31. 終章
「ラーメン一丁! ギョウザ一枚ぃ!」
「はいぃ、ラーメン餃子ぁ!」
最初の日、秋子は厨房にいる僕を見て、目と口を丸くした。
「今日からお世話になります、アルバイトの波多野です。よろしくお願いします!」
僕が両手を脇に揃えて体を二つ折りにすると、我に返った秋子は「ちょっとぉ、おかあさん、どういうことよぉ!」と、びっくりするような大声で里恵さんに詰め寄った。
「だって、あたしももっとお父さんの介護ができるようになるもの」
「そ、それは……で、でも、アルバイトなんてうちに雇う余裕あるわけないじゃない!」
「あぁら、だいじょうぶよぉ、これからは前みたいにお店をずっと開けられるんだからぁ、旅行のお客さんだってたぶん来てくれるしぃ」
母娘の大喧嘩をBGMにして、僕はランチタイムに備えてチャーシューのスライスに集中した。この店に入って初めて知ったがこれが意外と危険な作業なのだ。
その前の一か月間、僕は隣町の小さな空き家からここに通って里恵さんに仕事を教わっていた。役場の嘱託を続けている秋子はランチタイムの手伝いが終わると夕方の営業開始まで戻ってこない、夏菜も昼間は学校だから僕が来ている事はうまく隠し通せた。
里恵さんは長い間夫と守ってきたあの味を見事なスパルタで僕に叩き込んでくれた。僕は僕で菓子職人だったから食べ物の扱いは素人ではなかったし、スパルタ修行も佐橋さんの弟子だったおかげで特に苦にはならなかった。
「今のあなたがあの娘にしてやれる事は、何もないんです」
里恵さんにきっぱりとそう言われたとき、僕は「やっぱり」と思った。絶望と深い後悔が体を包んで、もう秋子には何もしてやれない、償いすらさせてもらえないんだと、僕は自分という人間のふがいなさを心の底から呪った。
だから次に里恵さんの口から出た言葉に、僕は自分の耳を疑った。
「ただもし本当にあなたがあの娘に許されたいだけだと言うのなら、一つだけ試せる方法があるかもしれません」
驚く僕の顔を見ながら、里恵さんは厳しい表情のままこう続けた。
「私はいま『今のあなたが』と言いました。あなたはさっき、あのとき秋子を選んでいたら他のすべてを捨てていたと言いましたね、それが嘘ではないことを証明できますか? それがあなたをあの娘に近づかせる最低限の条件です」
そこまで言って里恵さんは大きく深呼吸をした。彼女が次に何を言おうとしているのか、そのとき僕にも分かった。
「あなたのすべてを捨ててください。もしそれが出来ないのなら、二度とあの娘の前に現れないでください」
*
「県議会議員候補ぉ、星琢蔵。地元の星ぃ、みんなの星ぃ、タクゾータクゾー、ホシタクゾーが、愛する地元に戻ってまいりましたぁ! よぉろしくお願いぃ、いったしまぁっすぅ! あぁりがとう、ごっざいまぁっすぅ!」
酷く五月蠅い声で目が覚めた、もしウシガエルが日本語で叫べたら、こんな感じだろうと思った。
外を見ると歩くようなスピードでのろのろと走る選挙カーの窓から、白い襷をかけた男がやたらと大きな体を半分以上乗り出して、店に向かってちぎれるかと思うぐらい片手を振っていた。
車が通り過ぎてスピーカーの声が優しいウグイス嬢に交代すると、どうせ起こされるならこっちのほうが良かったなと少し腹がたった。軒先のコンクリートに目を落とすと、大粒の雨ジミが一つ二つと増えていくところだった。
店の中にはラジオから流れるよくわからない音楽に合わせて、相変わらずよくわからないダンスを踊っている夏菜がいた。歌舞伎だけでも十分だろうに、よさこいまでやるなんて、本当に体を動かすのが好きな娘だ。
夏菜は秋子が僕と出会ったときと同じ十五歳になった。小学生で父親を亡くした彼女がこれほど明るく育ったのは、秋子や里恵さんはもちろんだが亡くなった父親の影響が大きいのではないかと思う。会う事が出来なかった秋子の夫の人柄を、僕は朗らかに笑う夏菜の顔を見ているだけでなんとなく想像できた。人見知りをしない夏菜は僕を「おじさん」と呼んで、わりとすぐになついてくれた。
そして秋子は……秋子は僕を今でも無視している。どうしても用がある時だけ僕を「波多野さん」と呼んで、まるで恨みを晴らすようにこき使う。
彼女はいつか僕を許してくれるだろうか、いやそんな日はいくら待っても来ないのかもしれない。だがそれでもいい、今の僕はここで君たちの顔を見ていられるだけで幸せなのだから。
夏菜はそんな僕と秋子の様子を見て、このおじさんと自分の母親の間には、自分の知らない何かがあるに違いないといぶかしんでいるらしいが、もしかしたらただ面白がっているだけなのかもしれない。
そういえば夏菜はこうして店を手伝って、ちゃっかり小遣いを貰っているそうだ。里恵さんに訊いたらあの頃の秋子もそうだったというから、親想いの孝行娘だとばかり思っていた僕は、少しだけ秋子に騙されていたらしい。
他にも里恵さんからは面白い話を聞いた。里恵さんはこっちの高校を卒業するとすぐに東京に出て、葛西の信用金庫にしばらく勤めていたそうだ。そこで完璧な標準語をマスターしたと思ったのに、地元に帰ったらすぐに訛りが戻ってしまって、どっちつかずの変な言葉になってしまったと今でも時々気にしている。それで秋子には初めからなるべく標準語を使わせたらしい、秋子の少し丁寧すぎる言葉遣いにはそういう事情があったのだ。
あの頃、僕が東京から来たと言っても里恵さんはこの事を言わなかった。なぜかと訊くと「えぇっと、そうだった? 何でかしら……ああそうそう、だってあなた元は横浜の人って言ってたでしょう? 同じ海辺でも葛西じゃ横浜にかなわないもの。川の向こうなんて千葉だし」と葛西と千葉の人が聞いたら憤怒するような事を、さらりと言ってのけた。
旦那さんとはその頃出会って、私と結婚したいならついてきなさい(こんな言い方はしていないと思うが)と半ば強引に里に連れ帰ったらしい。でも肝心の旦那さんの素性は、何度訊いても怪しい笑顔を返すだけで教えてくれない。
「なっちゃんたちって、里の湯小屋には行ったりするの? 古いほうの」
ラジオの曲が途切れた時、汗を拭いている夏菜にふと訊いてみた。
「ああっ、おじさん、見に来る気でしょお! やだぁ、里の
「あはは、そっかぁ、やっぱりそういう時代なのか」
――この先の子は、湯小屋に来なくなっちゃうのかな――。
あの頃、そう寂しそうに言っていた秋子の顔が、目の奥に蘇る。
あっちゃん、やっぱり心配通りになっちゃったみたいだよ――。
「おじさんってばぁ、本当わぁ、見たいんでしょう?」
夏菜が茶目っ気たっぷりの目で、下からのぞき込むように僕を見た。懐かしい目だった、全てを投げうってでも取り戻したいと思った、大切な思い出とそっくりな。
「そぉんなに、見たいんならねぇ……」
夏菜が教えてくれたのはあの時間だった。僕と秋子が出会った、湯小屋に誰もいないはずの時間。幸せがぎゅっと詰まったあの時間。
普段は行かなくなっても、人の来ない時間を狙ってなら、まだ遊びに行く
突然大きな雷が鳴った、開け放った戸口から激しい雨が吹き込んできた。一旦暖簾を中に入れよう思ったとき、丁度それを分けて入ってくる人影があった。青い短パンを穿いて日焼けをした青年で、ずぶ濡れの白いTシャツが、逞しい胸板を覆う浅黒い肌に張り付いていた。
「いらっしゃい!」
「ひさしぶり!」
最初は誰かわからなかった、たかが一年ぐらいで子供はこんなに逞しくなるものだろうか。記憶には無い広い肩幅は、僕がついになれなかったダビデ像を思い起させる。
「輝彦、なんで」
「盆休みだよ父さん。今年は忙しくてお盆も交代制なんだ」
「休みをくれたのか? 佐橋さんが」
「時代だよ。『今時休みがなきゃ、新卒は集まらんぞ!』なんて爺ちゃん…いや社長に言ってるんだ、嘘みたいだよね」
「まさか……冗談だろ?」
店先には前後に振り分けの荷物を満載したスポーツタイプの自転車がとめられている、大学時代の輝彦は自転車旅のサークルに所属していた、エンジンの有無はあるけれど親子揃って二輪車と旅を好きになった。
訊けば輝彦はこの先の只見で行われているサークルの合宿に指導に行くそうだ、ここはちょうど通り道だから父親の様子を見に寄ったと言う。
まあ目の前の道を通るのに無視して通り過ぎたら確かにおかしいが、それは僕が輝彦に恨まれていなければの話だ。どうやらその心配はなく、会社にもうまく馴染んでくれたらしい。喉に引っかかっていた小骨が取れた気分だ。
「えっ、え? ええ! おじさんの息子さん? うっそー!」
何が「うっそー!」なのかが気になるが、夏菜はそう言い残してなぜか店の奥に駆けていった。仕方無く僕がタオルを取ってきて輝彦に渡す。
「サンキュー。その格好、意外と似合ってるね」
「ラーメン屋の親父に見えるか? お前と同じでまだ新米だけどな」
「まあまあだね」
「そうか、まあまあか」
それでも嬉しい。
「急ぐのか?」
「明日の夕方までに行くとは言ってあるけど」
「なら余裕だな、今夜はうちに泊まれよ」
「やった、実は期待してたんだ、今日は暑くてもうへろへろだよ」
「後で地図を描いてやるから先に帰ってろ、それと明日は途中にいい温泉場があるから寄っていけよ、ここまで来てあそこに寄らない手は無いぞ、絶対だ」
「へえ、父さんがそんなに言うのって珍しいね」
「なじみの湯小屋があるんだ、静かでお勧めの時間があって……」
しばらく二人で話していると、ガソリンスタンドの名前が書かれた鏡の前で、新しいブラウスの襟を直し、リップも塗り直して頭にかぶった三角巾の曲がりまで丁寧に直した夏菜が小走りで戻って来た。店の中で走ってはいけないと、いつも秋子にきつく言われているのに。
「川魚定食もお勧めですが、私のお勧めはチャーシュー麺です。チャーシューはなんと、おじさんの手作りでぇす!」
夏菜は僕が見たことの無いすました笑顔で言った、化粧もしていないのに頬が赤い。
あれほど激しかった夕立がいつの間にかやんでいた、日を遮っていた厚い雲が通り過ぎると、夕立の間黙り込んでいたアブラゼミがさっそく一匹鳴き始めた。表のコンクリートが白く乾き始めて、真夏の太陽の反射が店の中を明るく照らした。
「へぇ、明日あのお風呂に行くんですかぁ。里の温泉は最高ですよぉ、だって千年も前から湧いてるんですからね!」
夏菜の口上が始まった、秋子ほどではないがこの娘もここが大好きだ。夏菜は注文の事などすっかり忘れて輝彦と話し込んでいる、僕が苦笑いしながら厨房に戻ろうとすると、先回りした風が暖簾を揺らした。
日を浴びた草の香りにつられて振り返ると、テーブルを挟んで笑う若い二人の姿が、なんだかとても眩しく見えた。
(了)
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