2. 十八歳
リーンアウトでカーブに突っ込むと瞬時に後輪が横滑りをはじめた。タイヤの限界ギリギリまでバイクを倒すと、スイングアームが砂利の凸凹をとらえて悲鳴をあげる。少しスピードを上げすぎたか? いやこのぐらいなら大丈夫だ。バイクに乗り始めてまだ半年だが、こなしてきた場数には自信がある。
膝で車体を押さえながら腰をずらして重心を移動させた、左手が繊細にクラッチをつなぎ、右手が勝手にアクセルを開ける。荷物を満載して重量が二百数十キロを超えたバイクがエンジンの唸りとともに子山羊の俊敏さで起き上がる。
授業がない日は砂利道を求めて奥多摩や丹沢を日帰りで往復した、連休になるとキャンプ道具を積んで信州や伊豆の林道にも出かけた。不整地を走るオフロードバイクは倒れるのも仕事のうちだ、転倒を怖がっていてはライディングは上手くならない。実際に俊彦はこの半年の間にハンドルのレバーを何本も折った、荷物には今も予備としてブレーキとクラッチの二本のレバーが入れてある。
長い坂を下りると道は舗装路に変わった、最初の小さな集落を抜けると両肩に乗っていた緊張感がすっと抜けた。文明社会に戻ってきた安堵とともに林道を走りきった満足感が胸の中から溢れ出る、この瞬間は何度味わっても好きだ。
しばらく走るとバイクはいつもの山里に出た、湯宿が並ぶ集落を走り抜けてだいぶ来たところに木組みの小屋があった、俊彦はその脇にバイクをとめた。
灰色に変わった木の柱に錆びた釘が一本打ち付けられていた、先には細い針金がくくられて赤錆びたコーラの空き缶が吊るされていた。俊彦が細長い缶の口に百円玉をひとつ放り込むと、底からザクッと昨日と変わらない重い音が返ってきた。こんなほったらかしで盗られないのかと思ったが、そんな奴はここにはいないんだと、入り口の戸を閉める前には気がついた。
俊彦は足首まで隠す重い革靴を脱いで蒸れた足を木のすのこに乗せた。無精をして脱いだ服は筒のようでまるで蛇が脱皮したようだった、それを造り付けの木棚に放り込むと、俊彦は古いコンクリートの床に素足を踏み出した。床はいつものように冷たい、分かっていても背筋が水を被ったみたいにヒヤリとする。
湯小屋の中は真白だった、窓から射し込んだ日の光が小屋いっぱいに籠もった湯気を眩しく光らせていた。ここはもう何度目かなのにこんなの初めてだ、少し早い時間に来るとこんなことになっているのか――。
俊彦は光に照らされる自分の裸身を想像した、真っ先に思い出されたのはイタリアの街に立つ逞しいダビデ像だった。だがあれは下から見上げた時にバランスが良く見えるように上半身を大きく作ってあるという、痩せ型の俊彦ではまったく勝負にならないはずだ。
実は俊彦が本当に気になっているのはダビデの体の真ん中辺りにぶら下がっているものだった。あれは何百年もの間、観光客の視線に晒されているというのに、特に文句を言われたとは聞いていない。
本当は俊彦もそこまでダビデ像を詳しく憶えているわけではなかった、それでもこんなに気になってしまうのは、海の向こうのものには何であれ過大な期待を抱いてしまう、島国人に独特な感性のせいだろうか?
国際化とか言われるこの時代に、大学生の自分にもそんな昔の片鱗が残っているのかと思うと、俊彦は心底
しかし何で今日は考える事がこうもいちいち陰気なのだろう、エンジンは良く吹けていた、後輪は気持ち良く砂利を噛んだし、難しい場所でも一度も倒れなかった。それでもモヤモヤとするこの気持ちは何だ?
しばらく考えると一つだけ思い当たるものがあった、そのラーメン屋は峠の手前の道端にあった。あの道は何度も通っているのに何であんな真っ赤な派手なテントに今まで気づかなかったのだろう。あんな山の上の何も無い場所にラーメン屋をひらくだけで大した度胸だと褒めてやりたいぐらいなのに、店の名前が「アトランティス」とはどういうことなのだ?
遠く大西洋にあったとかなかったとか言われている伝説の大陸の名前を、アジアの東端の海じゃなくて山の上、しかもおしゃれな地中海料理屋でもなくラーメン屋につけた人物はいったい何者なのか? 林道に入ってからもその疑問がたびたび頭をよぎって俊彦は気が散って仕方が無かった。
湯に磨かれた古いコンクリートの肌触りは軽石とよく似ている、俊彦が踵をわざと擦りながら足を踏み出すと、光る湯気の間に見覚えがある四角い枠がぼんやりと見えた。今日はそこに今まで見たことの無いものが浮いている。
黒いボールのようなもの、大きさは丁度バレーボールぐらいに見える。だがボールにしては不自然に深く沈んでいて、海の町で育った俊彦には漁業用のウキのようにも見えた。
それが急に動いた、体に心臓を捕まれるような戦慄が走り、俊彦は短い悲鳴をあげた。それはすぐもう一度動いたが、俊彦はあまりの気味の悪さに今度は声も出ず、体が固まって動かなくなった。何もできなくなった俊彦は、そのまましばらく待った。だが今度は何も起こる気配がない、緊張が徐々に解けはじめ体が動くようになると、俊彦は恐る恐る湯船に近づいた。
なんだ、人かよ――。
黒いボールと思ったものは鼻の下まで湯に沈んだ人の頭だった。中学生ぐらいだろうか、周囲の山はすっかり秋色に染まっているというのに彼の顔はおでこと髪の境さえ判然としないほど日に焼けている。夏の間にどれだけ外で遊べばこんなことになるのだろう、焦げ茶色の顔の中で大きな目だけがじっとこちらを見つめている。
何だろう、確かこういうものがあったはず……そう、海坊主だ。
考えている事自体が馬鹿馬鹿しく思えて俊彦は何事も無かったふりをしながら桶で湯を被った。目の前の少年に悲鳴を聞かれたと思うと少し気まずい、照れ隠しと腹立ち紛れに俊彦はいつもよりぞんざいに湯に浸かる。すると湯の波紋が子海坊主の顔に当たってしまった、彼は両手を顔にあてて濡れた犬のように首を振っている。
「あ、ごめん」俊彦は慌てて謝った、子海坊主が消え入りそうな小さな声で「大丈夫……」と答えたらしいのがなんとなく分かった。
今年の春に俊彦は東京の大学に入学した、東京からほど近い横浜に家があるのに、俊彦がわざわざ大学の近くにアパートを借りたのは、それが彼が一人暮らしを経験できる最初で最後の機会になるかもしれなかったからだ。
それまで特に何か贅沢をねだるわけでも無く、予備校の金も使わなかった我が子の初めての我が儘を、両親はしぶしぶだが許してくれた。
俊彦は生まれてからずっと横浜の街なかで育っていた、本当は都会を出てみたいとも思っていたが、東京の大学を選んでしまったからにはそれはかなわない、せめて田舎を旅してみようと俊彦は自動車よりも早く免許がとれるバイクを選んだ。
キャンプ道具を積んで訪れた田舎は同じ日本とは思えないほど驚きに満ちていた。初めはキャンプ場に泊まったが、管理されたキャンプ場は二、三度も使うと物足りなくなった。
自然をもっと身近に感じたくなった俊彦は、より山の奥へと向かった。山には至る所に林道が敷かれていて、途中にはテントが張れる気持ちの良い河原がいくつも見つかった。
テントの脇を流れる沢の水を飲んでも腹はなんともなかった、五月蠅いだろうと思っていた沢の音がかえって心地よい眠気を誘うものだということも、俊彦は河原に寝てみて初めて知った。
山の夜空には星が多いと聞いてプラネタリウムを想像していたが、本物の夜空のすがすがしさは、平面に投影されるそれとは次元がまるで違っていた。
はじめのうちはバイク専門誌を見て林道を探していた、慣れてくると道路地図で当たりをつけられるようになり、俊彦は河原にテントを張りながらいくつもの林道を走り継いだ。
林道には砂利道を目当てに都会からもオフロードバイクや四輪駆動車の愛好家が集まっていた、林道の多くが元は林業のために作られた道だから山の中で突然行き止まりになるものも多かった。だが通り抜けられる長い道は地元の人々の生活道路としても使われていて、そうした林道の近くには古い温泉場がよくあった。
日本列島は火山が多い、だから至る所に温泉が湧いているのだと思いがちだが、実際に今ある温泉の多くは人の手によって掘られたものだ、古くから存在し自噴する温泉は実はかなり少ない。そうした温泉には大抵、代々の住民に使われている共同浴場が残されている。
そうした湯小屋は協力金とか何かの名目で百円玉を入れれば誰でも入れるものが多かった、だいたいは簡素な木組みの小屋の中に造り付けの棚があり、他は窓と戸がついているだけだった。大抵は道路に面した戸を開けるといきなり風呂になっていて、誰かの裸の背中が目に入る。
戸を閉めて服を脱いだら棚に放り込み、あとは老いも若きも男も女も小屋の真ん中に一つだけ用意された風呂に一緒に浸かる。それがこうした湯小屋で長く続いて来た当たり前の流儀だった。
湯気が黄色く色づいている事に気がついた、俊彦が西日のまぶしさに立ち上がると、濃い湯気の向こうで子海坊主の目がぎょろりと動くのがわかった。無理も無い、ちょうど他の男の持ち物が気になりはじめる年頃だ。
だがついさっきダビデに打ち負かされたばかりの俊彦に、その注目はむず痒かった。急に隠すと気にしていると思われてしまうから、俊彦はわざと隠さずに歩いた。
まぶしくない位置を探すと結局子海坊主の真向かいになった、俊彦が再び湯に浸かると興味の対象を失った子海坊主の目がゆっくりと真ん中に寄った。その顔がおかしくて俊彦が吹き出しそうになるのをなんとか堪えていると、子海坊主は頭の脇に寄せていた前髪を指で一本一本丁寧に前に垂らしはじめた。
薄く開けられた窓から風が入り込む、日を浴びた草の香りがする風は、黄色く光る湯気を絡ませて湯の上にいくつかの小さな渦を作った。渦が這うように湯の上を流れると、まばゆい光も一緒に連れ去られた。
子海坊主の後ろ髪は少年らしく刈り上げられているようだった、耳から上の髪は丸く豊かに盛り上がっていた、どこかで見たことがあると思ったら傘が開く前のキノコに似ていた。我慢できずに吹き出してしまった俊彦の眉間に鋭い視線が刺さった。
「ごめん、キノコ茹でてるみたいだと思って」
俊彦には子供のころから時々思ったことをよく考えずに口に出してしまう悪い癖がある。
子海坊主は俊彦を見ると無視するようにまた前髪を直しはじめた、古い温泉場にこれほど人見知りをする少年がいる事が俊彦には意外だった。
この里に通い始めた頃、老人たちと一緒に湯に浸かっていると、湯小屋に中学生ぐらいに見える三人組の女の子が入ってきた。慣れた様子で服を脱いだ彼女たちのうち、両端の二人は俊彦に気づくとまだ小さな胸を隠す素振りを見せたが、発育が良かった真ん中の娘は気にする様子もなくそのまま歩いてきた。
最近の都会の子供たちは友達の前で裸になるのを嫌がるらしい、ホテルの大風呂に入りたがらなくて修学旅行の引率の先生たちを困らせているというニュースをテレビで見たことがある。だが初めにあの三人組に会っていたから、俊彦はここにはそんな子供はいないものと思い込んでいた。
前髪を直し終えた子海坊主が湯の上に顔を出した、顔の下半分が船の喫水線のように赤く染まっている。だが俊彦は笑わなかった、我慢したわけでは無い、ただ呆然と見つめていたのだ。
子海坊主の輪郭はほとんどすべてが流麗なカーブで出来ていた、鼻の次に尖った顎の先ですら一瞬の滞りも無い曲線を描いていて、厚くも薄くもない唇は紅を引いたような艶を持ち、日に焼けた茶色い肌が元から大きな目を余計に強く際立たせていた。
こんな整った顔の少年を俊彦は見た事が無かった、「美少年」と言う言葉以外に頭には何も浮かばない。そうした趣向は持たないのに彼の顔を見ると胸が高鳴るのは何故だろう、もしこの子が渋谷や原宿の街を歩いていたら、次の日テレビに出ていたとしてもたぶん驚かない、もし自分がこんな顔に生まれていたら……ついそんなことまで考えてしまう。
子海坊主が居心地悪そうに座りなおした、俊彦の目が相当無遠慮だったのだろう。湯から肩が出た、首の付け根から下が真っ白だ。だが二の腕の途中から先がまた茶色くなる。俊彦はパンダを想像して笑いそうになった、だがさっき睨まれた時の鋭い視線を思い出し、なんとか堪えた。
しかしパンダの側は気づいてしまったらしく、俊彦の顔を恨めしそうな目で見ながら白い膝を抱えた。
子海坊主の視線は俊彦の瞳の奥まで覗こうとしているようだった、出来が良すぎる顔はそうではない者の自尊心を少なからず傷つける、気が付くと俊彦は彼を睨み返していた。
俊彦が中学一年の頃だった、サッカー部員だった俊彦は年の近い少年がサッカー留学のためにブラジルに渡ったことを雑誌を見て知った。
「彼と僕は違う」俊彦が思ったのはそれだけだった、羨ましいとも妬ましいとも思わず、少しの焦りすら感じなかった。
二年生になると同い年の仲間がレギュラーに選ばれた、発表の後、俊彦は監督に呼び出された。
「お前はボールさばきも上手いしパスも正確だ、だが闘争心が足りない。それさえあればお前がレギュラーでも良かったんだぞ。頑張れよ」
監督はそう言って俊彦の肩を親しげに叩いた、それが励ましである事は子供なりにもわかった、だが俊彦はそれから徐々に練習に出なくなった。俊彦は仲間とボールが蹴れればそれで良かった、敵なら仕方ない、だが仲間と本気でポジションを争うことに俊彦は特別な意味を何も見出せなかった。
自分を睨む少年の大きな瞳を、俊彦は渾身の
キノコ、キノコ、キノコ……?
子海坊主の黒い瞳が透き通って後ろの壁が見えたような気がした。胸の中を内臓がせり上がってくる感覚があって、天井と地面が突然ひっくり返るような眩暈がした。心臓がそれまで以上に激しく鳴って、俊彦は大きく目を見開いた。
子海坊主が口を開いた、今度はしっかりとした高い声だった。
「もしかして……男の子だと思ってました?」
そう言われてもう一度良く見ると、俊彦が白い膝頭と思っていたものは、湯に浮いた一双の豊かな乳房だった。
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