Gentian ―りんどう―

「ただいま!」

 美紀は玄関のドアを開けると明るい声で言った。

「おかえりなさい、遅かったわね」

 母が笑顔で出迎えた。

「うん、公園で友達とおしゃべりしてたから」

「寒かったでしょう? 急に冷え込んだわね」

「寒かったー!」

「あら、その花束、どうしたの?」

 美紀が抱えた花束を見て、母が聞いた。

「うん、今日おばあちゃんの誕生日だから」

「まぁ、綺麗。りんどう?」

「うん、おばあちゃん、この花好きだからね」

「おばあちゃん喜ぶわよ、見せてあげて」

 美紀の祖母の松恵はりんどうが好きだ。 毎年庭で丹精こめて育てていた。

 育てた花は仏壇に供えていたので、美紀はりんどうは仏花だとずっと思っていた。

 どうやらそうでもないらしい、と知ったのは最近のことだ。

 それを教えてくれたのは祖母だ。

 祖母は2年ほど前から寝込んでいて、今は庭仕事ができずにいる。

 それに最近は記憶が混乱しているのか、美紀のことを「美紀」だと判断できないときもあった。


 教えてくれたのは比較的しっかりしている時のことだった。

 ベッドから庭を眺めて、祖母はため息をついていた。

「りんどうが見たいねぇ」

「仏壇のお花だったら、お母さんがちゃんとしているよ」

 そう答えた美紀の顔を見て、祖母がふふ、と笑った。

「りんどうはね、仏花ってわけじゃないんだよ」

「そうなんだ」

「りんどうのあの紫色はね、昔から高貴な色とされているんだ。根っこは薬にもなる。縁起のいいお花なんだよ。それに、なによりかわいらしいだろ。だからばあちゃんは好きなんだ」

 それを聞いた美紀は、敬老の日にりんどうの花束を贈った。

 祖母はその花束をしっかり抱きしめてにっこりと笑った。

 

 それからしばらく、祖母の体調はあまりよくなかった。

 食欲も落ち、記憶の混乱も増えてきていた。

「おばあちゃん、調子はどう?」

 ふすまをそっと開けて、部屋に入った。

「あぁ、シズちゃんか。よく来てくれたな」

「違うよ、美紀だよ」

「美紀……あぁ、美紀か」

「おばあちゃん、お誕生日おめでとう」

 そう言って花束を渡す。

「かわいらしい花。えっと、なんていうんだっけ」

「りんどうだよ、おばあちゃん好きだよね?」

「あぁ、そうそう、りんどう。シズちゃん、ありがとう」

「美紀だってば」

 美紀がそう答えると、祖母は困惑した表情を浮かべた。

「まぁ、いいや。お花、花瓶に生けるね」

 枕元の空の花瓶を手に取り部屋を出た。


 洗面所で花瓶を洗い水を貯めた。

 鏡に映った自分の顔を見る。

 祖母の言う「シズちゃん」のことを美紀は知っている。

 記憶の混乱が始まってから、少しでも記憶の整理ができればと母が祖母の古いアルバムを取り出しベッドに置いていた。

 アルバムには子供の頃の祖母の姿から、結婚してすぐの頃の姿までが収められている。

 それを見ながら、祖母はよく子供の頃の話をしてくれた。


 不思議とアルバムを見ているときは「過去」のことは「過去」と認識できていた。

 そのアルバムの写真の数枚に「シズちゃん」は写っていた。

 小さい頃からの仲良しで、よくおままごとをして遊んでいたらしい。

 女学校に一緒に通っていた頃の写真もある。

 写真の「シズちゃん」と美紀はどう見ても似ていない。

 どうして間違うのか美紀にはよく分からなかった。


 花瓶を枕元に飾り、しばらく祖母のそばに座っていると、食事を持った母が部屋に入ってきた。

 祖母は自分で食事をとることができない。介助は主に母がしていた。

「おばあちゃんの調子、どう?」

 心配そうに母が聞く。

「うん、今は眠ってる」

「じゃあ食事はもう少し後にしようか」

 そう言って祖母の額にそっと手を触れた。

「熱は下がったみたいね」

「おばあちゃん、熱あったの?」

「うん……午前中に少し熱が上がって、門田先生に来ていただいたの。お薬、効いたのかしら」


 食事をベッドテーブルに置いて、母は美紀の隣に座った。

「ねぇ、おかあさん」

「なあに」

「なんでおばあちゃんは私のこと『シズちゃん』と間違うんだろうね」

「きっとね、戻っているのよ」

「戻ってる?」

「そう。一番、楽しかった頃に。おばあちゃんね、女学校卒業していくらも経たないうちに結婚したんだって」

「そうなんだ」

「でね、すぐ戦争が始まって、とても苦労したんだって」

「……『シズちゃん』」

「そう。ちょうど美紀と同じくらいの年齢の頃よ。将来の夢の話とか素敵な男の人の話とか『シズちゃん』としてんたんじゃないかな」

「私のこと、忘れちゃったのかな」

 美紀は悲しくなって言った。

「ううん。きっと覚えてる。でもね、どうしても戻っちゃうのよ」

「そっか……」

 うつむく美紀の頭を撫でながら母が言った。

「美紀、素敵な思い出をたくさん作ってね。あなたの人生の選択肢はたくさんあるのだから」

「……うん」

「じゃあ、しばらく寝かせてあげましょ」


 母の声にそっと席を立ち、部屋を出ようとした。

 ふと振り返り、祖母の顔を見る。

 どこか微笑んでいるような、そんな気がした。

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