第3話 まぬけチャンピオン起き上がる
世界まぬけチャンピオンのお墨付きを出してしまうと、彼女はしばらく僕を憎悪のこもった眼差しで見つめてから、いきなりたっと身を翻して歩道を駆けて行ってしまった。
僕は七秒ほどその場に立ちつくして、それから屋根裏部屋に戻り、デスクの上の受話器を取ると市立美術館に電話をかけ、今日団体で見学にやってきた高校の名前を聞いた。聞いたことのある私立の女子高だった。美術館の事務員に礼を言って受話器を置き、もう一度取り上げて今度はその高校に電話をかけた。
「わたくし、画家をやっている○○という者ですが、ちょっとうかがいたいことがあるんです。ひょっとして、そちらの生徒さんでパンケーキによく似た顔の子はいらっしゃいませんか?」
電話に出た中年の女性事務員は、それが誰であるかすぐに了解し、親切にも名前を教えてくれた。
みなさまご存知、その少女の名前はマノカズミという。
*
出会いが最悪のものだったにも拘わらず、現在では僕とカズミは非常にうまくやっている。昨夜も彼女は一人で遊びに来た。だいたい週に三日はやって来る。一度、彼女が我が家に入り浸るようになった始めの頃に、家の人間は心配しないのかという質問をしたことがある。彼女は平然とそんな物はないと答えた。
うそだ! うそだ!
彼女の父親は作家であり、母親の方はなんと、高名な美術評論家である。しかも、僕の作品に批判的な一派の急先鋒だ。カズミの目の良さは親譲りである。
しかし、カズミはそのことをずっと後になるまで明かさなかった。彼女に言わせれば、これは私とあなたの付き合いなのだから、母親は全く関係が無いではないかということだ。それには僕も大筋で賛成する。僕はなにも彼女に結婚を申し込もうとしているわけではない。
*
僕はカズミの名前を教えてくれた事務員に礼を言って受話器を置き、それからくるりと椅子を回して、部屋の隅っこに押しつけてあるベッドの上に転がり込んだ。
僕は世界まぬけチャンピオンである——そういった類のことを自分で薄々感じていなかったでもないが、やはり他人から言われればそれなりに落ち込もうというものだ。しかも、それを言ってのけたのは、自分では何もしていないご高名な評論家でも、自意識だけはやたらと貯め込んでいる同業者でもない。それならまだ言い返すことができるだろう。「じゃあ、そのお前らのやってることはなんなんだ」とか「お前ほどひどくはないさ」などなど。しかし僕に断罪の鉄槌を下したのは、他でもない、一人のギャラリーである。
ギャラリーに見放された創作者のことを何と呼ぶか? 好意的に呼ぶなら「ご隠居」である。率直に言うならば、「役立たず」だ。最も頼みにしなければならない人間から役立たずの烙印を押されたとしたら、一ヶ月の引きこもりなんて妥当なところではないだろうか。
ところが、見上げたことに(よくやった、僕!)僕はベッド上の引きこもりをわずか三分と十五秒で切り上げ、弾みをつけて起き上がると、洗面所へ行って髭を丁寧に剃った。それから歯を磨き、屋根裏へ戻ってクローゼットの中から一張羅のスーツを選び、五分ばかりネクタイの結び目と格闘してから、最低限の礼を失しない程度にブラシで髪型を整えた。
もちろんこれは外出の準備である。女子高に赴くとなれば、それ相応の準備は必要だろう。
*
ところで、十年ほど前に一度、僕は女子高を訪れたことがある。当時個人的に勉強を教えていた女の子の通うミッション系の学校で、普段は保護者でさえも男子禁制というところだった。僕が敷地立ち入りの栄誉に預かれたのは、ひとえにその女の子が手渡してくれた学園祭のチケットのおかげである。
「来週の日曜日なんです」と彼女は言った。「ちゃんとした格好してきてくださいね。そうじゃないと、校門のところで止められますから」
思うに、彼女は僕が教えてきたことの全てを合わせたよりも重要なことを僕に教えてくれた。女子高に潜入しようとするときはきちんとした格好をすること。そのおかげで僕は女の子だらけの文化祭を楽しむことができたし、カズミと再会することができたのである。
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