Lotus

遠野麻子

Lotus ―蓮―

「みんな心に花を咲かせているのよ」

 ある公園に散歩に出かけたとき、池に浮かんだ蓮の花を見た彼女が言った。

「花?」

「生きているといいことも悪いこともたくさんあるでしょう?それがひとつひとつ『花』なのよ。私たち、心に花束を持って生きているんだわ」

「うーん」

 分かるような、分からないようなそんな気持ち。

 いいことが「花」なのは分かるけれど、悪いことも「花」なのかな。

 僕はちょっと疑問に思ったので彼女に聞いてみた。

「そうよ、悪いことも『花』なのよ。ほら、見て」

 彼女が池に浮かぶ蓮の花を指差す。

「知ってるでしょう? 蓮は綺麗な水じゃ綺麗な花は咲かせられないのよ」

「そうなんだ」

「にごった泥水から大輪の花を咲かせるのよ」


 彼女と初めて会ったのは、大学の図書館だった。

 僕はレポートの資料を探して書架の間を歩いていた。

 コンピュータが弾き出した目的の本を見つけて、手を伸ばす。

「あっ」

 その本に同時に手を伸ばしたのが彼女だった。

「あ……ごめんなさい」

 彼女がすっと手を引く。

「いえ、貴女もこの本読みたいんですか?」

「ええ。貴方もタオイズムに興味があるの?」

 僕が探していたのは、大学の一般教養で履修している哲学で出された、老子についてのレポートの資料だった。

「興味があるっていうか……レポートの資料を探していて……」

「それならどうぞ。私は少し読みたいと思っただけだから」

 そう言って彼女はにっこり笑い、立ち去っていった。


 2度目に彼女に会ったのはその次の日のこと。学生食堂だった。昼の学生食堂は満員御礼の大賑わいだ。席を探すのも一苦労する。

 大テーブルの角に空いている席を見つけ、僕はそこに近づいた。

「ここ、いいですか?」

「ええ、どうぞ」

 そう言った隣の席の女性が彼女だった。

「あ……昨日はどうも」

 僕がそう挨拶すると彼女は少し不思議そうな顔をした。

「あの、ほら、昨日図書館で本を譲ってもらった……」

「ああ!」

 彼女は合点がいったという顔でうなずいた。

「レポートは書けた?」

「それが……書きたいことは頭に浮かぶんだけど、文章に起こそうとするとよく分からなくなって」

「そう……資料は足りてるの?」

「あるにはあるんだけど、難しくて少し分からないんだよね」

 彼女は少し顎に手を当てて考えてから言った。

「良かったら貸そうか?」

「え?」

「タオ……老子についてのレポートなんでしょう?」

「うん」

「あれはね、深く考えちゃだめよ」

「考えないとレポート書けないよ」

 そうじゃなくて、と彼女は笑った。

「分かなくてもいいの。でも分からない、で思考を停止させちゃだめなのよ」

「そうは言ってもなぁ……」

 くすっ、と彼女が笑った。

「『分かりやすい』、タオについての本があるから貸すわ」

 「分かりやすい」を強調して言った。

 僕たちはメールアドレスを交換し、少し話をしてから別れた。

 それが僕と彼女の出会いだった。


「そもそも」

 池の欄干にもたれて彼女が言った。

「『いいこと』も『悪いこと』も自分自身の主観的な見方にすぎないわよね」

「そうだね」

 僕も欄干にもたれてうなずく。

「自分にとって心地いいから『いいこと』で、逆だから『悪いこと』なんだわ」

「うん」

「いいこと探しばかりをしようとするから、悪いことが起きたときにそれを忌避しようとするのよね」

「そりゃあそうだよ。『悪いこと』なんて起きないにこしたことはないさ」

 彼女は僕の顔を覗き込み、くすっ、と笑った。

「じゃあ、絶対に『悪いこと』が起きないように生きることはできる?」

「それは……無理だなぁ」

「でしょう? たとえば『悪いこと』が起きたときに『あの人はあんなに幸せそうなのに』だなんて、他人と比べるって不毛じゃない?」

「それはそうだね」

 僕はうなずく。

「悲しいとか、悔しいとか、つらいとか、マイナスの感情はあって当たり前なのよ。それを『花』だと思えば……ほらね?」

 彼女は欄干から身を起こし、振り返って蓮の花を指差した。

「こんなに綺麗な『花』がたくさん咲くのよ」

「『花』かぁ……」

「ほら、あの人も」

 ベンチで寝転ぶホームレスを指す。

「あの子も」

 池の鯉にパンをやっている子供を指す。

「みんな心にたくさんの『花』を持って生きているんだわ」

 彼女は僕を見てにっこり笑った。

 僕のバイトの時間が近づいてきた。もう少し蓮を眺める、という彼女を置いて僕は公園から立ち去った。

 

 そのまま夏休みに入り、バイトに明け暮れていた僕はしばらく彼女と連絡を取ることはなかった。

 彼女から電話があったのは8月も終わりに近づいてきた頃のことだった。

「留学しようと思います」

 電話の向こうで彼女はそう言った。

「えっ? 突然どうしたの?」

「突然じゃないのよ。前から考えていたの……というか、もう現地にいるのよ」

「どこ?」

 電話の向こうで彼女が少し黙った。

「ふふ、教えなーい。帰ってきたら話すわ。たくさんの花を持ってね」

「もう……まぁいいや。がんばって」

「うん、貴方もがんばって」

 じゃあね、そう言って彼女は電話を切った。


 それから数年。初めの数ヶ月は連絡が取れたが、その後彼女からは連絡はない。こちらから電話をかけたこともあるが、使われていない番号だというアナウンスが流れるだけだった。

 メールも何度送っても宛先不明で返ってきた。

 彼女は今、どこで花を咲かせているのだろうか。

 僕も考えようと思う。人々の心に咲く、たくさんの花のことを。

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