4. 寂しい女の子
だが彼女の大人びた印象はそこまでだった。それから彼女はまるで無人島で救助隊を見つけた遭難者のように一方的にしゃべり始めた、ただ聞いていればいいなら楽なようだが、それには俊彦にとって困った問題もあった。
「それがその子、いつも肝心な時に限ってサーブをかっ飛ばすんですよ!」
部活の話しに夢中になった彼女は、ツートーンになった二の腕を大きく振ってサーブの真似を繰り返す。そのたびにさっきまで膝小僧だと信じていた二つのソフトボールが湯の上に勢いよく顔を出す。
二つのボールはまとわりつく湯を振りほどいてまるで水族館のイルカのように宙を舞った、見た目はソフトボールなのに軟式のテニスボール並に柔らかいらしく、たとえ理不尽な形に歪んでも最後には必ず二つ並んで元のソフトボールに戻る。
そのくせ湯に浮くとスプーンで掬ったゼリーのように小さく揺れ続け、硬いのかものすごく柔らかいのか、触った事のない俊彦にはどちらとも言い切れない。
それぞれのボールの真ん中にはかわいらしい桜の蕾のようなものがアップリケのように貼り付いていた。見てはいけないと思うのに俊彦はどうしてもそこから目が離せなくなった。
「一度やっちゃうと次から全部ホームランになっちゃって。それで彼女負けちゃうんです。本当はすごく上手い娘こなのにもったいなくて」
彼女が大げさに拳を握って一人で悔しがる。
少し寂しい女の子なのだろうか?――。
俊彦はふいにそう思った。
小学校の同じクラスに一人だけ、この娘ほどではないが際だって美しい女の子がいた。成長した彼女は地元の有名な私立女子高校に通い始めた、登下校の間に周囲の高校や大学の男子生徒たちがひっきりなしに声を掛けてくる。ただ同じ高校の女子たちからは、なんとなく疎まれているように見えた。
何か身近な人にだけ分かるような性格の欠点でもあるのだろうか?――
一時はそう考えたが、幼なじみのよしみでたまに挨拶を交わす彼女は、小さい頃のままの頭が良くて気配りもできる優しい女の子だった。
二年生の時、地域の高校の美化委員が合同で清掃活動をする事になった。役割を決める話し合いには俊彦も参加したが、そのとき同じ中学だった者たちの間で彼女のことが話題になった。彼女と同じ女子校に通う元同級生の話を聞いて俊彦は真相を知った。
嫉妬というものは、世の中のどこにでもある普通の感情だったらしい、高校二年にもなってそれを知るのは遅いのかもしれないが、俊彦はそれまで誰かにその感情を向けられた事が無かったのだ。だからそれは自分だけが誰かに抱く恥ずべき感情なのだと、そのときまで本気で思い込んでいた。
それが名門校に通うような優秀な女の子たちでも抱くような、ごくありふれた感情だと知ったとき、俊彦は深く安堵した。
だがその晩には昼間安堵した自分を強く恥じた、かつて密かに恋心を抱いた女性に醜い嫉妬を向ける者たち、そんな彼女たちにたとえ一瞬でもシンパシーを感じた自分を俊彦は許せなかった。
もしかしたらそんな気の毒な美人の一人かもしれない目の前の元子海坊主に、俊彦はどう接していいのかわからなくなり、湯の中でただ引き攣れた笑いを浮かべた。
彼女もようやく話疲れてくれたらしい、湯小屋に再び静寂が訪れた。女の子の沈黙には慣れている、だが相手が裸なのは初めてだ。心臓は相変わらず繁華街のゲームセンターのような音をたてて飛び跳ねている、その音が彼女に聞こえてはいないかと、俊彦はあり得ないことが気になった。
「きょ、今日は、す……すごく晴れてますね」
「はい、今日は雲も無いですね」
「そ、そうですね」
会話はすぐに途切れてしまう、前に湯小屋で会った三人組は女同士で好きにしゃべっていたから良かった、周りの老人たちもいつも通りかしましくて小屋の中は沈黙とは無縁だった。だがいまここには二人だけしかいない。
いつもは気持ちのいい熱めの湯が今日に限っては恨めしい、白い膝小僧の正体に気付いた瞬間から俊彦の分身は湯の中で大きく姿を変えている、こんなものを彼女に見られるわけにはいかない。
「渋谷って行ったことある?。イチマルキューって、やたらと若い女の子が集まるビルがあってさ……」
沈黙に耐えかねて出た台詞だったが、これがまずかった。なぜもっと良く考えてからしゃべらないのか。
「そのビルっていつ建ったんですか? ここのお湯、千年近く前から湧いてるんですけどぉ」
語尾が上がっている、目つきが鋭い、口も尖っている――。
俊彦に都会の自慢話をされたと勘違いしたらしい彼女は、返す刃で里の自慢話を猛然と始めた。
彼女はこの山里が大好きで、ここを馬鹿にされることを極端に嫌う、都会への憧れなんてこれっぽっちも持たない女の子のようだった。俊彦はよく考えずに話してしまう癖のせいで、とびきり獰猛な虎の尾をおもいきり踏んづけていた。
彼女はまず、いま浸かっている温泉の泉質がいかに優れているかを解説し始めた。次にどうしてこの村の水が美味いのか、周囲の山々の土に含まれるミネラル分の説明を細かく始めたかと思うと、小屋の前に生えている雑草の名前まで一つ一つ紹介し始めた。
それがやっと終わったと思ったら、今度はすぐ下の川に棲む蛙について話し始める。ずいぶん珍しい習性を持つらしいが、湯にあてられ頭がぼうっとしている俊彦の脳には届かない。経験数十年のベテランバスガイドよりも細かそうな彼女のお国自慢は、その後もまるで毎日練習しているのかと疑うほど淀みなく続いた。
こめかみからひっきりなしに汗が滴り落ちる。もういい、なんでもいいや、何がどうなろうがどうでもよくなってきた。いっそこのまま立ち上がってしまおうか?
だがすっかり姿が変わってしまった分身を彼女に見られたらと思うと、俊彦は天井の梁を一本一本端から順に数えて堪えた。そのとき彼女が唐突に黙り込んだ、気になって見ると目の前に光の雫が飛び散った。
たぶん一瞬の出来事だったはずだ、だが俊彦には飛び散る雫の一つ一つがスローモーションのように完全な形で見えた。大きな湯の塊が空中でちぎれて無数の小さな光の粒になる。それらはゆっくりと落ちて元の湯に戻り、浴槽の真ん中に光で縁取られた古代ギリシャのヘルマに似た柱を残した。
柱にはヘルマに付き物のペニスが見当たらず、真ん中はちょうどレオタードの形に白かった。大理石か白磁器のような美しい艶を持つヘルマは大量の湯気を纏い、上から滑り落ちた雫は一旦へその凹みに吸い込まれ、そこでより大きな雫となってから下に見える薄い林の中へ滑り落ちていった。
ヘルマがこめかみの辺りに手を添えた、何度も大きく胸を膨らませている、広がった胸郭の上に大きな二つの膨らみが乗っている。
三人組の女の子と湯小屋で出くわしたときは、これで一生分のツキを使いきってしまったかもしれないと思った。似た話は昔の文学にもある、林道で出会ったバイク乗りたちからも、多分に願望の混ざった曖昧な噂話として聞いた事はあった。
だがそれはずっと昔の話か、どこかのよほど幸運な男に起こった事であって、まさか自分が経験するとは思っていなかった。だからあれからはもう二度とあんな事は起こらない、起こりっこないと俊彦は思っていた。それがまた目の前で起こっている。
彼女はゆっくりと膝を曲げてタオルを拾うと、向かいの縁に腰かけた。
考えてみれば当たり前のことだ、彼女は俊彦が来る前から湯に浸かっていたのだ。いくらこの湯に慣れた娘でも湯あたりぐらいする、なら男の自分が先に出てあげれば良かった、前を見せたくないのなら後ろを向けばいい、男が女に尻を見られたところで酷く恥じることでもないだろう。彼女の美しい肌に気をとられていなければ、これぐらいすぐに思いついたはずだ――。
彼女は両手を体の脇について、ひざ下で円を描くように湯をかき混ぜはじめた。そこからだと湯の中が見えてしまうかもしれない、俊彦は慌てて太股で分身を隠した。彼女が起こす波紋が繰り返し顔に当たる、彼女に気にする様子はない。
脚の動きに合わせて彼女の胸の蕾みが細かく揺れた、もし彼女が俊彦を湯から追い出そうとしているのならこれは逆効果だ、湯あたりで落ち着き始めていた分身は、蕾みの動きに惑わされ、また息を吹き返している。
生身の女の裸を見慣れない俊彦に動揺を押さえるすべは無かった、湯あたりに耐えきれず、手でそれを隠しながらゆっくりと腰を上げた。
中腰になっただけで視界が夜のように暗くなる、暗闇に無数の星が瞬くと頭の後ろが粟立った。浴槽の縁にかろうじて尻をのせ、自分の膝の上に突っ伏した。目の奥から光る星々が消えた頃、脇にあるはずのタオルをとろうとしたとき、ふらついた拍子に両手を縁についた。努力はむなしく散った。
「ああ、のぼせた……」
気にしていないように装ってそう言えたのは、たぶん一分も経った頃だろうか。視界が戻りはじめると、目の前に一双の白いヘチマのようなものがぶら下がっていた。
「大丈夫ですか?」
彼女の声だ、彼女は中腰になって俊彦の顔を心配そうにのぞき込んでいた。目の前にある艶やかな唇に俊彦はただ素直に「触れてみたい」と思った、遠目に見ていた彼女の顔は、間近で見ると完璧すぎる配置のせいか少し冷たく見えたが、目や唇の端には確かにそれと分かる暖かみをたたえている。
彼女の目がたまに下を向く、視線の先には俊彦のそれがある。湯あたりが限界を超えたせいか、それは力なく項垂れていた。俊彦はゆっくりとその上にタオルをのせた。
顔を上げると彼女は湯からあがろうとしていた、脇を通りすぎる彼女の表情が、さっきまでより険しいような気がする。
俊彦は向かい側の縁に座り直した、意識してそうしたのではなく気がついたらそうしていた。木棚の前に立った彼女は無言のまま体を拭いた、間もなく白い尻が白い下着に包まれ、それもすぐ黒い体操着で包まれた。
ブルマーの裾が彼女の太ももの日焼け跡と綺麗に重なる、彼女はその上に紺色のスカートを穿き、上にはブラを着け最後にセーラーを着た。学校帰りだったらしい。
胸にリボンを結ぶと彼女が振り返った、背中を向けているはずの俊彦が自分を見ていることに少し驚いたようだった、だがその表情はすぐに満面の笑みに変わった。
彼女はセーラーの襟がめくれるほど勢いよくお辞儀をすると、弾むような足取りで湯小屋を出て行った。
自転車をこぐ音が聞こえなくなると俊彦はやっと一息つくことができた、うまくごまかせたらしいと思いながら何気なく視線を落とすと、さっき股に乗せたタオルが、電気メーカーのCMで見たことがあるマッターホルンという山のように、鋭くとがって反り返っていた。
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