花束を持って、保護猫カフェへなんて行きたくない


 保護猫カフェに通っている。猫は生きものなので、当然、ときどき死ぬものもある。体調を崩した猫は別室などに移され、店のスタッフに手厚く看護される。ある客は寄付をし、ある客は療養食を贈り、たいていの客は祈る。


 運よく快復するものもいれば、命を落としてしまうものもいる。



 保護猫カフェにいるのは、思い切った言い方をするなら、選ばれた猫だと思う。猫は子をたくさん産む。里親が決まっても、決まっても、子猫は生まれてくる。新たに生まれる猫のほか、高齢の飼い主が飼えなくなる、あるいは飼い主が若くして病気を患った、家族が喘息になったなどで手放される猫もいる。

 

 あまたいる猫のうち、人間の目にとまったものが保護される。


 乳飲み子ならば体温を保ち、急変する体調にハラハラしながら数時間ごとに授乳し、排せつを促し、病気やケガをしていれば医療にかける。


 いろいろなひとが「目の前の命をほうっておけない」というプリミティブな感情と、「助けるなら、終生の幸せが約束されるまで、責任をもって世話をする」という覚悟をもって、猫を育て、世話をし、預かり、里親を探す。


 人間に発見され、ケアされ、最後の「里親を探す」の段階までたどりつき、さらにある程度人なれした猫が、保護猫カフェにやって来る。


 あくまで人間目線だが、彼らが店にやってくるのは、「困った排除されるべき動物」「行き場をなくした動物」から、たった一匹の、かけがえのない家族としてのナントカちゃんになるためなのだと思う。


 そこへたどりついてなお、亡くなってしまう猫も出る。1歳未満の子猫は、よく、FIPという病に命を奪われる。若くして腎臓機能が弱く、医療ケアが必要な猫もいる。長じて難病が発覚する猫もいる。


 FIPは恐ろしい病気で、子猫がかかるとあっという間に命を落とす。最近では薬が出てきているようだが、高価なこともあり、使用にはハードルが高い。


いつかの春先のこと。わたしの通っている店で、子猫がFIPになり、亡くなった。二週間前まで、ぴょんぴょんと跳ねまわっていたのに。短い猫生を閉じたその猫のために、花束を届けに行く。

 人懐っこくて遊び好きな、愛らしい子猫だった。生きていれば、そう遠くないうちに飼い主希望者が現われたに違いない。いや、客のわたしが知らないだけで、すでに申し出はあったのかもしれない。どこかの家で家族として名前を呼ばれ、いないことなど考えられない存在になり、16歳ぐらいになっても、


「さいきんは、猫も20歳ぐらいは生きるっていうし。まだまだ若い、長生きしてね」

なんて言われ、最期は家族に囲まれて、惜しまれて惜しまれてこの世を去る。そういった年月を過ごすはずだった。


 猫のほんとうの気持ちはわからないけれど、すくなくとも人間はそういったことをしあわせと想定して、猫を保護したり、里親を探したり、保護猫カフェに通って応援したりしているのだと思う。だから、その道半ばで死んでしまった猫の骨壺なり遺体なりを、華やかに飾ってやりたいと思うのだ。

 その猫にとって、ワンオブゼムの人間にしか過ぎない客だけれど、その猫をワンオブゼムにはしたくないのだった。きっと、花はないよりあったほうがよい。


 花束を渡し、子猫と遊ぶ。もっとしんみりするかと思ったけれど、無邪気に遊ぶ子猫の生命力を見ていると、気がまぎれた。小さな黒猫が、わたしのロングスカートに入って遊ぶ。こぶりな頭に、やや吊り目のアーモンド形の目、ぴんとした大きな耳。『魔女の宅急便』に出てくるジジにそっくり。

 遊ぶのは大好きだけれど、なでると「ふーん」という顔でしれっとよける。同じおもちゃにじゃれつこうとする猫がいると、ご機嫌ななめになる。そんな性格も愛らしく、スタッフさんや客たちからも、猫たちからも(たぶん)、「みんなの末っ子」のように目されている猫だった。スカートから顔をひょっこり出して遊ぶ黒猫に、「あんたは長生きしなよ」と語りかけた。


 半年後、わたしはまた花束をもって店に行く。ジジにそっくりなあの黒猫が亡くなった。当時から、腎臓が弱いということはわかっていた。でも、あんなに元気にスカートに潜り込んで遊んでいたじゃないか。


 腎機能が弱ってからも、黒猫はがんばって生きていた。スタッフさんも懸命にケアをつづけた。療養中の猫は、基本的に別室で安静にするものだが、もう危ないかもというときに、ひと時だけ店の片隅に戻ってきたことがある。「そんな状態の猫を戻して大丈夫なのか」と思ったけれど、客たちは体調をおもんばかってあまり近づかず、

ほかの猫たちはなんとなく入れかわり立ちかわりやってきて、猫用ベッドで丸まった黒猫に、そっと寄り添っていた。

 黒猫は、ひとや猫の気配に安心しているように見えた。この猫の性格を考えると、いまこのとき、一匹で静かに療養するよりも、ここにいるのは悪いことではないのだろう。スタッフさんが判断した理由が、なんとなくわかった。

 店を出る前に、すこしだけ黒猫をなでた。その瞳を見て、もう「がんばって」とは言えないことを悟った。いまにも何かが遠のいていきそうな、瞳孔のあの動き。


 花束を店員さんに渡すと、「よかったら、遺体と対面されますか」と声をかけてくれた。バックヤードで会った黒猫は、亡くなってなお、愛らしかった。

 おもちゃはひとり占めしたいタイプ。

 トイレのしつけはおそらく完璧だろうに、だれかほかの猫に注目が集まっていると、気が引きたくて粗相をする。

 それでもスタッフさんも客も、「黒猫ちゃんは仕方ないなあ」と、不思議と笑顔になった。

 その生き様を、死してなおつらぬいている。遺体さえも愛らしく見せている。そんな気がした。


 猫を見ていて思うのは、彼ら彼女らが「いま」にフォーカスして生きているということだ。人間目線で言い換えると、すべての猫は、懸命に生きている。個々の性格により、その「懸命さ」の在り方は異なるけれど。

 黒猫が何を思って生きていたのか、死んだのかわからない。ただ、黒猫は黒猫らしく、ただ懸命に生きた。おもちゃを譲らないのも、おしっこで気を引くのも、腎機能が低下しきってからも長くこの世にとどまったのも、ほかの猫に寄り添われて満足そうにしていたのも、彼女の懸命さ、あるいは生き様の表出であり、それが人間には「愛らしさ」と映っていた。


 長く黒猫を看病していたスタッフさんと思わず泣いた。


 フロアに戻り、別の黒猫に声をかける。それは逝った黒猫の母猫で、やはり腎臓が弱かった。静かで穏やかで、人にも猫にもそっと寄り添ってくれる。母猫といえどもまだまだ若い。なんだかんだ身体の特性を理解してくれる家族のもとへ行って、長生きする。そんな若猫らしい幸せをきっとつかむのだ。つかんでほしい。そう思って母猫をなでた。


 一年がたち、また、わたしは花束を持って店へ向かう。

「母猫に、家での幸せを」それはおそらく、スタッフさん、わたしをはじめとする客、みんなの願いだった。でも、叶わなかった。


 多くの猫は、元気いっぱいに店で過ごして"卒業"し、家でのびのび暮らす。ただ、こぼれ落ちるように命を落とすものもいる。

病気の猫はかわいそうなのか。

死んでいく猫はかわいそうなのか。

 わたしはそうは思わない。 彼らは健康であろうと病になろうと、状況に応じ、ただ「いま」を懸命に生きているだけだ。憐れむことはできないと、わたしは思う。


それでも。

くやしいとは思う。


人間が考える「猫としてのしあわせ」が目前だったのに。いろんなひとがそれを願って、つなげてきたのに。


 花束をオーダーしながら、猫がうんと貴重な存在になればいいのにと思う。すべての猫が、生涯、家でのんびりのびのびできればいい。死ぬときは、棺にいっぱい花を詰めてもらうのだ。こんなワンオブゼムの客が持ってきた花束ではなく、ともに暮らした家族が用意した花を。「新たな飼い主を探している猫」なんてめったにいなくなって、保護猫カフェなんてなくなってしまえばいい。つくってもらった花束を抱えながら、そう思う。


 花束を持って、保護猫カフェなんて行きたくない。


 人間のエゴで、そう思う。

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