Cherry blossom ―桜―
――空が高い
武彦は眩しそうに空を見上げた。
ついこの間までは入道雲が空を覆っていた。
今は刷毛でそっと撫ぜたような巻雲が上空を漂っている。
「もうすぐ冬か……」
武彦は昨日から少し咳き込みながらジャンパーのチャックをしっかり閉めた。この上着では冬は越せないだろう。どこからかもうすこし厚手の上着を手にいれなければ。
武彦の名字は益田という。その名字は3年ほど前に捨てた。
今は路上生活者、いわゆるホームレスだ。
その前は会社で働いていた。朝はほぼ始発から。夜は終電ぎりぎり。帰れるだけマシで会社に寝泊りすることも度々あった。
家族は妻と当時中学生の娘。
忙しく家にはあまりいない父親だったが、2人ともそんな武彦を気遣ってくれていた。
週末には家族サービスをしたいところだったが、仕事を持ち帰ることも多く、また、持ち帰らない日は一日ベッドで横になっていた。
そんな日は2人はTVの音なども静かに、武彦がゆっくり休めるように気を配ってくれていた。
娘の名前は「桜」という。桜の花が満開の日に産まれたから桜。今思い出せる桜との思い出は、いつも桜の花と共にある。
小学校の入学式。晴れ着を着て誇らしそうな桜の表情。
まだ仕事が忙しくなる前は、桜が咲くとお花見に家族揃って行った。
中学の入学式は仕事が忙しくなり始めたので行けなかったが、妻が撮影した桜の木の下で撮った写真の中の娘はセーラー服を着て大人びて見えた。
その写真は、今でも武彦の胸ポケットに入っている。ずいぶんとぼろぼろになってしまったが。
「あまり無理をしないで」
あの日、会社へ行こうとする武彦に妻が言った。
ちょうど桜の季節の頃のことだった。
「してないつもりだけど……」
「うそ。貴方、最近顔色……というか表情がへんよ……」
「ちょっと疲れてるだけだよ」
「無理が続くようなら、会社辞めてもいいのよ。蓄えはそれなりにしているから」
「馬鹿なこと言うなよ。俺がいなきゃ会社まわらないんだ」
「そんなことどうにかなるわよ」
「いい加減にしろ。とにかく行ってくる。今日も帰りは遅いから」
そう言って武彦は家を出た。
そのまま始発の電車に乗る。窓の外では誇らしげに桜の花がその花びらを散らしていた。 ふと手帳に挟んだ娘の写真を見る。
にっこり笑った娘の表情。桜は中学に入ってからテニス部に入った。
朝早くから夕方まで練習しているので、休みの日の夕食のときにしか顔を合わせることがない。その休みの日も最近は減ってきた。
最近は何度顔を合わせただろうか。
2人とも、自分を良く気遣ってくれている。なのに、自分はただひたすら働いて家にお金をいれることしかできない。
他の社員は「それが男の役割ですよ」と言っていたが、武彦は割り切れなかった。
もっと父親らしいこと、夫らしいことをしたい。
できていないと武彦が感じるのにもかかわらず、家族は武彦を父として尊重してくれている。
むしろ「もっと家族を見て」と言われた方が気が楽かもしれない、と最近は思うようになってしまった。同僚に言わせると、贅沢な悩みらしいが。
きっと自分がいなくても、家族はうまくやっていけるんじゃないかと思う。
手帳に写真をしまい、代わりに書類を取り出した。
今取り組んでいる企画の下地だ。まだまだ形になっていない。これをどうやってまとめていくか……そう考えているとふいに眩暈がした。
思わず隣の席に手をついたが、めまいは更に続き床に倒れこんでしまった。
「大丈夫ですか!?」
近くにいたサラリーマンが駆け寄ってきた。
「ああ、大丈夫です。ちょっとふらついただけで」
「今車掌呼んできますから。救急車依頼しましょう」
「大丈夫です、本当に」
そういっている間に隣の駅についた。本来はそこで降りる駅ではない。
「あ、降りる駅なんで降りますね」
「でも……」
「ほんと、大丈夫なんで」
そういってその駅で降り、しばらく休憩をした後、武彦は予定とは全く違う方向へと向かう電車に乗った。
そのまま電車をいくつも乗り継ぎ、遠くの街の繁華街にたどり着いた。
ふと携帯電話を見ると着信履歴がたくさんついていた。会社からや家族からなどだ。
電源を切り、そのままゴミ箱に捨てた。
カバンはどうしようか迷ったが、しばらく持っておくことにした。
そのまま衣料店に入り、ラフなシャツとズボンを購入した。試着室で着替え、今まで着ていたスーツは袋ごとゴミ箱に捨てた。
そうして武彦は「益田武彦」からただの「武彦」になった。
――空が高い
空を見ていると3年ほど前のことを思い出す。
随分自分勝手なことをしてしまった。
あの時は、なにもかも捨ててしまいたい、そんな衝動にかられたのだ。
仕事はおそらくなんとかなっただろう。自分の代わりはいくらでもいる。
家族はどうしているだろうか。そんなことを思う資格すら自分にはないのだが。
げほげほと咳き込みながらこれまでのことを思った。
あれからマサさんというホームレスと知り合い、アルミ缶や廃棄物を金に替える方法を教わった。
手元にあるキャッシュカードを使えばお金はあるのだが、それは使いたくなかった。
武彦はよくくる公園のベンチで休んでいた。
割と気に入っている公園だ。夏は蓮の花が咲き、春には桜が満開になる。
今は何の花も咲いていないが、居心地のいい公園だ。
「よっ」
不意に話しかれられて見上げると、マサさんだった。
武彦の隣に座り、にやりと笑った。
「こんにちは」
「空が高けぇなぁ、もうすぐ冬だぜ」
「上着を調達しないといけませんね」
「武さんよぉ、あんた、家族いるんだろ? それにまだ3年くらいだ。 そろそろ帰ったらどうだい」
「いやぁ、今更帰れませんよ」
「でも、あんた、最近へんな咳してるぜ」
「たいしたことないですよ」
そういう武彦の額にマサさんが手を当てた。
「熱があるんじゃないのかい?」
「いまちょっと体動かしてたからじゃないですかね」
「風邪だと思うけどねぇ。まぁ暖かくして休みな」
そういってマサさんは立ち去っていった。
涼しいというより少し寒い。温かい飲み物を買おうと自動販売機に向かった。小銭を入れようとして手がすべり、何枚かの硬貨が転がっていった。一枚はベンチで話している少女たちのの足元に転がっていった。
一枚ずつ拾い集めていると、ふと声がかかった。
「はい、どうぞ」
先ほどベンチでしゃべっていた少女だ。
「ありがとうございます」
そう言って受け取った。
若い女性たちはホームレスの武彦たちのことを露骨に嫌がる。
親切にしてもらったのは初めてではないだろうか。
覚えば桜もそろそろ高校生のはずだ。どんな風に成長しているだろう。
そう思いながらコーヒーを飲み、空を見上げた。
――空が高い
見上げているとどこまでも飛んでいけそうな気がする。
ずっとずっと遠くまで。
咳き込みながらベンチに横になった。
今日は朝から体調が悪い。
急な冷え込みが体に変調をきたしたのだろう。
横になって空を見上げた。
本当に飛んでいけそうな澄み切った空だ。
武彦がふっと目を閉じようとしたとき、一瞬桜の花びらが舞うのが見えた。
気のせいだ、武彦はそう思いそのまま目を閉じた。
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