんですか? まさか! まさか! そんなことは有り得ませんよ。アメリカ人がハンバーガーを放棄しないように、フランス人がワインを放棄しないように、ギリシア人が選挙を放棄しないように、そんなことは有り得ません!」
しかし三十時間と十六分後、アメリカはハンバーガーを追放し、フランスはワインを拒否し、ギリシアは選挙を無視することになってしまった。
自然の成り行き、おそるべきかな!
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