いまはいない猫

「丸毛さんッ! 猫の! 散歩ほど! 非効率なものはないです!」


まだ付き合う前だったろうか。夫は力説していた。


わたしたちが出会う10年ほど前まで、夫の実家で飼っていたという猫。

その猫、〝タロちゃん〟は、お散歩をしたがったらしい。

現在、猫の散歩に対しては否定的な向きが多く、わたしたち自身も「猫は散歩させないほうがよい」と考えているが、そこは10年以上前のこと。


猫の散歩を担当していたのは、もともとは今は亡き義父だった。

しかし、義父は病に臥し、担当は夫になった。

仕事を終え、義父の入院先へ顔を出し、所用をすませ、夫がぐったりとしていると、「にゃーん」と怒気をふくんだ声が玄関にひびく。


「タロちゃん、きょうはやめようよう」と言いつつ、「に゛ゃーん、に゛ゃーん」の声に負け、夫はリードをタロちゃんにつけ、夜道を歩く。

タロちゃんは気になるしげみがあればガサガサと入って心ゆくまで堪能し、先を急ぎたいときはタタタッと駆ける。

ときにはひとの家のガレージや庭に入りたがる。夫は「タロちゃん、だめ」と、それを必死で止める。


「猫はね、犬みたいにタッタッタッとは歩かないですから。好きなところをウロウロ、ガサガサして、そりゃもう時間が読めない……」


夫はまるで、現在進行形のできごとかのようにボヤく。わたしは猫の散歩をしたことはないが、猫と犬の散歩の違いは、想像できる気がした。


「タロちゃん、もう帰ろうよう」


夫が抱っこして帰ろうとすると、タロちゃんは前脚をつっぱってぐいーっと夫を遠ざけ、フーッ! シャーッ! と怒り、お散歩続行。


「あれには、ほんとうに困って……」


義父が倒れ、たいへんなことが重なった時期の話だが、タロちゃんに関するボヤキには、あたたかな気配がある。


義父が鬼籍に入り、そして、タロちゃんも間もなく逝った。

わたしは義父にもタロちゃんにも会ったことがない。


義実家へ結婚の挨拶に行ったとき、むかしのアルバムをたくさん見せてもらった。

そこにはいつも、タロちゃんがいた。

夏、Tシャツに短パンでくつろぐ家族の真ん中に、タロちゃん。

庭でタロちゃんを抱く笑顔の義母。

撮影者である義父の姿は、ほとんどない。

ただカメラを家族に向ける視線から、伝わってくるものはある。


「お義母さんは、タロちゃん抱っこできたんですねえ」

「そうねえ。ほかのひとが抱っこすると、すぐ前脚でぐいーっとやるけど」

「おかんだって、あんま長時間は抱っこできなかったよ」


「タロちゃん、庭に鳥が来るとすっげえ興奮してたなあ……」

「そうそう、つかまえちゃうんじゃないかと思ってハラハラしたわ」

「オトンは『タロちゃんならできる』って応援してたけどね……」


「うわー、タロちゃん、お腹、ふっかふかですねえ!」

「俺、よく『タロちゃーん、仕事行きたくないよぉ』ってお腹に顔をうずめてたよ……」

「毛玉ができちゃうから、お手入れは大変だったね」


いまも、ときどき、タロちゃんのことは夫婦の、あるいは義母との話題にのぼる。

義実家には、たくさんタロちゃんの写真が飾ってある。

夫側の甥っ子は、「ぼくもタロちゃんに会いたかったな」と言っているらしい。


「でもタロちゃんはやさしいよ、うちのメリちゃんなんて、お腹に顔をうずめさせてくれなかったよ。そんなことしたら、爪あり猫パンチが飛んできたね」

わたしの実家にかつていた猫の話が出ることもある。


「そこへいくと、ヨーコさんとこの弥生ちゃんはやさしかった!」

「そう、初対面の俺のことを、なめてくれた……。『ざりっざりっ』って」

共通の知人であるヨーコさんは、すこし前まで、弥生ちゃんという猫を飼っていた。

まだ交際するかも、とさえ考えていなかった我々を、「猫、見にこない?」と誘ってくれ、その出来事はすくなからず我々の距離をちぢめてくれた。

その弥生ちゃんも、もうこの世にいない。


いまはもうここにいない猫たちが、我々の心に息づいている。

会ったことのないタロちゃんでさえも、夫や義母の話を通じ、わたしの心に存在がある。

猫たちがくれたものは、その死後も、我々の心に残る。

それは猫にかぎらず、動物全般、家族として暮らせばそうなのかもしれない。


猫自身はどうなのだろうか。

いつか猫と暮らせたら、そうしたら我々も猫になにかを与えられるのだろうか。

与えられたらいいな、と思う。

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