30. 旅路

 工場に後輩もできて、俊彦ももう見習いとは言われなくなってきた頃の事だった。

 饅頭の皮に餡を詰める自分の手を見ながら俊彦はふと思った、自分はこうして黙々とものを作る事は好きだ、でも経営や人付き合いみたいな事には、あまり興味が持てない性分なのかもしれない――。


 だがそう思ったところで自分が会社を守らなければならない事は変わらない、だからそれから長い間、この気づきの事は忘れていた。


 好景気の最中に夢のような投資話に浮かれていた人たちは、景気が落ち込むと神隠しにでもあったかのように姿を消した。そしてしばらくすると、どこそこの誰が夜逃げしたとかいう噂ばかりが頻繁に耳に入るようになった。

 だいたいが小さな会社ばかりの業界なのに、伝え聞いた彼らの負債はどれも耳を疑うほどの金額だった。長く土地に根付いた商売をしてきた人たちだ、担保になる土地を持っていた事が災いしたのだ。


 ある日、祖父の代から懇意にしていた取引先の社長が先代に借金を申し込みに来た。見た目がふくよかで性格も穏やかな人だったので、工場の皆からは『えびすさん」と呼ばれていた。でもそのときのえびすさんは、痩せて生気が無くなった顔におそらく心労と寝不足のせいで血走った目をぎらぎらとさせていた。


 先代はえびすさんに金を貸した。会社ではなく個人の金だからそう大した額ではなかったはずだ、それでもえびすさんは申し訳なさそうに何度も繰り返し頭を下げていた。

 翌日、えびすさんは家族を連れてどこかに消えた。後でわかったが、やはり不動産投資でとても返せるはずのない借金を抱えていたそうだ。それを聞いた先代は「死なないでくれただけ、ありがたい」と言って目を伏せた。


 贈答用の高級菓子は、先代の想像通りまったく売れなくなった。だが先代はすでに大手のメーカーやスーパーを足しげく回って、大衆菓子の製造受託契約をとりつけていた。


「簡単に儲かる投資があるのに、あんな話に飛びつくなんて、あいつは大馬鹿だ」「大手に老舗の看板を売りやがった」知り合いの中には、陰で先代をそんなふうに揶揄する者もいた、だが景気が目に見えて落ち込み始めると彼らはまず自分の社員の首を切り、それでも耐えきれなくなると家や店を人手に渡し、廃業した。


 先代の葬儀の後、先代と親しかった人たちから聞かされた。「うちを銀行に頼らなくてもやっていける会社にするんだ」先代は若い頃から深酒をするたびにそう漏らしていたそうだ。

 それは銀行の支配で夢を諦めなければいけなかった先代の、恨みにも似た執念だったのかもしれない。だがそれでも先代はうまい儲け話に飛びつかなかった、金さえあれば銀行の言うことなど聞かなくて済むはずなのに。


 社員やその家族の事を考えたのは事実だろう、だがもしかしたら先代は投資の元手を銀行から借りる事が嫌だったのかもしれない、失敗すれば銀行に弱みを握られる。

 先代は何があっても俊彦を自分と同じ立場には追い込みたくなかったのではないか、嫌でも跡を継がなくてはいけない、大切なものを諦めなければならない悲しみを、息子には味合わせたくない。そんな親の愛情が、周囲がこぞって投資に走ったあの時期でも、先代にあそこまで慎重な行動をとらせたのかもしれない。


 先代だって本音では俊彦に跡を継いで欲しかったかもしれない、だが息子の選択肢は奪いたくなかった。

 承継まではまだ間がある、その間に自分が事業を守り通し発展させられれば、息子に無理な選択を迫らないで済むのではないか。先代もまさか自分が父親と同じ病気で若くして亡くなるとは思っていなかったのだろう。

 俊彦からは完璧な経営者に見えた先代も、父親としてはずっと葛藤を続けていた。だがその父の思いが若い俊彦には伝わっていなかった、俊彦は悩み苦しんだ末に一番大切なものを捨てた。


 ここまでだな――。


 俊彦がそう思ったのは実は最近の事ではなかった、もうずいぶん前からそう思っていた気がする。

 本当の俊彦はもっと気ままな人間だ、先代のような時流を読む特別な目を持つわけではない、大勢の人々の生活を支えながら生きることに、耐えがたいプレッシャーを感じるごくありふれた人間だ。


 俊彦はあの時の気づきを思い出した、自分はこういう事には向いていない、自分はここで生きる人間ではないのではないか? その疑問はその後もずっと心のどこかで燻り続けていた。

 会社を去ると決めたとき、俊彦はそれまで吐露することが出来なかった思いを、初めて役員たちの前で話した。


「社長になって以来、僕は精一杯自分の出来る事をやってきました、時にはそれ以上の事をやった自負もあります。でも人にはやはり……うまく表現できませんが、何か”天分”のようなものがあると思うんです。残りの人生に何があって、どう終わるのかを悟ってしまったとき、人は自分に与えられた本当の居場所を探したくなるのかもしれない。きっと僕にもその時が来たんだと思います」


 そこまで言って気がついた。


 詩織も、そうだったのかもしれない――。


 次の社長は輝邦に頼んだ、輝彦が一人前になるまでのいわば繋ぎだったが、いつもと変わらない笑顔を浮かべた義父は、すべてを承知した上でその申し出を引き受けてくれた。自分の勝手な都合で会社を去ることを若い輝彦には申し訳なく思ったが、幸い輝彦自身は会社を継ぐことがそう嫌ではなさそうだった。

 今なら稀代の職人である佐橋がまだいる、経営には輝邦もいる、それぞれに最高の才能を持った人たちが輝彦を指導する。輝彦がもし本当に会社を継いでくれるとしたら、将来のためにこれ以上の幸運は無いと思う。


 銀行にこの事を伝えると、かつて後継選びにあれほど露骨に口を出した銀行が、すんなりとそれを認めた。これも会社が大きくなって他の金融機関とも取引をはじめたせいだろうと、昔を知る佐橋は八十歳を過ぎても全部自前の奥歯を悔しそうに噛みしめた。


 先代が店を継ぐ時、先に候補になっていたのは佐橋だった。

 口さがない人たちは、佐橋が店を乗っ取るつもりだと噂したが、実際は店を継ぎたくなかった先代の力になろうとしていたのだと、先代の死後、俊彦は母親から聞かされた。

 若い頃の佐橋にとって先代は年が離れた弟のような存在だった、先代は気が弱くてなかなか友達が出来なかった息子の兄代わりでもあった。佐橋はあのとき先代の力になれなかった事をずっと悔やみ続けていると、母親は今でも時折口にする。


 俊彦たち夫婦は輝彦が会社を継ぐまでは籍を抜かないことにした、会社の株も時間をかけて贈与するつもりだから、たぶん世間からはそれほど大きな変化とは受け取られないと思う。会社は優秀な競走馬みたいなものかもしれない、鍛え上げた丈夫な体があれば、乗り手が変わってもまたしっかりと走ってくれるはずだ。


 最後の役員会の前に、俊彦は一人で墓参りに行った。線香を上げて手を合わせ、先代に退社を伝えた。


「社長。いや父さん、もう知ってるかもしれないけど、会社を辞める事になりました。夢を捨てて会社を継いだ父さんには悪いけど、僕はこの決断が僕自身や家族にとっても、従業員や取引先、会社にかかわる誰にとっても最良の選択だと信じています、だからどうか安心してください。今まで守ってくれてありがとう、そして……輝彦をたのむよ、親父」


 会社がかりの式典は辞退した、退任の日も残業をしなかったぐらいでいつもの週末と変わらなかった。あの頃から一緒に働いてきた先輩や仲間たちが誘ってくれて、みんなであの居酒屋のカウンター席に座った。


 俊彦はあの頃と同じように詩織の隣に座った、ただ二人の気持ちはもう、あの頃と同じではない。


 悲しいような、それでいて肩の荷が下りたような不思議な気持ちだった。

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